kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

身体づくりについて説明

2021-12-24 | 陸上競技

練習のことを。

 

先日からトレーニングのことについてあれこれやり取りをしています。女子のウエイトの負荷が軽いのでその「代替種目」があるほうが良いかもしれないという話になりました。短距離や跳躍で「大きくなる」のは避けたい。この部分は考え方もあると思います。記録を伸ばすことを考えるとウエイトはかなり手っ取り早い気がします。強制的に筋力を上げることができるので。が、体幹部分の強化が本当にできるのかは分かりません。その部分も踏まえて「何か別の形で強化できないか」という話があります。

 

色々な要望を取り入れながら検討。極力「やり方によって差が出ない」という種目も選択。今回の「補強」に関して「理解」と「正確性」を求めたいと思っています。これまでもかなり言っていますが「意識してやるかどうか」によって効果は全く違ってきます。体幹部に力が入っていないのにどのような動きをしても意味がなくなるからです。それなりの効果はあるかもしれませんが、「狙った部位に来るかどうか」というのが大きいと思っています。動きがない補強であっても「意識する」ことができなければ腰が抜けた「形だけ」の補強になってしまうからです。

 

この部分も踏まえて新しい取り組みに対して「説明」をしました。種目的にはそれほど多くありません。しかし、必要な要素が多く含まれています。今回は「ペアワーク」のような感じでお互いの動きを確認するようにしました。例えば「膝」と「つま先」の方向。ここにはかなりこだわっています。女子は膝が内側に向くことが多い。それにより力は逃げます。さらには「鍛えたい場所」に対して負荷がかかりません。これでは何のための補強なのかわからない。徹底的にここにこだわりたいと思います。もちろん本人たちが「意識」してその部分にこだわらない限りすぐに元に戻るのですが。

 

片足スクワットをしました。私の中では「片足スクワット」は「ブルガリアンスクワット」なのですが調べてみると「片足を前に出してしゃがむ」というのが「片足スクワット」ということです。言い方を変える気もありませんのでここで「片足スクワット」というのは台などに片足を上げて行うものだと思ってください。注意点は上記のような感じ。さらに「太ももが地面と平行になる」ことと「曲げている足の股関節が詰まる」という部分が重要になります。色々な形のトレーニングがあると思いますが、目の前にいる選手たちに必要なトレーニングだと思っています。

 

このあたりのことはkbt先生ともkd先生とも話をしています。京都のmtm先生やysd先生と以前話をしたときに「片足での力の発揮」について盛り上がりました。ktbnでは「ホッピング」が頻繁に行われています。片足で力を発揮して身体を遠くに運ぶ。この移動距離が大きければ走るときにも移動が大きくなります両足のスクワットで重いものを上げたとしても「自重」を遠くに運べなければ走りにはつながらないと思っています。そこも踏まえて「片足スクワット」の重要性は高い。さらに「大臀筋」「ハムストリング」「内転筋」も鍛えることができます。フォームが重要になりますがここはしつこく言い続けていく中で対応したい。力の発揮の部分ですね。

 

さらに「サイドランジ」も。これも体幹補強の中には入っています。しかし、これは「負荷」が軽い。本来であればここも「正確性」を重視して「膝」と「つま先」の方向を一致させる必要があります。さらには「体幹」に力が入っていて身体が起きている。ここができなければ「単なる運動」にしかなりません。今回は「内転筋強化」という意味合いを持ってこれまでとは少し違う形の「サイドランジ」にしました。これはかなり負荷がかかります。もちろん、正確にやればということですが。シャフトを背負ってやっていくことで身体のラインも作れるようになります。一回一回正確にやる。かなりです。

 

これまでサーキットBに入っていた「スナッチ」を「ウエイト代替種目」に入れることに。これも少し重くして瞬発的に。その代わりにサーキットBには「MD投げ」を入れることに。真上投げです。これは軽い負荷で瞬発的にやる。下半身で生み出した力を上半身に伝えてMDを高く投げ上げる。上半身と下半身の連動という部分もあります。IH前にはMさんやTさんにもこの部分の練習を増やしてやりました。短期間で強化する部分としては必要かなと思っていたので。

 

そのほかいくつかの種目を組み合わせています。これまでやってきたからという理由ではなく「今何が必要か」を考えながらです。一人でやるのではなく複数の指導体制でやっていますから「意見交換」も必要になります。そのおかげで「何が一番必要か」を考えられる。本当にありがたいことです。


