祖父佐々木小太郎半生記~佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」より
遥かな昔、遠い所で 第109回
第2話 養蚕教師その4
あとで聞いた話であるが、青野家の人が、「今まで入れ替わり立ち替わり養蚕の先生が来たが、皆相当の年配でヒゲなどはやして威張っていたが、人柄が下品で行儀が悪く、蚕飼いもさっぱりヘタクソで、一度もロクな繭のとれたことはなく、損ばかりさせられた。ところが今度京都から来た先生は、子供あがりの若造で、「これが何をやるか」とたよりなかったが、どうしてどうしてお行儀がよくて熱心で、謡曲も上手だし、お茶の心得もある。蚕飼いも、前の先生方とは全くちがって、上手にやってもらったから、みんなウンともうけさせてもらった」といっていたとのことだ。
それから特に所望されて、あと二年続けて都合三年この村へ行ったが、一度も失敗せず、年々非常に感謝され、記念品として沈金塗の大鯛の立派なものをもらったり、学校の下に「佐々木先生記念桑園」と、大きな標柱を立てた桑園までできた。
その後兵庫県の関の宮、大谷、船井郡の上和知、大倉、何鹿の奥上林、物部などへ、それぞれ二三年ずつくらい行って、私の養蚕教師生活は大正七年まで続いた。
船井郡の時、養蚕組合書記の加舎亀太郎君から、「君には日本一の養蚕教師給料を差し上げる」といって渡してもらった給料が、たしか百八十円だったと記憶している。
この頃までの養蚕は、蚕は在来の小石丸、昔だったから虫も小さく、そう飼いにくいものではなかった。ところが私の養蚕教師時代には温暖育が析衷育に進んで、だいぶ改良されてはいたが、やはり昔ながらの乾燥第一主義で、桑は刻んでいたうえに温度をかけられるから、萎凋して蚕の食欲をそそらない。
蚕はいつも腹を減らしていたから失敗が多く、定石通りにやっても、またしても蚕が腐ったりして、養蚕教師が逃げ出したり、大失敗をして首をくくった者もあったほどで、養蚕教師も、なかなか楽なつとめではなかった。
私は自分のカンで温度の調整をはかり、これが桑の萎凋を防いで、一度も違作などしたことはなかった。とにかくは波多野翁によって率いられた京都府の蚕業は、サン然頭角を抜いたものだった。
ただに技術の上ばかりでなく、人間としても他の地方の養蚕技師とは心構えがちがっていたように思う。私なども、波多野翁がなかったら、人生にどんな滑り出しをして、どんな者になっていたか分からない。
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