照る日曇る日第1652回
「生きること」と「詩を書くこと」、「実際の私」と「詩の中の私」が直結してスパークし、電光影裏に春風を斬る体の詩で、読んでいて気持ちがいい。
長崎の原爆碑文や「源氏物語」のような主語の欠落は何世紀経っても桁糞悪いが、安心召されよ、この詩には主語が満ち満ちている。
「私は私が大嫌い。」(「鏡」)
「私は先生が好きだ。」「私は大丈夫」(「診察室)
「わたしは わたしは わたしは}(「透明な私」)
「私に自由を強制しないで。私に不自由を強制しないで。」(「小鳥を殺す夢」)
「眠れる花」は、「私」が頻出して大手を振って大活躍するダイナミックな詩集だ。
私という主語を軸として繰り広げられる、私と私、私と世界の対話劇。
Iの世界観だ。そしてIはいつしか家族も加わって、一体化された「We」になる。
そんな詩集を読みながら、いつものようにおらっちは妄想する。
自分のことをいっぱしの「詩人」だと思いこみ、だから迂闊なことは書けないないぞ、などとチラリと思った途端に、詩人としての腐敗がはじまり、人間としての堕落もはじまるのだ。
ところがこの人は、そもそも自分を詩人なんて思ったことないから、自分の思うことをあからさまに、書けるのだ。そして思うことをありのままに書いてみたら、精神衛生上も効果的で、精神的な鬱屈も少しは晴れるような気持がしたので、それでどんどん書きまくっているのではないだろうか。
この詩集を何度も読み返していたら、なぜかおらっちは突然、大関松太郎という百姓のこせがれの詩を思い出した。たしか大昔の国語の教科書にあった、そして今もおらっちが大好きな詩だ。以下長くなるが、無断で引用してみよう。
「山芋」
一くわ
どっしんとおろして ひっくりかえした土の中から
もぞもぞと いろんな虫けらがでてくる
土の中にかくれていて
あんきにくらしていた虫けらが
おれの一くわで、たちまち大さわぎだ
おまえは くそ虫といわれ
おまえは みみずといわれ
おまえは へっこき虫といわれ
おまえは げじげじといわれ
おまえは ありごといわれ
おまえは 虫けらといわれ
おれは 人間といわれ
おれは 百姓といわれ
おれは くわをもって 土をたがやさねばならん
おれは おまえたちのうちをこわさねばならん
おれは 大将でもないし 敵でもないが
おれは おまえたちを けちらかしたり ころしたりする
おれは こまった
おれは くわをたてて考える
だが虫けらよ
やっぱりおれは土をたがやさねばならんでや
おまえらを けちらかしていかんばならんでや
なあ
虫けらや 虫けらや (詩集「山芋」より引用)
作者の村岡さんには、この詩に出て来る百姓と虫けらのように、眠ちゃんや花ちゃんや、野々歩さんと一緒に、いつまでももぞもぞ蠢いていって欲しいと願っています。
いついつまでも。
大勢の死者を見送るお屋敷に歴史は深く刻まれてゆく 蝶人