あまでうす日記

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祖父佐々木小太郎半生記~佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」より

2023-10-10 09:15:16 | Weblog

祖父佐々木小太郎半生記~佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」より

 

遥かな昔、遠い所で 第104回

 

第1話 母の眼病その3

 

この御祈祷のあと、綾部から父が来た。この時、老院長は父に向かって「ひとつ一か八かの治療をやってみようと思うのだが」といって父の承諾を求め、その治療が行われた。注射器の針を眼尻の少し上のあたりに差し込んで血を取ったのである。ドス黒い血が太い注射器にいっぱい近く取れた。

 

その翌日、母を便所へ連れていく時、病室から明るいところへ出ると、母は私の肩から手を放して、「これ、畳のフチじゃないか。これ、障子のサンじゃないか」といって、畳を撫でたり、障子に触ったりするのだった。

 

「ああ、眼が見える! 源や! わしは眼が見え出した。うれしいことじゃ!うれしいことじゃ! 勿体ないことじゃ! うれしいことじゃ!」と、まるで気ちがいのように大きな声を出し、変な身振りで二度も三度も躍り上がるのだった。

 

それから畳に身を投げ出し、掌をいそがしくすり合わせて、観音様や院長様にありったけの感謝のことばを並べあげるのである。

 

この騒ぎに病院中の人がみるみる集まってきた。みな百万遍の珠数珠を回してくれた人たちである。眼が見えだしたと聞いて、誰もかもが自分のことのようによろこび、言い合わせたように一回ひれ伏して、観音様に奉謝の祈りを捧げ、祝福のことばが雨のように私たち母子の上に注がれた。

 

母の眼は、それからグングン良くなった。大体元通りになって、生涯さしつかえないだけの視力を保つことができた。

私はこの時おかげを受けた観音様や、親切にしてもらった多くの人々の御恩を忘れることができない。

 

十二坊の病院は、今はない。あの辺もひどく変わって、今は相当の繁華街になっているが、観音様は少し位置は変わったが、通りに面して今もある。後に、ほど遠からぬ場所にネクタイ工場を持った関係から、今はクリスチャンの私であるが、通りすがりには少しくらい回り道をしてでも、時々お参りをしている。

 

馬場治右衛門さんは、舞鶴辺の人と聞いていたが、住所の森というところがどうしても分からなかった。去年ある人から、東舞鶴の森の宮町が、昔は森といった、と聞いたので、行ってみたら、お宮の出口のところに馬場という豪家があった。

 

尋ねてみたら当主を亀吉といい、亡き祖父の名が治右衛門で、碁の名人だったこと、私たち母子の話も祖父から聞いていたとのことだった。私は後日改めて手土産を携え、再び馬場家を訪れ、仏をおがんで旧恩を感謝した。

ただ越前とのみ聞いていた川合おえんさんの住所は遂に分からなかった。

 

    Xを「X(旧ツイッター)」と書く夜長かな 蝶人

コメント
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