こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

それでも人生はそれほど早く終わらないものだから

2012年12月16日 | 日々思うこと、考えること
一週間ほど前、ふと、こんな言葉が頭をよぎった。気になる言葉だったので、書き留めておいた。
その後「いったい俺は何を考えていたのだろう」と、途方に暮れたのだけど、少し時間ができたので、整理して、順序立てて考えてみた。

このことを考えた瞬間、私はたくさん知りたいこと、やらなくてはいけないことがあるけれども、結局のところどれほど頑張ったところで一人の人ができることなどたかが知れている。だから、無理して頑張ったところで意味がない、あきらめよう、みたいな気持ちを持ったようだ。

そして、その直後考え直したようで、人生50年とはいっても多少はそれより長いわけで、それほど早くに終わるものではない。
すべてのことを知ったり、成したりすることはできないけれど、前向きに頑張ってみようよという、気持ちに変わったようだ。


むろん、人生の長さを自分で決めることはできない。
人より長いか短いか、比べるようなものでもない。
人を殺したりしない限りは、いいか悪いかも誰にも決められない。

人生とは、その人固有のもの、というかその人そのものなわけで、そこにいろいろな人、すなわちいろいろな人生がかかわる。

人生が早く終わるものではない、というのは、もう一度、二度チャンスがある、という意味にもなる。日本は一度落伍すると復活が難しい社会だが、それでも挽回のチャンスというものが無いわけではない。

人生、それほど早く終わるものではない。
私自身、この先の人生があれば、もう一花咲かせてやろう、と思う。



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書店のブックカバー

2012年12月15日 | 読書、映画、音楽、美術
2年前のクリスマスプレゼントに娘からもらったブックカバーが見当たらない。
家の中のどこかにあるだろうとたかをくくっていたのだが、見つけることができないまま3か月もたってしまった。

したがって、本は書店でブックカバーをかけてもらっている。
通勤路の途中にあるのが紀伊國屋書店。中学・高校時代に渋谷東急プラザの中の紀伊國屋書店にしょっちゅう行っていたのでここのブックカバーはなじみ深いし、一番気に入っている。

渋谷駅を挟んで東急文化会館には三省堂が入っていたが、ヒカリエには入っていないようで、残念。
私自身、通勤路を変えてしまったので、三省堂書店を利用する機会がめっきり減ってしまった。
以前の通勤路にあった三省堂書店はまあまあの品ぞろえだったが、今使っている紀伊國屋書店の方が品揃えも気に入っている。
三省堂書店のブックカバーを探したが見当たらなかった。
紀伊國屋、三省堂とくれば、丸善となる。
洋書の丸善であり、30年ほど前あたりは、日本橋の高級書店として君臨していたように思える。

書籍以外にも高級文具、紳士服というイメージが強い。
日本橋の高島屋に行ったとき、ついでに覗いてみるが、書物の点数には圧倒される。
ブックカバーもなかなかセンスがいい。
お気に入りのブックカバーと言えば、銀座教文館。
文庫版は緑色の帯、ハードカバー版はオレンジ色の帯、いずれもいい色で、KYOBUNKWANの文字も品がいい。

鎌倉を代表する島森書店。
蔵書印のような判子が洒落ている。
島森のブックカバーをしていると、鎌倉で本を買っています!と主張しているような気になる。
エキナカであれば、JR系のKIOSK、BOOK1stは東急系なのだろうか、それぞれ悪くはないのだが、私のお気に入りではない。

ただ、発車時刻前にちょこっとした時間があると、つい何か買ってしまうことが多く、ブックカバーもずいぶんたまっている。

紙のブックカバーも、以前よりずいぶん薄くなったような気がする。それでも、書店で買うことの目的の一つとしてブックカバーがある。
やっぱり、紙の本を、あれこれ手に取って見比べて買う。この行為というのは、知性に触れることが難しい日常生活の中にあって、知的好奇心を満たしてくれるものだと思う。

本屋さん、通販、電子媒体の出現によってずいぶん苦労されているようだけど、書店という知の遊園地を守り通してほしい。
私は、この先もなるべくは本は手に取って中身、大きさ、装丁、重さを確認してから読むことにする。

