東京ステーションギャラリーで「佐伯祐三展」をみて
蝶人物見遊山記第358回
「自画像としての風景」というスマートな副題がついた回顧展。2度の巴里滞在の折に1日2枚の猛烈速度で描かれた広告ポスターを含めた街頭風景の迫力は圧倒的ですが、私はそれよりも自画像を含めた肖像画の魅力に酔いしれました。
会場入り口に配置されている自画像シリーズも好ましいものですが、彼が妻子や親族をまるで一筆描きのように仕上げた半身像が素晴しい。目鼻口などはぶっとい輪郭で大胆に描かれ、まるで漫画のようですが、被写体に対する好意や愛情がぷんぷん伝わってきます。
この時期(1926年)の静物画の「タラバ蟹」も一気呵成に描かれていますが、生命力の輝きと油を盛ることの楽しさが2乗、3乗、4乗になって、見るものの臓腑に飛び込んでくる傑作中の傑作です。
画家は、蟹でもニンジンでも、愛娘の顔でも、巴里の町角のエスカルゴ便所でも、ポスターでも、カフェでも、建物でも、自分が気に入ったものを、好きなように描く。描きまくる。命懸けで描きまくる。その切実さと快感が見るものに真っ直ぐに伝わってくる。古今東西こんな剛球投手は殆どいませんでした。
そうして、その集大成の最大傑作が、彼の余りにも早すぎた30歳の最晩年に仕留められた「ロシアの少女」です。1928年8月の病死寸前にものされたこの亡命貴族の娘の鼻はL字で描かれ、顔も眼も漫画的ですが、それが同時期の「郵便配達夫」や「扉」、「黄色いレストラン」を凌ぐ凄まじい魔磁力で迫ってくるのはなぜでしょうか?
千両も万両も消えたわが庭にいつしか膨らむ一輪の梅 蝶人