様々な角度から選手に対してアプローチしています。これがどのように出てくるか。とにかく正確な補強をしていきたいと思います。何度も何度も修正していかなければいけないと考えています。時間をかけてどこよりも正確な補強を。しっかりとやりたい。

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ファーストペンギンになる

2021-12-24 | 陸上競技

木曜日。この日も通常授業。7時間です。なかなか(笑)。

 

放課後、ミーティングの後補強とケアになっていました。前日のことも踏まえてkbt先生から話がありました。そこからグループに分かれて話し合い。これがどれだけ真剣なものになるか。次につながるか。変わりつつあるのは確かだと思いますがそれは「微々たるもの」です。本当の意味での変化までは遠い。何を求めてやっているのかを明確にする必要があります。「話し合い」をすることはそれほど難しくありません。形式的な話をすればそれで時間は過ぎます。本当に目指すものは何かを考えたらやるべきことが見えてきます。成長を期待したいと思います。

 

その後、「補強」の時間となりました。その前にこちらから少し話を。これまでも「~をやる」という決意はされていたと思います。が、それがその日だけになってしまう。本当に大切なのは「継続する」ことです。kbt先生も言われていましたが「声を出すことが目的になってはいけない」というのがあります。「声を出す」ことはあくまで「手段」です。練習自体の雰囲気をよくするために「声かけ」や「声だし」をして「前向きに取り組む」ために準備をするのです。しんどくなったら下を向いてしまう雰囲気を「これをやって強くなろう」というものに変える。

 

これは「補強」にも言えることだと思います。「補強」は以前と比べると頻度も負荷も増えてきていると思います。しかし、気が付くと「補強」をすることが「目的」になっている。与えられたメニューをやる。「補強」はやっているが筋力的には上がっていない。この意味は何か。これは話をしましたが「強くなりたい」というのが一番顕著に出るのが「補強」だと思っています。補強は意識して正確にやっていけば「100%強くなる」ものです。筋力は間違いなく上がります。が、変化がないというのは「単に補強をやっている」のです。どこに効果があるのか、何を意識しないといけないのか。それを鍛えると走りにどのように生きてくるのか。そこまで考える必要があります「補強」をするだけでは何も変わりません。内転筋を鍛えるのに「身体を締める」「ラインを作る」ことをしなければ単純に負荷をかけているだけ。正確な負荷ではないので「効果」はほぼ出ません。「やっている」ということが重要ではない。「補強」そのものをやることではない。これはまさに「声を出す」という部分とつながっていると思います。何のためにやるのか。

 

その話をしながら「ファーストペンギン」の話をしました。よくある話です。参考までに。

ファーストペンギンとは

ペンギンは餌をとるために海の中に入ります。そこには天敵がいる可能性がある。それでも誰かかが飛び込まなければ餌にありつくことができない。話をした後にこの言葉について再度調べてみると「ペンギン」は「集団性」が強く誰かが動き出すまで動かないようです。誰かが動くとそれについて動き始める。これは人間の集団でも同じだと思います。誰かがやればそれについていけばいい。楽な話です。しかし、その「誰か」が生まれない限り集団は同じ場所に残り続けます。

 

選手に「ファーストペンギンになれるか」という話をしました。一歩踏み出して自らチャンスをつかもうとすることができるかどうか。止まっていて誰かがチャンスを与えてくれるのを待っている。そんな選手では絶対に強くなりません。前の記事にも書きましたが「集団性」が強ければ異なる行動をとった際に「批判」を受けます。「安定」をするだけで満足しているのであれば「誰かが動く」ことで「安定」が崩れるかもしれないからです。しかし、本当にその場に止まっていて何かいいことがあるのか。悪いことをしているのでなければ「自分から前に出る」ことは必要なことだと思います。一歩踏み出せない者はその時点で他社より遅れを取ります。それで「他の人よりも強くなりたい」というのは「虫の良い話」だと思います。自ら「ファーストペンギン」になって行動を起こす。チャンスをつかみ取る。ここが重要だと思っています。何度も書いていますが「やるのは自分自身」です。レクレーションで走るのであればそれはそれだと思います。そうであれば「高い目標」は口にするべきではない。どう感じ取るか。

 

練習のことについて書こうと思っていたら全く話がそれました。駄目ですね(笑)。また書きます。

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誰がやるのか

2021-12-24 | 陸上競技

思うことを。

 

「変化」を求める話をする。その時必ず出てくるのが「〇〇さんはやってくれない」「〇〇くんは声を出さない」という部分。自分自身は「やっている」「声を出している」が、他の人がやってくれないからというもの。これはどこにでもある話だと思います。車の運転でも「スピード違反」で反則切符を切られる。その時に思うのは「他の人だってスピード違反しているではないか」という「他の人は」という部分。誰もが抱く感情だと思います。