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一段と寒く

2012年12月14日 | 通勤・交通・旅行
今週は先週に比べてぐっと気温が下がった。
今朝も、鎌倉の家を6時半に出る時は零度。7時半に東京について歩きはじめても、建物の影を歩くことになるので、体感温度は氷点下に感じられる。
しばらく歩いて、畑のある辺りまで来ると霜がうっすらと野菜を覆い、霜柱がのぞく。

日本の四季というのは、すくなからず日本人を鍛えてくれているように思う。
今年の夏だって、いつもの夏と同じように暑かった(冷感グッズで夏を乗り切る)
そんなのがウソのようにたったの4ヶ月でこの寒さ。四季折々この寒さに対応しているのだから、体のいろいろな機能も順応のために鍛えられているはずだ。
それにしても、今年の寒さは結構体にこたえる。
12月中旬(早い!)でこれほどの寒さ。体感温度は1月中旬のような気がする。本格的な冬が来たら一体どうなるのだろう。
その分紅葉を楽しむことができたと思えばいいのかもしれないのだが。

去年の冬、ボーイスカウトのプログラムの一環でホームレス支援活動に参加した息子はホームレスの人たちのことをとても心配している。毎冬、凍死する人が何人もいるそうだ。

さてその息子だが、、センター試験では地理Bを選択している。さすがに世界の気候について詳しく、倫社・世界史のコロ健が現役受験生の質問に答えられるわけが無いのだが、私をへこます格好の機会と、ことあるごとに問題を出してくる。年に2度雨期のある地域、などという質問に「北回帰線と南回帰線の間」と答えたら不正解で、「赤道の辺りは、年中雨期に相当するから、それより緯度がちょと高かったり、低かったりするところなんだなー」と、解説された。年中雨期だと困るので、雨期乾期雨期乾期というようなところだとちょうど良くて、住みやすかろうと、寒さの中歩きながら、息子との会話を思い出す。

ここのところ、心体ともに不調気味だが、原因の一つは寒さも挙げられよう。
こんな時は、通勤など外出時には防寒対策をしっかりして、十分な休息をとるように心がけないと、この寒い冬、とてもじゃないが乗り切れそうも無い。

ところで、双子座流星群、昨晩がピークだったようで、妻と娘はしっかり見て、たくさん願掛けをすることができたらしい。私はと言うと、あっという間に寝入ってしまい、見ることができなかった。
今年最後の研究会に出て、病理医仲間とささやかな忘年会。相変わらず、どこも病理は深刻な人手不足のようだ。

さて、鎌倉に着く頃には星もくっきり見えるだろうと思って横須賀線に乗った。
流れ星、今夜も多少は見ることができるらしいので、探しながら段葛を歩いてみようと思っていたのだが、あいにく今夜は曇り。星空を見ることはできなかった。
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病理医は医療界のプロファイラー

2012年12月13日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
鎌倉、正確には北鎌倉が舞台の小説を妻が持っていたので、私も読んでみた。主人公がプロファイリングで、身の回りにおこる事件というか、ゴタゴタを解決していくのだが、読んでいてあることに気がついた。
プロファイリング・・・犯罪捜査において、犯罪の性質や特徴から、行動科学的に分析し、犯人の特徴を推論すること(ウィキペディア)

これって、医療における病理医の仕事と同じじゃないか、ということ。
”犯罪”を”病気”に置き換えて、文章を整えれば以下のようになる。

病理診断・・・病気の診断において、病気の性質や特徴すなわち臨床経過から、病理組織学的に分析(解析)し、病気の特徴を推論すること(by コロ健)。

臨床経過をもとに、外科的、内科的に採取されてきた組織を適切な方法で、標本にして診断していくということになる。いつも言っていることだけど、病理解剖はその究極の形だ。
組織学的所見から、その病気の原因を探っていく、という作業は、まさしく人の人生のプロファイリングだ。
なぜなら、病気の原因とは、環境因子であったり、遺伝的要因であったりと、その人が生きてきた軌跡そのものであるからだ。

おお、病理医って、病院におけるプロファイラーだったのだ、と気がついたら、なんだか自分がカッコいい仕事をしているように思えてきた。
こういう観点からなら、なにも、法医学がらみでなくても、小説やテレビドラマの題材にもなるだろう。

有名人が病気になって、その原因を病理医が明らかにしていく、とか、ありふれた病変と考えられていたものが、組織学的には環境に関連した疾患であることを病理医が明らかにしていく、とか。

