昨日、私はブログを別な自分で書いてみた。それは、”僕”という表現で自分を表したということでしかないけど、ナイトとのことをそうやって書いたら今までになく新鮮な感じがして驚いた。僕が僕として考えたことを文章にするということはこれまでしてこなかった。
私が私と書くのをやめることはない。病理のこと、医学のこと、仕事のことを書くときは、”私”が喋った方が良いと思うし、ブログの記事とは言っても、どこかで仕事に結びついていくので、しっくりくる。
最近、コロ健というハンドルネームを使うことが少なくなってきている。表現として誤ってはいないし、私としてはお気に入りの名前だ。ただ、”コロ健としては”とか、”コロ健的には”とか、そういう文章の時にしか使えないのだけど、そういうタイミングが最近少ない。どうしてだろう。精神的に、犬のレベルから人間のレベルに進歩したからだろうか?このブログを成熟した大人が書いているものに育てようとしているからだろうか?
これから先、このブログに私が考えることだけではなくて、僕が考えることも書いていこうと思う。ブログを書いていく上で、スタイルが乱れてしまうのはあまり良くないだろう。私の書く文章が好きで、読んでくださっている方にしてみたら、”僕”の書く文章はつまらないと思うかもしれない。
実験というほどの大それたものではないけれど、この試みは面白そうな気がする。私と僕、ついでに(たまにだと思うけど)コロ健がいろいろな形で出てくるブログになったらどんなになるだろう。一本の小説では主人公は私か僕かそれ以外の誰か(神の視点?)で統一されてしまう。筒井康隆だったと思うけど、そのことを打破しようとしてか、多重人格者を登場させる小説があったけど、毎日文章が完結するブログの中で複数の語り手(でも、同一人物)によって記事が書かれるというのとは、違う。結局しんどくなってしまうかもしれないけど、やってみよう。
コロは僕、私はナイト?