12期生の大川鉄太郎です。
Windows 8 Proが安く買えたと喜んでいたら、その分の何倍も
昨今の円安でSSDが急騰して吹っ飛んでしまい、がっかりして
いる小心者です。
今回は目先を変えて日本語の作法について。かなり前から
作文作法について興味がありこつこつと読み続けています。
先日、野内良三『日本語作文術』を読みました。既知の記述も
多かったのですが、いくつか見新しい点がありましたのでそれに
ついて。
目新しい点とは次の点でした。このうち1と2について本日は
書いてみます。
1.素材の文章
2.明治期の日本語
3.慣用句
この種の本の1つのパターンに、文章教室や投書欄などで
収集した一般人の文章を素材としていろいろ解剖して見せるという
やり方があります。野内氏はこれを一種の弱いものいじめだとして
使わず、なんと恐れ多くも谷崎潤一郎や川端康成の文章を素材に
使っているのです。もちろん「実用文の観点では・・・」という
但し書きは付いてはいますが・・・。この料理結果からすると
谷崎が自らの文章読本で「文法に拘らずに書け」(注)と述べて
いるように、文豪というのはミクロの文はひたすら自由奔放に
書いているよう見えます。当たり前ですが、よい文や美しい文を
積み上げていくと芸術になるかというと絶対そんなことはないわけ
です。実務における文と芸術の文とは全く別世界の物であり、
物指しも別物と考えたほうがよさそうです。とはいえこの素材の
選び方はなかなか楽しませてくれます。
注:丸谷才一によれば、谷崎がここでいう文法とは、国文法では
なくて英文法を指しているとのこと。
2番目の明治期の日本語については、あまり多くを直接書いている
わけではありませんが、よい材料を提供してくれました。清少納言
以降の日本語の特質について説明し、そのひとつに抽象概念の記述が
本質的に苦手であることを指摘しています。江戸時代までの知識人は
それを克服するために漢文を使用し、明治になるとそれに代わって
欧文直訳体を使用しました。以前別のところで明治期に欧文直訳体が
知識人の間で意識的に広く使われていたとの記述を読み、「なぜ?」
という疑問がずっと残っていましたがこれで一気に氷解しました。
西洋のモノや概念は当時の漢文や日本語では記述できなかったが、
欧文直訳体なら日本語の限界に縛られずに記述できることを発見した
わけです。その代表格が無生物主語で、個人の思いを排して原因や
理由や根拠を、名詞を駆使して簡潔かつ強力に打組み立てられます。
日本語としては不細工であってでもです。「主語による支配」も含めて、
これらはいわば日本語の機能拡張だったわけです。これは日本が
和魂洋才を進める上でもすばらしい大進歩だったと思います。
このときの経験から日本の中学や高校では連綿と欧文直訳体が
引き継がれてきたわけですが、歴史的遺産として学ぶならともかく、
学習の手段としてならもう過去の遺物です。それなりの日本語表現が
蓄積されているからです。
慣用句や慣用表現については記述に一番力が入っていましたが、
本日はこのあたりで・・・。
Windows 8 Proが安く買えたと喜んでいたら、その分の何倍も
昨今の円安でSSDが急騰して吹っ飛んでしまい、がっかりして
いる小心者です。
今回は目先を変えて日本語の作法について。かなり前から
作文作法について興味がありこつこつと読み続けています。
先日、野内良三『日本語作文術』を読みました。既知の記述も
多かったのですが、いくつか見新しい点がありましたのでそれに
ついて。
目新しい点とは次の点でした。このうち1と2について本日は
書いてみます。
1.素材の文章
2.明治期の日本語
3.慣用句
この種の本の1つのパターンに、文章教室や投書欄などで
収集した一般人の文章を素材としていろいろ解剖して見せるという
やり方があります。野内氏はこれを一種の弱いものいじめだとして
使わず、なんと恐れ多くも谷崎潤一郎や川端康成の文章を素材に
使っているのです。もちろん「実用文の観点では・・・」という
但し書きは付いてはいますが・・・。この料理結果からすると
谷崎が自らの文章読本で「文法に拘らずに書け」(注)と述べて
いるように、文豪というのはミクロの文はひたすら自由奔放に
書いているよう見えます。当たり前ですが、よい文や美しい文を
積み上げていくと芸術になるかというと絶対そんなことはないわけ
です。実務における文と芸術の文とは全く別世界の物であり、
物指しも別物と考えたほうがよさそうです。とはいえこの素材の
選び方はなかなか楽しませてくれます。
注:丸谷才一によれば、谷崎がここでいう文法とは、国文法では
なくて英文法を指しているとのこと。
2番目の明治期の日本語については、あまり多くを直接書いている
わけではありませんが、よい材料を提供してくれました。清少納言
以降の日本語の特質について説明し、そのひとつに抽象概念の記述が
本質的に苦手であることを指摘しています。江戸時代までの知識人は
それを克服するために漢文を使用し、明治になるとそれに代わって
欧文直訳体を使用しました。以前別のところで明治期に欧文直訳体が
知識人の間で意識的に広く使われていたとの記述を読み、「なぜ?」
という疑問がずっと残っていましたがこれで一気に氷解しました。
西洋のモノや概念は当時の漢文や日本語では記述できなかったが、
欧文直訳体なら日本語の限界に縛られずに記述できることを発見した
わけです。その代表格が無生物主語で、個人の思いを排して原因や
理由や根拠を、名詞を駆使して簡潔かつ強力に打組み立てられます。
日本語としては不細工であってでもです。「主語による支配」も含めて、
これらはいわば日本語の機能拡張だったわけです。これは日本が
和魂洋才を進める上でもすばらしい大進歩だったと思います。
このときの経験から日本の中学や高校では連綿と欧文直訳体が
引き継がれてきたわけですが、歴史的遺産として学ぶならともかく、
学習の手段としてならもう過去の遺物です。それなりの日本語表現が
蓄積されているからです。
慣用句や慣用表現については記述に一番力が入っていましたが、
本日はこのあたりで・・・。