先日、鎌倉の由比ヶ浜海岸にシロナガスクジラの赤ちゃんが打ち上げられ、ニュースとなった(由比ガ浜にクジラの死体 絶滅危惧種のシロナガスクジラと判明 2018年8月6日 11時52分 テレ朝news)。赤ちゃんクジラが母親とはぐれてしまったのではないかと考えられている。この時、あるSNS上である女性が、「赤ちゃんクジラ、かわいそうにお母さんとはぐれ、さぞ淋しくて辛かったでしょう」とクジラの赤ちゃんを思いやるコメントをしていた。私は、衝撃を受けた。クジラに対してでも、こうやってその気持ちを思う、これが想像力というものかと、そして私には想像力が不足しているということを思い知らされた。
先月西日本を襲った未曾有の豪雨(平成30年7月豪雨 Wikipedia)の時に、首相以下政府の重要メンバーが宴会を開いていたことが話題となった。そこに参加していた政治家のほとんどは、このような大災害になるということを想像していなかったのだろう。毎年、西日本は梅雨が終わる頃に集中豪雨があるのは私でも知っている。そういったこととあまり縁のない東京暮らしが長くなると、何か大変なことが起こるかもしれないということも想像できなくなってしまうのだろう。想像力の欠けた人が政治家になると、苦しんでいる人のことまで思いが至らず、苦しい人は余計に苦しくなる。
人を思いやる気持ち、というのはとても深いものだ。同情であれば簡単にできるけど、思いやる、その人の気持ちになる、ということは大変なことだ。いじめについてはこれまで何度も考えてきた。それでもいまだに私は意地悪なままで、人の気持ちがわからず日々悩んでいる。どうしたらいいだろうと、妻にも相談したが、こればっかりはさすがの妻でもどうしようもないようで、匙を投げられている。話し合ってわかったこととして、原因の一つは私の育てられ方にあるようだ。妻の知り合いの教育者によると、幼児期の”お砂場教育”がとても大事らしい。ここでうまく育つと、人への思いやり、共感力が高まるようだ。私がその頃どうやって育てられたのかは知らないが、あまりよその子と遊んだ覚えはない。母がそういったことに興味がなかったのか、まだ幼かったダウン症の弟にかかりきりだったからなのかはわからない。情け無いことに、私は弟の気持ちを思いやることもできない。
おそらく、この先も私は人の気持ちのわからない、冷たい人間として生きていくだろう。でも、いつも人の気持ちを思いやるということを心がけていたら、気持ちがわからないなりに多少はわかるようになるかもしれない。人を思いやる気持ち、とか想像力というのは天性のものかもしれないが、努力すれば手にすることができるかもしれない。これからでも遅くはないはずだ、その努力をしてみたいと思う。
この子たちの気持ちも