ただ、私は、小説にしても、ドラマにしても、ブログにしても、たとえ架空の存在としても患者さんという悩み、苦しむ人を題材にすること自体が発想として受け入れられないので、アイディアはあっても現実化することは難しそうだ。

人の生老病死を描くことはできそうも無いので、こんきもで自分のことを記録するしか無い。そのうち、自分が病気になったら、これまでのことを振り返って自分の人生のプロファイリングをしてみよう。


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ビブリア古書堂の事件手帖―栞子さんと奇妙な客人たち (メディアワークス文庫)
アスキーメディアワークス

大きな寄せ植え鉢

2012年12月12日 | ガーデニング・菜園・花・緑
ここのところ、寄せ植えに凝っている。
これからの季節、緑が減って、一昔前にはこれといった花が無かったのだが、品種改良のせいもあるのだろう、この時期でもおどろくほど綺麗な花を見ることができるようになってきた。

ガーデンシクラメンやパンジーのほかにも、この間見つけたKIRARAもよく咲いている。

2週間ほど前に、病院の前庭の通路脇などで、ボランティアの人だろうか、何人かで花を植えていた。
私からみれば、大きな寄せ植え鉢、飛び入りで参加したかったところだが、なにぶんこちらの勤務時間。残念ながら横目でチラッと見ただけだった。

この間の休日、結構広い庭をあちこち歩き回ってみた。

意外なところに、地面があるもので、確かにこういうところにも植えると良いと思える場所がたくさんあった。
ちょっと広めのところだと、ずいぶんな数の株を植えていても隙間が目立つ。

だが、パンジーやビオラは、これからどんどん大きくなる。これらの花壇も早晩地面が見えなくなるほどに花が咲き競うだろう。とても楽しみだ。
  

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パパにさようなら

2012年12月11日 | 家族のこと
「ねえ、これからは、お父さんて、呼びたいんだけど」
バースデイケーキに立てたロウソクに、少しかがんで火を灯していた息子が急にそんなことを聞いてきた。

「え?俺のこと?」

「そう。ほかに誰がいるの。」

「そっか、もう、パパはやめか。」



横から妻が、「どうして急にそんなこと言い出したのよ。まだ、パパのままでいいじゃない。」と口を挟む。
火の灯ったケーキを前に息子が、
「ケーキを頼むときに、プレゼントする相手の名前をいうでしょう?そのときに、“お誕生日おめでとう、パパ”っていうの、恥ずかしくて。この先もこういうことあるだろうし。」
と言っている。

紅茶を入れていた娘に、
「あー、もう、ロウソクが終わっちゃう!お兄ちゃん、早く運んで!」と促されて、息子がケーキを運んできた。
Happy Birthday to Youの歌詞は、「ハッピーバースデイ ディア パーパ(妻と娘) お父さん(息子)」と入り乱れていた。



そのあとは、美味しくケーキを食べながら、コロ健40代最後の誕生日を3人で祝ってくれた。

その間も、妻は、
「なんで、まだパパ、ママで良いじゃない。パパが嫌なら、ママだけでもそう呼んで」とか、
娘が、
「あたしはどうしよう」
といったら、
「女の子は、いいの。私だって、パパが死ぬまでパパって呼んでいたし、今でもママのことはママって呼んでいるでしょう。だから、ママのままで良いの。」
などといって、ママと呼ぶように子供達に言っていた。

息子の気持ちもわからないではない。上背が185センチ近くあって、少し向井理に似ているイケメンの高校三年生が、ケーキ屋で「名前は、パパって、入れて下さい」というのを想像すると、親からしてみれば可愛いものの、本人としては顔から火が出るほど恥ずかしかったのだろう。

もちろん、ケーキに乗っているプレートにあったのは、"Happy birthday おとうさん"だった。



私が両親のことをパパ、ママと呼ばなくなったのも高校三年の頃だったように思う。
ある夜、両親のいるところに呼ばれ、親父かお袋のどちらが言ったかは忘れたが、改まった感じで、
「これからは、お父さん、お母さん、と呼んでくれない?」と通告された。そのとき言われた理由としては、パパママでは、いつまでたっても子供っぽいし、親達のほうも、甘やかしてしまうから、というようなことだったはずだ。
それに比べれば、息子から言ってきたこと、私のように甘ったれていたよりは、自分から親離れをしようと、立派なことのように思われる。
まあ、そもそもこんな話、小さい頃からお父さんお母さん、とか、お父様お母様と呼ばせている/呼んでいる人が読んだら、一体何をそんなに騒ぐほどのことか、と一笑に付されそうで、我ながら書いていて若干恥ずかしくなる。


