遥かな昔、遠い所で 第107回
第2話 養蚕教師その2
毎日城丹へ行って見学し、先生にも尋ねて研究し、最善を尽くした。私はこの頃の温暖育の失敗の多いことから、いろいろ考えた挙句、給温のため一つの爐に使う燃料を二分して二つの爐で焚き、廊下にも火鉢をおくようにして、温度の調整と均一化をはかった。
これがたしかによかったとみえて、見事に成功し、上作をとった。あと二年続けて西原へ行き、都合三年毎年上作をとったので、疲弊しきっていた西原も完全に立ち直り、西原の農家に今まで見ることのできなかったすがすがしい畳敷の間ができ、柱には文明開化のさきがけの掛け時計が時を刻んでいる、という生活風景が見られるようになった。
その頃よく養蚕集談会が開かれ、その道の大家連中が来て指導するのであった。私は西原で体験した「修正温暖育」といったようなものを提げて、大家連中の説く定石的飼育法を机上論として排撃し、青二才ながらおめず臆せずやり合って、大家連中をタジタジとさせたもので、同じ仲間でその頃のことをよく知っている梅垣良之助君や出野新太郎君などの旧友と昔話をすると、「君は若い時から、一ッ風変わった鼻息の荒い男だった」といわれるのである。
明治42年にはやはり波多野さんの推薦で、はるばる愛媛県に行くことになった。愛媛県は古くからの特産物である藍が、舶来の化学染料に押されてダメになってしまったので、これに代わるものとして藍畑に替えて養蚕を奨励したのであるが、それがさっぱりうまく行かず、連年失敗で、県の養蚕技師で綾部出身の西村彌吉氏がすっかりてこずって、養蚕先進地で、ことに最近盛名並ぶものなき自分の郷里京都府に救いを求め、技術者の派遣を乞うたのである。
波多野さんのおめがねで五、六人行った中で、私が最年少である。おまけに行ったところは周桑郡庄内村といって、村長青野岩平氏は蚕業熱心家で、県会議長もしているという、声望並びなき人である。その庄内村の養蚕が連年失敗続きで、ことしここをうまくやらなかったら、愛媛県蚕業の前途も危ういということを、西村氏からコンコンと聞かされたのである。私は京都府蚕糸業の名誉にかけて、愛媛県蚕業の危機を救わねば男がたたん、ということになってしまった。
この次に何を言おうかお互いに息を殺せば黙蠢く 蝶人