 

ここは本当に難しいなと思います。

 

が、私自身は「自分はどうするのか」という部分が重要だと思っています。周りが「やらない」から自分自身も「やらない」のか。周りが「声を出さない」から自分自身も「声を出さない」のか。自分はどうなのか。ここはすごく大切だと思います。「やらない」「声を出さない」人に対して抱く「負の感情」は誰にでもあります。が、そこに対して「きちんとやらせる」ことにエネルギーを使うことが本当に必要なのかどうか。その時間とエネルギーを「自分が強くなるため」に使うほうが効率的ではないか。

 

人は「足を引っ張る」生き物です。誰かが一生懸命にやっていたら「引きずり降ろす」ことをします。自分自身も「次のステージ」に上がろうとするのではなく、「あいつだけ目立った面白くない」という感情が生まれます。本当は「高いレベル」でやろうとしている人と一緒に次を目指せばいいと思うのですがそういう感情を抱く人は少ない。「~練習会をする」といったら「また勝手なことをしている」「目立ちたいからやっている」と批判が出ます。私からすれば「だったら自分もやればいいじゃん」と思うのですが。「やろう」と思っている人を批判している間は何も生まれません。

 

一例。ある選手の指導をしている。するとほとんど練習をしない選手が「あいつばかり指導を受けている」という批判的な意見を口にする。それを周囲に言い続ける。周りから「贔屓されている」という話を聞くと「指導を受けると文句を言われる」という感情が生まれる。そのため「それなら指導を受けないように質問をしないようにしよう」となる。それって「誰のため?」という話ですが「前進する」ことを良しとしない人が存在するというのは確かです。自分自身が変わるのではなく「変わろう」とする人を戻すという行為。日常生活をしているだけではほぼ感じることはないと思いますが、色々な場面で人の行動を見ていると「間違いなく存在する事実」だと思っています。

 

ここで「自分も指導を受けたい」から「一生懸命に練習をする」ということにはならない。自分自身は「安定した場所」に存在しておいて、「他の人がやるのは面白くない」という感情が生まれる。「人間」なので当然「負」の感情を持ちます。しかし、それをどのように「転換」するかという部分が重要。小説などを読むとこの部分の「葛藤」が描かれていることが多いですね。つまり、誰もが抱く感情なのです。避けては通れない。だからこそそれを「プラス」にするのか「マイナス」にするか。全く違う結果になると思っています。

 

「何か言われる」ということを気にして行動が起こせなくなる。これは最も恐ろしいことだと思っています。「ノイジーマイノリティ」。色々と発言したりコメントなどを書き込む人は「少数派」です。大半の人は「ノイジーマイノリティ」といわれる「物言わぬ大多数」。そしてyahooのコメントなどを見れば分かるのですが「他者批判」は際限なくされ続けます。複数人で実施されているわけではなく「特定の少人数」が実施している場合が多い。行動を起こすことを躊躇するようになる。それは間違いなく「変化」を止めることになります。

 

人は「周囲に合わせる」ことで安心します。「違うことをする」というのを避ける。これは日本人の特徴だと思います。幼稚園の頃から「同じ制服」を着て「同じ教育」を受ける。目立つ行動があれば「批判」を受ける。それが「正しい」「間違っている」というのが重要なのではなく「人と同じ」ということが重要視される。だから「合わせる」という感覚が主流になります。

 

誰がやるのか。それは大きなことだと思います。本当に「やりたい」と思うことがあれば「歩み」を止めるべきではない。「周りがやらない」から「自分もやらない」というのでは先に進むことはないのです。この感覚を持てるかどうか。集団として「ギラギラした感覚」があれば「負のエネルギー」を持つほうが「少数派」になります。そうなると「プラス」の方向に進んでいくことが「当たり前」になる。閉鎖的で保守的な生活をしていたら「変わらない」ことが「当たり前」になる。もちろん「変わる」ことが「良い」かどうかは分かりません。求めている部分がどこにあるかなのかなと。

 

ここ最近は様々な本を読みます。小説も「心の動き」を感じ取るためには必要な要素だと思っています。「結末」を予測して読み進めるのではなく「今」の「感情の変化」を感じながら読むことで色々なモノの見方が変わってくるのかなと。現状維持はしたくない。常に歩みを進める。それは他の誰でもない「自分自身」のためにだと思います。

 

まとまりませんが。

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