その後、すなわち私の誕生日から数日経つが、息子が私に話しかけてこない。

照れくさいのだろう。そうはいっても、「ねえ」とか、「ちょっと」とかでは困る。
まずは、「お父さんはね」などと、自分から言ってみた方が良いのだろうか。

妻はその後、「おとん、おかん、はやめてよ」と多少軟化している。

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あなたこそが主役だから

2012年12月10日 | 生き方について考える
本人はそんなつもりは全くないのだろうけれど、なんとなく、人に遠慮して生きているように見える人がいる。大きなお世話だと思うのだが、そういう人をみると、もっと思い通りに、主体的に生きてみたらどうかと思ってしまう。

今年は十数年振りに自殺者が3万人を下回りそうだということが報道されている。それでも2万人以上の人が自殺しているわけで、事態は深刻なままだ。うつ病になったり、そうでなくても死にたくなったりして自殺していく人というのは後を絶たないのだろう。死のうとしている人へのメッセージというのも軽々に発信するわけにいかない。無思慮な励ましは無意味であるばかりか、心が傷ついている人を追い込む。
生活困窮が自殺の原因の一つに挙げられている。そのほかに、社会生活を送っていくうえで心が疲れ、傷ついて死を選ぶ人もいる。
では、なぜ心が傷ついてしまうのだろう。それは自分よりも周りを優先しているからではないか。周りのことを気にしているから、自分が疲れてしまう。

自分が生きていくうえで大切なことは、自分が幸せになって、その幸せを周りの人と分かち合う、そんな風に考えることはできまいか。
表現が難しいのだけど、「自分さえ良ければ」とは違うことだし、「トリクルダウン理論」のいう強いものが富めば、貧しいものにもそのおこぼれをしたたり落とさせる、というものとはまったく違う。

おとぎ話、昔話では、主人公だけでなく周りの人もみんな幸せになって、末永く仲良く暮らす。

自分こそが人生という物語の主役で、その物語はハッピーエンドに終わらせなければならないのだ。
ハッピーエンドの物語には数人の悪人も出てくるけれど、その悪人達もエピローグでは救われる。
私自身はそんな話を生きてみたいし、すべての人がそれぞれの物語の主役になって生きて欲しい。

あなたこそが、人生という物語の主役なのだから、あなたが幸せになっていいし、幸せにならないといけない。
もちろん、それは、簡単なことではないけれど、すくなくとも、周りに振り回されたり、意地悪をされるからといって主役の座を降りるなんてことはしないで欲しい。


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冬の日差し

2012年12月09日 | 日々思うこと、考えること
今日はオンコール当番ではあるが、幸い呼び出しは無かった。
休日、2、3時間ちょこっとだけ病院ですきな仕事だけをする、というのは効率がよい。といっても、マッペの山が消え去っているわけではないので、それが少しでも低くなるように努力している。臨床医で患者さんが入院中というのであれば、その間は毎日顔を出すのかもしれないが、私くらいの年になれば、下の先生に任せるのだろうか、そうしている人はあまりおらず、これくらいの年になると病理医も多くの勤務医も患者さんからのどれほど拘束されるかというとさほど変わらないような気がする。
もちろん、四六時中、患者さんに寄り添っている年配の先生がたくさんいることは重々承知している。

さて、今日みたいな日の出勤は、始業時間が決まっているわけではないので、昼間にのんびり行く。鎌倉が混み始める9時過ぎに家を出れば、都内に着く頃には日も高い。その時間の通勤路の風景はいつもと違う。休日ということもあり、駅に向かって歩いてくる人は少ないし、道行く人は皆のんびりしている。

空を見上げると、色はすっかり冬の空だ。

冬空を言葉で表現するのは結構難しい。

きついほど風景がくっきりする夏空に対して、冬空は雲一つないにも関わらずなんとなくさびしい。弱々しい太陽の光のためかもしれないが、照らし出されるすべてが何となくぼんやりしてくる。
木々の葉もずいぶん落ちて、木肌がむき出しになっているのも相乗効果を生み出しているのだろう。
冬の日差しが嫌いというわけではなく、柔らかいという表現もある意味当てはまる。今日のようによく晴れた日の昼下がりの日向ぼっこは気持ちがいい。
病理診断科の部屋は南向きなので、空調をわざわざ入れなくても温かい。

