22期の常木です。先日最終講義が終わり、あとは小論文を仕上げるだけとなりました。ずっと先の未来に自分の人生を振り返るとき、この一年はどのように思い返されるのだろうと、ふと考えたりします。コロナ禍最終期、転職1年目、週末の稼プロ、度重なるマネージャークラスの部下の退職による兼務続き。「喧噪の2022年度」的な思い出し方をしそうですが、思い出は美化されるので、大騒ぎで楽しかった1年みたいな位置づけになるような気がします。
人間の脳の不思議さというか、悪いことはうまく忘れて幸せに生きていけるようになっていることをありがたく思うことはよくあります。そんな能天気な脳でさえ忘れられない、一番苦しかった時期のことを今回は書こうと思います。
それは新卒で入った会社での3年間です。時は平成元年。バブルがピークに差し掛かる直前の好景気のなか、文系50人、理系200人の新卒の一人として浜松の楽器メーカーに就職しました。大学では散々マーケティングを勉強して仕事もその線で考えていたにも拘わらず、とても不思議な行動にでてしまいました。研修後の配属面接でなぜか経理を希望したのです。本当に自分でもわからない瞬間でした。経理でなければ営業からのスタートで、それがなんとなく億劫だったのか、だとしたら非常に短絡的な発想でした。そして、その一言が一生のキャリアを左右することになるとは、本当に恐ろしいです。今でもFinancial Controllerが私のタイトルですから。
数少ない経理希望として経理部所属となったは良いものの、完全な素人ということが発覚し、一から経理を学ぶことに。しかし本人は後悔と自業自得のはざまで、仕事にも身が入らずミスの連続。簿記の勉強も同期に大きく水を開けられ、4人の経理部配属の新人の中でも一番の劣等生でした。そもそも細かい仕事は好きではなく、自分のやった仕事を再確認することが面倒でたまらない性格もあり、今考えてもひどい社員でした。
他の同期は2年目を迎えるころから子会社の経理を任せられて、本社を離れ武者修行の仕事を得ているのに、自分は本社に居残りで連結決算を担当。厳しい先輩方の指導の下、役員会の資料のコピーが汚いとか、ページを差し替えた後で前に開けたホチキスの穴に合わせてホチキスを打ててないとか、表の余白のバランスが悪いだとか、文句を言われ続けました。エクセルのない時代で、折れ線グラフは手書き。グラフ上の数値は、ワードで作成した数値を小さく切ってのりではる作業でした。計算をミスると、グラフの手書きに戻って再スタートということです。もちろん、複合機なんて望むべくもない時代。コピーの際に原稿をまとめて吸い込んだりもしてくれないので、コピーを一枚一枚した後で、大きな机の上でマニュアルでのソート作業でした。座席もパーティションなどなく、10年目の主任(直属上司)と5年目の体育会出身の先輩が目の前に並んで座って常に監視している状況。2年もすると肩も背中も腕も凝りでガチガチになっていきました。まずは体に出てきたので、次は確実にメンタルやられていたと思うと、ぞっとします。
そんな状況の中で、ストレスに追い詰められた気分を落ち着かせようと、まるで逃げ込むようにして、好きな英語の勉強を始めました。浜松在住のアメリカ人と意気投合して友達になったりもして、毎週末英会話の生活が始まり、結果TOEICのスコアが爆上がりして人事もビックリ。1年半後には憧れのアイビーリーグのキャンパスに立っていました。その1年半も、退職をしてから並々ならぬ努力があったのですが、「あの暮らしには絶対に戻りたくない」という反骨心が原動力になっていたのかと思います。
そんなストーリーも後から脳が断片を繋げて美しくしているだけであって、やはりあの浜松での日々は自分の中では闇でしかないです。自分史の中の黒歴史として、何年経っても思い出してしまいます。心穏やかに浜松を訪れる日はいつ来るのでしょうか。
でも今の常木さんは間違いなくその不可解な行動がなかったら存在しませんからね。黒歴史といえど、大事な分岐点だったんでしょう。
機械の名前が思い出せませんが、昔、シートを載せて映写する投影機のような機械でプレゼンしたことを懐かしく感じます。