昨日は、人生という大きくて長いトンネルには起伏も壁もあって、これを抜けるために、出口に見えるかすかな光を目指すことが人生というものだというところまで書いた。真っ暗闇の中での上り下りとか壁だから、それはもう誰しも不安だらけになる。そうするうちに閉塞感に襲われるようにもなる。私自身、閉塞感が無いかといえばそんなことは全くなくて、生きていることに息苦しさを感じることはしばしばある。
日々壁にぶつかり、あれこれ悩み、現状を打破したいと試行錯誤しているけれど、それらもすべて面倒になって、このまま閉めてしまったらどうだろうという”仮定”が頭をよぎることもあるが、今のところそれを実行に移すつもりはない。幸い、そんな時に助けを求めることのできる人が、周囲にいるということもある。トンネルの中には自分だけではなく、他人も一緒に放り込まれているということを忘れてはいけないのだ。みんなが一緒に右往左往しているわけだし、時々すれ違ったりぶつかったりしている。
そんな真っ暗なトンネルの中でも生きていたら、ともに手を取り合って生きてくれる人はいるはずだ。はじめに暗闇の中で手を握ってくれていた”親”がいなくなったら、あとは自分一人で生きていくこととなる。一人で歩いていると思うと孤独だが、だれかと触れ合うことは必ずあるのだから、一緒に歩いてくれる人を探したほうがいいだろう。もちろん相手は、異性でも同性でもいい。暗い中をさまよい歩いくのはあくまでも自分であり、その魂が欲することをあえて抑制する必要はない。
”人生”という大きくて長いトンネルの中を希望という光に向かって歩いていくのは、それぞれの人間の魂なのだ。それぞれの魂は下り坂の真っ暗なトンネルの中をスマートボールの玉のように転がり落ちているようにも見える。”魂を救済する”などといっても、その救済者の魂もまた暗闇の中でさまよっている。私たちそれぞれの魂がこの暗闇の中にあるのは必然であるのだから、それを救済することなどできない。ただ一緒に固まって歩けば不安が減ずるという程度のことに過ぎない。
目を閉じてみたら誰にでもわかる。
大きくて長いトンネルの暗闇の外には明暗があり、様々な音がある。
そして、自分の魂を感じることができる。
瞑想などという難しいことではない、ちょっとの間目を閉じ、自分を感じてみたらいいだけだ。
スマホを閉じて