だが、冬の弱い日差しをみると、どうしてもいよいよ本格的な冬の季節の到来を覚悟しないとならない。そうすると心のほうまでなんとなく冷え冷えとしてくる。

溜まっていた仕事を片付け、金曜日に届いた年明けの症例検討会の標本に目を通し、メールを整理するとだいたい4時間くらい。
メールの整理といっても、仕事関係のものしかないので、それほどの数にはならない。研究のディスカッションをしようと思っても、直接話した方が早いので、いつ会うことができるか、と言ったようなことしかやり取りのみだ。
診断難渋例は、現在のところ1例までこぎつけた。あとは、剖検例が待っている。

南風が吹きぬけた昨日から、今日はぐっと冷え込んできた。
明日の朝は、どんな冬空が広がっているだろう。

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今年初めての・・・

2012年12月08日 | 日々思うこと、考えること
年中行事や季節の知らせには、今年初の、というのが接頭辞に付くことが多い。
師走に入って、今年最後の今年初めてのことといえば、忘年会をおいてほかにない。

昨晩はその忘年会シーズンの幕開けとなる某研究室の忘年会におじゃました。

共同研究で大変お世話になり、おかげで、成果を去年ノルウェーで発表することができた。
さらには、今年は論文中のフィギュアが某雑誌の表紙に採用されて、私が撮ったマクロ写真と電顕写真が表紙を飾った。こういう僥倖にめぐまれると、科学者の端くれであってよかったとつくづく思う。

科学論文では、動かぬ証拠である病理組織の所見が入るとグレードがぐっと上がるのは当然で、某研究室の先生にも、そういった意味で貢献できたのであろう。
よいパートナーに恵まれての幸運を思い出しながら、ともに一年を振り返ることができた。

今年も、残すところあと3週間ほど。

いくつか忘年会があるが、酒が飲めるから、という意味でなく、共に過ごした一年を振り返ることができるという意味で、とても楽しみである。

昨晩の忘年会、とても楽しかったのだが、飲み過ぎての二日酔いで、今日の午前中は使い物にならなかった。平日にもいくつか忘年会がある。二日酔いには気を付けねば。
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良医の条件

2012年12月07日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
日本では、手塚治虫の漫画『ブラックジャック』が、医者の一つのモデルのようになっている。医学部の同級生の中にはブラックジャックのようになりたいと言ってはばからない奴は何人もいたし、いい年になっても、医者を目指したのはブラックジャックにあこがれてでした、という同僚もいる。

私がブラックジャックに出会ったのは、小学生の頃、漫画としてはとても面白かったし、大きくなって読むと、その正確かつ詳細な内容には感服する。
だが、私はブラックジャックのようになりたいと思ったことはこれまで一度もない。

先日の記事(『人柄で選ぶか、能力で選ぶか』)で、

医者にしても、人のよいヤブ医者にかかるよりは、少々口が悪くても腕のいい医者にかかった方が良いに決まっている。外科などでは、「おれは、腕一本でここまで来た。人柄なんか評価してくれなくてもいい」とうそぶいている医者は多い。といっても、実際のところ、傷つき疲れた患者の心に気持ちのいかない腕のいい医者というのが良い医者なののかどうかもわからない。

と書いた。今日は、その続きのような話である。よい医者を表現する言葉としては、“名医”がある。名医となると、ちょっと敷居が高いので、ここでは良い医者ということで”良医”というものの条件を考えてみたい。
腕一本でやってきたような外科医、脳外科医などは、ブラックジャックを彷彿とさせる。こういう医者にとっては、人格など確かに二の次かもしれない。「嫌ならこなければいい、自分を必要としている患者はゴマンといるのだから。」ということになる。
そこで、いつも私が考える「人の良いヤブ医者にかかるのが良いか、口は悪いが腕のいい医者にかかるのが良いか」ということを思い出す。
そんなの腕のいい医者に決まっている。とはいかないということに気がついた。

癌にしても、心不全にしても、手術をして治る見込みのある状態であれば、腕の良い医者にかかれば病気は治るかもしれない。そのような場合、この腕のいい医者は、良医である。
だが、治る見込みの無い状態の患者さんに対してまで、無理に手術をするようではいくら腕が良くても困る。むしろ、自分が旅立っていくのを優しく見守ってくれる医者の方がよほど良い。

