蝶人狂言綺語&バガテル―そんな私のここだけの話第418回
○恩師の喜寿を祝う教え子のスピーチ
中山先生、つつがなく喜寿をお迎えになりまして本当におめでとうございます。私は芸大の日本画の後輩の吉田と申します。本日は中山先生の七十七歳のおめでたい式典に出席することができましてこころより感謝致しております。*1
芸大は、昭和24年までは東京美術学校と申しました。中山先生はその美術学校の栄えある卒業生であります。古くは横山大観、近くはかの平山郁夫画伯などを輩出した伝統と光輝ある日本画科ではありますが、「筆は一本、箸は2本」とはよく言ったものでありまして、絵描きと小説家が3度のご飯を満足に頂戴できることは今も昔も滅多にありません。*2
芸大で出てから15年、いまだ家庭も持てずに、ちびた絵筆一本をなめなめ日夜制作に没頭している私自身が、その生きた証人であります。ところが、中山先生が苦学生の頃は、もっと悲惨でありました。毎晩夜更けに新宿の二光食堂や中村屋の裏手にたむろして、いまでいうホームレスすなわち昔の乞食たちといっしょに、カレーや肉や残飯を失敬してかろうじて飢えを凌いだという思い出話をよく聞かされました。*3
あまつさえ中山先生は当時の日本画科の主任教授たちと芸術上の理論を異にし、日本画のあるべき姿に関しても決定的に対立し、当時事実上画壇のボスであった主任教授のゼミを破門されるという憂目に遭われたのであります。
もっとも先生の方では「こっちから願い下げにしてやったよ」と阿阿大笑されるのが常でありますが、以後はまったく孤立無援のまま既存のアカデミズムや画壇、組織、門閥とは鋭く一線を画して終始独立独歩の道を歩まれました。*3
「食うためには人殺し以外はなんでもやったよ」と、中山先生は豪放磊落、こともなげにおっしゃるのですが、先生の孤高の芸を芸術活動を献身的に支えられた奥様が昨年亡くなられたことは痛恨の極みでありました。
先生とともに筆舌に尽くしがたい苦労をなさった奥様が、もし今日の佳き日にこの場にいらっしゃったらと私たち弟子一同それだけが残念でなりません。生涯の師である中山先生から私が学んだ教え。それは*4
「行蔵はわれに存す。毀誉は他人の主張」の独立不羈の精神でありました。鎌倉山に遁世すること50年。無位無官を貫き、日本画界の“知られざる人間国宝”として遍く世界に知られる山本大山先生。どうかこれからも、世界の大芸術家としての王道を極めて頂きたいと熱望いたしまして、本日のお祝いの言葉とさせていただきます。
- アドバイス
- 1専門的な事柄や特定の業界だけの話題はできるだけ避けることが望ましいが、触れなければならない場合は門外漢にために分かりやすい説明を付け加えるようにする。
- 2自分の存在や主張はできるだけ控えめにする。しかしそのコメントが主人公の人柄をくっきり浮き彫りにする場合には躊躇する必要はない。話者と恩師の人間関係の強い絆があきらかになり、出席者の共感と説得力を生む。
- 3生々しい真実のスピーチは圧倒的な迫力をもつ。この場合は恩師の理解者だけが出席しているという想定であるが、立場に偏した発言は時と所をよく考えて行うことが望ましい。
- 4維新後、海軍卿、枢密顧問官に就任した勝海舟を攻撃した福沢諭吉への海舟の反論。
「ばかものよ自分で守れ」と叱られて茨木さんかと見れば政治家 蝶人