あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

祖父佐々木小太郎半生記~佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」より

2023-10-11 10:17:11 | Weblog

 

遥かな昔、遠い所で 第104回

 

第1話 母の眼病その4

 

母は眼病後も7、8年経った頃、胆石病でおお患いをした。

胆石独特のはげしいはらいたがたびたび起こってひどく苦しみ、からだは見る影もなくやせ衰え、医者の薬もききめがなく、再三再四起こるさしこみに耐える力もなく、ただ死を待つばかりのありさまとなった。

 

この時も私は、眼病の観音様に祈ったのと同じ気持ちで、「私の命を3年縮めて母を病苦から救い、あと3年の寿命をお授けください」と、今度は、母の信仰する生まれ在所の稲荷様と讃岐の金毘羅様に、毎朝頭から3杯の水をかむって祈りに祈った。

 

その時の主治医の長澤さんが、「それは手術して胆嚢を切り取ってしまうよりほかに、仕方がない。私がやってみる」といわれた。まだ若い内科医の長澤さんが、まだやったことがない胆嚢摘出という大手術を、衰弱しきっている母の腹を開いてやろうというのだから、これもまた一か八かである。

 

ところがこれがまたみごとに奏効して、母は胆石の病苦を脱し、健康を回復して49まで生きた。

 

この二度の体験、わけても12歳の時の体験は、「まごころをこめた祈りは、必ず神仏に容れられる」という信念を、私に植え付けた。

これが子供心に焼き付けられて信仰の芽生えとなり、私は常に神仏を認め、これを敬い、これを畏れた。

 

後にキリスト教に入信し、いまだ、はなはだ至らない信仰ながら、ひたすら神を求めて祈りと感謝の明け暮れを送っているのは、この少年の日の苦難からもえ出た信仰の小さな芽生えが、雨露の恵みを受けて枯れしぼむことなく育った賜物である。

 

「それ信仰は、望むところを確信し、見ぬものを眞実とするなり」(ヘブル書第11章1節)

これは聖書中、信仰の定義といわれている有名な一節であるが、私が12歳の時の体験は、信仰というにはあまりにも幼稚なものであったにしても、この聖句の一端にシカと触れたものだと思い、かかる機縁を恵み給いし主と母とに感謝している次第である。

 

   熱が出て咳は止まらず眠れないまたもコロナにしてやられたか 蝶人

 

 

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