いろいろな局面で良医はいて、自分は良い医者で、あいつはダメだ。などということはあり得ないのだ。

だから、私がブラックジャックになりたいと思わなかったのだろう。医者にもいろいろあって、私の場合は、表舞台に立たなくていいから、患者さんに寄り添っていくことのできる医者になりたいと思っていた。
だが、ちょっと甘いところもあった。
私の場合、夜昼問わず、患者さんの側にいて手を握っていてあげればいい、程度のことしか考えていなかった。終末医療というのはそういうものではなく、深い専門知識があってはじめてそう名乗れるものであるということを知ったのは、ずいぶんあとになってからだった。

現在、病理医となってブラックジャックにも、青ひげ先生にも、およそ小説、ドラマで主人公をはれる様な医者にはなっていない。それでも、ここで良医を目指してそれなりに頑張っている。
どれだけやれば、どの程度までになれるかなど、わかりはしないのだが。


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旅立ちは誰しも一人で

2012年12月06日 | 日々思うこと、考えること
歌舞伎役者の中村勘三郎さんが昨日亡くなられた。心からご冥福をお祈り申し上げたい。
生まれつき無粋なコロ健、歌舞伎をじかに観たのは5回ほど。でも、最近はWOWWOWの平成中村座を月に一度は観て、機会を見つけていってみたいと思っていた。新聞、テレビの報道でも歌舞伎会の次世代を切り拓きつつあった勘三郎さんの、57歳という早すぎる逝去を悔やむ声にあふれていた。

先日、亡くなられた歌手の桑名正博さんは私より10歳上の59歳だった。かっこ良く歌う姿が印象的であった。
10歳の年の差なんて、ごくわずかで、自分もいつ重い病気に罹って、亡くなってしまうかなどわからないものだと痛感する。
病気ならずとも、下敷きになった車三台に乗っていた9人が亡くなられたという、中央高速道路笹子トンネルの天井崩落事故という痛ましい事故のように、いつなんどき、死が訪れてもおかしくはない。北朝鮮が準備を進めているという、ミサイルにしても地上のどこに落ちてくるのかわからない。
人を含めて生きているもの、みな死に向かって生きているということはよく知っているし、その長さに差があることも知っている。

ここのところ、多くの訃報に接して、つよく思うようになったことがある。
みんな、死ぬ時は一人なんだ、ということ。
このことって、あまり気にしていなかった。

でも、ふと、残された人のことを思ったら、死んでいく人のさびしさが忍ばれた。

私が死ぬ時は、一人で死んでいくだろうし、ほかの誰もみな、死ぬ時は一人だ。
ミサイルをうちこまれて、その場にいる人が同時に殺されるからといって、その場にいる人がみな、一緒に死ぬという意味にはならない。

人間は一人で生まれてきて、一人で旅立っていく。

だからこそ、死に行く人のことは優しく送ってあげなくてはいけない。


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人柄で選ぶか、能力で選ぶか

2012年12月05日 | 日々思うこと、考えること
先日、元代議士の某氏が今回の総選挙に寄せて、「毎朝、駅立ちしている人もいるが、私は毎朝、勉強会を開いて情報交換していた。」というようなことを新聞に書いていた。自分たちのようなよく勉強をする人間こそ政治家としては良く、駅前に立っているだけの政治家はどんくさい、みたいなニュアンスが思いっきり漂っていた。現総理大臣もたしかそんなだったはずだが、そのことを知らないわけではないだろうから意地が悪い。それに、見方はいろいろあって、今朝の通勤時のように、電車が一度に2路線もダウンしてしまって、駅立ちしていた候補者が普段と違う群衆の波にまぎれて、立ちすくんでいるのを見て、「この候補者さん、今日ここにいるからこそ、通勤の大変さがわかるだろう。たまたま今日は、選挙がらみだけど、選挙でなくても毎日駅立ちしていれば、こういう風景を見ることもあるだろう。永田町界隈で朝飯をつつきながら、人の噂話をしているようではこういうことはわからない。これはこれで意味がある」と思った。
どんなことでも、意味があるし、それが継続されたものであればなおさらである。

