ねぶた見物を兼ねて、青森の親戚のところに行って以来”フゾクのリュウゼツラン(竜舌蘭)”がその後どうなったか、気になっていたのだけど、台風13号がやってきてしまいナイトを散歩に連れて行けず、リュウゼツランを見にも行けなかった。やっと晴天となって、様子を見にいくことができた。
一番先の方の花はほんの少しだけど残っていて、最後の花を見ることができた。開花し始めてから2度の台風の直撃にもめげず、よく頑張った。いつも一緒に写しこんでおいたムクゲの花も数が減ってきた。立秋も過ぎて、盛夏もそろそろ終わりに近づいてきた。相変わらず、猛暑は続くようだけど、今朝なども湿度は少し低く秋の気配が混じっている。
ここ数日、医療業界におけるジェンダー問題を考えていたら、人間社会というものがいかに矛盾に満ちたものであるかということがわかってきた。なにより、遺伝子を残すためにオスとメスが存在するということが最大の矛盾であると気づいた。人間は常に自分の性というものを意識して生きている。ほとんどの人は自分の肉体的表現型は別として、自分を男性か女性かどちらかに振り分けているのではないか。さらには、どちらにも属さないという人もわずかながらいるだろう。何れにせよ、それぞれの動物はオスとメスという全く異なる染色体を持った生物に振り分けられ、それぞれ異なった役割を生まれ持っている。いまの世の中はそれぞれの異なる役割を無いものとする方向に進んでいるように思う。
AIの力を借りたら、人間社会における男女の肉体的格差は消失するのだろうか?男女はすべからく平等と意識が変わっていったら、全ての女性がゴキブリ退治ができるようになるのだろうか。そうなれば、愛する女性のために嫌々ながらゴキブリ退治をしている世の男性にとっては朗報かもしれない。それとも、それ以前に掃除ロボットが活躍して日本中の台所からゴキブリを駆逐してくれているから、ゴキブリ退治自体関係がないのだろうか。女性の前で頼りになるような振る舞いをすることは、多くの動物のオスに共通するアピールの一つだけど、少なくとも人間に限ってはそういったことはなくなっていくのだろうか。女性にしても着飾ることの意味がやがて消失するだろう。ファッションのユニセックス化は随分前から進んでいるから、その勢いはますます加速していくべきだ。
でも、そのような変化は私は味気ないことだと感じる。むしろそうなっていくということは、多くの人間が機械化されていく一つの過程のような気がする。
相手の人格を否定するようなセクハラ・パワハラの類いは許されないが、かといってどんな話題であればしていいかということもわからない。一人一人のスマホに監視用録音装置つけてその時々の判定をAIに委ねたらいいのだろうか。何だか、考えること自体馬鹿馬鹿しくなる。
リュウゼツランはいよいよ萎れてきて、葉は垂れ下がり、茎にはいくつもの筋が目立ってきた。果てる時が近づいていることが良くわかる。この場所で、この次のリュウゼツランが育つことがあるとしても、花をつけるのは私が死んだあと。人間社会の喧騒をよそに、一つの場所でずっと育ち、一つの生物として気の遠くなる時を経て花を咲かせる。そんな、生き方に感動を覚えるのはなぜだろう。リュウゼツランはどうしてこんな生き方をしているのだろう。最近の私には、それを考える力が残っていない。
それぞれの生き物の生きる目的