よく、「人がいいというだけでは政治家としてはどうか」という。
たしかに、人柄だけで一流のプロと言えるほど、世の中甘くない。
医者にしても、人のよいヤブ医者にかかるよりは、少々口が悪くても腕のいい医者にかかった方が良いに決まっている。外科などでは、「おれは、腕一本でここまで来た。人柄なんか評価してくれなくてもいい」とうそぶいている医者は多い。といっても、実際のところ、傷つき疲れた患者の心に気持ちのいかない腕のいい医者というのが良い医者なののかどうかもわからない。

「人がいい」といっても、はたしてそれがどういう意味で人がいいのか、ということも問題である。
付和雷同的に誰彼かまわずお追従を言って着いていってしまうような人を「人がいい」と言っていいものか。真実に対して誠実である人を「人がいい」と言うべきなのか。みてくれがよければ、それだけで、いい人であるか。「人の良さ」が、うわべだけのものだったら、どうしようもない。自分にとって、都合がよければ、「いい人」ではある。人

結局のところ、周囲との調和をとることができ、チームの一員としてやっていくことのできる能力のある人、というのがどこででも求められる人材なのだと思う。
であるから、少なくとも、冒頭のような元代議士さんのような、「自分の言っていることは正しく」かつ意地の悪い人は、あまり「いい人」とはいえないし、こちらからも願い下げたい。

それにしても、いよいよ公示された今回の衆議院選挙。
私の住む鎌倉は4人が立候補した。さて、どの人をどういう尺度でみて、一票を投じようか。

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泣けてくる、けど断れない

2012年12月04日 | 日々思うこと、考えること
先々週(講演)、先週(学会発表)と、私なりに結構きつかった。
こういったことを軽々こなしてしまう人はいくらでもいるだろうが、私にはどちらも目一杯のことだった。

それでも、先々週の講演は好評だったらしいし、先週の学会もディスカッションも多く、それなりにうまくいったと思っている。直近の仕事は、年明け12日の研究会の講演まで無い。
だから、ちょっとだけ、ゆっくりしてもいいだろうと思って、ずっと積読だった文庫本を、昨日の朝、横須賀線で読みはじめた。
駅を降りてからも、ちょっとだけのんびりできるというのが嬉しくて、思わず笑みがこぼれたりしていた。私にはこの程度がちょうどいいのだ。

だが、病院に着いてメールを開いたら、とんでもないメールが届いていた。
「(略)○○の異常が確認されている症例で,もし可能であれば病理コメンテータをお引き受け頂けないかと考えております.
ご存じの通り,お引き受け頂きますと,新年早々の○○研究会で症例の概要をご発表頂き,その後(来年5月初旬の)○○学会の病理組織検討のセッション本番までの間に,ご準備頂くことになりますので,その間の先生の公私のスケジュールや学会当日のご予定をご勘案頂き,ご検討頂けましたら幸いに存じます.(略)」

って、また、仕事の依頼?

○○学会の病理セッションといったら、人気セッションの一つ、気合いを入れてかからないといけない。さらには、その準備のためにまず、1月の病理の研究会で予演会をしないといけない。大学でも、病院でもなく、研究会で予演会をやらされるという、かわった研究会なのだが、本番よりもそちらの方が厳しいくらいで、それに間に合わせないとならない。
その講演での講演を併せると、正月は完全に潰れる。
そして、本番の学会も5月初旬。連休も潰れる。

5月の連休はいいとしても、ここのところのストレスは結構なもので、本気でのんびりしたかった。
普段の仕事だって、真面目にやっているつもりだ。

年明けの研究会で演題が2つになるとは、完全に虚を突かれた。
病理学会の演題登録も今月いっぱいだ。

なんだか、泣けてくる。私には、あれもこれもこなす能力はない。

けど、やっぱり、断るわけにはいかない。
人様に何かを頼まれる間が華とはいってもそろそろ限界が見えてきている。
だが、それもあくまで私の限界であるし、頼んでくる人は、私をあてにしてくれているのだ。

断るわけにはいかないだろう。
返事を書いた。

「○○先生侍史
コンサルテーションのご準備、いつもお疲れ様です。
仙台で開催されておりました学会に参加していたため、打ち合わせには参加できず、大変申し訳ありませんでした。
このたびは、ご指名をいただき恐縮しごくであります。
私のようなもので務まるかと、一日、熟考いたしましたが、大変光栄なことであり、是非引き受けさせていただきたく存じます。
鋭意頑張る所存でありますので、ご指導のほどよろしくお願いいたします。

取り急ぎ、用件まで。

コロ健拝」


って、結局引き受けてしまった。

明日か明後日には、標本一式届くだろう。
いったい、どこに準備の時間を作ろう。
まず、そこのところを考えるところからはじめないと。
いよいよこのブログを書く時間を割くしかないか。

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心に残った言葉

2012年12月03日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
先週末の学会、自分の立ち位置を考えるいい機会となった。
講演でも、とてもためになる話を聞くことができた。内容もさることながら、その始まりのところで、心に残る言葉を聞くことができたので、紹介したい。臨床系の新旧教授お二人の先生からあった、三つの言葉を書き留めておきたい。
講演を聞きながらメモをしたものなので、多少不正確なところがあるのはご容赦願いたい。実績によって裏打ちされた言葉の重みというのをひしひしと感じた。

まずは、
「この技術は、当時だれにもできないだろうといわれていました。でも、できないといわれていることをやれば、それまで誰も知られていない新たなことを知ることができるに違いないと考え、挑戦しました」

人間、あきらめることから始めては何もできないし、やる前からできないという線を引いてしまっては全く進むことはできない。現在、私の施設からもこの先生のところに勉強しに行っている若い先生がいる。このような先生のもとで勉強できるというのはとてもうらやましい。ただ、その若い先生も新たなる地平を切り拓く意思があるかは別問題であるが。

二つ目のお言葉は、
「Outcome(結果)を評価できる手段を持つこと」
この言葉を聞いて、一昨日の検証無き臨床医学の記事にいたった。現代医学とは自然科学の延長にある技術であり、それを臨床医学として人に用いている。だからこそ、医療とは検証可能である必要がある。

最後は、
「It is a long way.
It was a long way.
It will be a long way.」

研究のことをこうおっしゃられたのか、それとももっと広い視野でおっしゃったのかはわからない。読む人それぞれが、それぞれに解釈すればいいと思う。
私は私なりに、あなたはあなたなりに。

ということで、いろいろ考えることがあったり、こうして心に残る言葉を聞くことができたりと、今回の学会参加、私にとって益するところ大であった。

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世の中に悪い人なんていないと思いたいけれど・・・2012年11月の読書記録

2012年12月02日 | 読書、映画、音楽、美術
角田、辻村を読んで、人間ていいな、家族っていいな、と思ったのだけど。いっぽうで、現実の世界では紛争、戦争で多くの人の命が失われ続けている。そしてそのことを望みさえする人々がいる。人間の存在意義って、一つしかないと思うのだけど。

読んだ本の数:4冊
読んだページ数:1028ページ
ナイス数:200ナイス

自分もおじさんとしてひとくくりにされているうちの一人かと思うと、若干複雑だが、仕方ない。私もおじさんである。 一番うれしかったのは、O型のおじさんのポイントが断トツで高かったこと。ほかのおじさんの評価も的確だったが、このO型のおじさんに関する評価はあまりにも的確で、このことだけでも買って読んだ甲斐があった。 イラストも◎。
読了日:11月30日 著者:なかむら るみ


額面通り受け取っていいのか、わからないが、先の米国大統領選挙の選挙費用が過去最高額であったということを聞くと、ここにあることも本当のような気がする。そして、死の商人。彼らは決して自分たちが人の死を利用しているとは思っていない。それでも、不幸な死は簡単に生み出されるし、日本だって、いつその危機に陥るかなどわかりはしない。
読了日:11月25日 著者:ベンジャミン・フルフォード


葵とナナコの話の途中でビビってしまった。この子達には不幸になってほしくない。そう思って、先へ進めなくなりそうになった。小夜子に対しても、ここで葵を見捨てちゃダメだよ、なんて我ながら恥ずかしくなるほどベタな読み方をしてしまった。主人公たちは生き方について、深く考えて生きている一方で、それ以外の人たちは風景のようだけど、生き方が違うだけでそれなりに必死に生きているんだよ。なんて思うと、角田さんの世界に、真の悪人はいないだろうと思える。そして、現実の世界にも、真の悪人なんて、いないんじゃないのかな。と信じたい。
読了日:11月25日 著者:角田 光代


妻が読み終わって、本棚に置いてあったのをふと手に取った。人間が生きていく上で必要なのは、いつの局面でもやっぱり愛情なのだと思わせてくれた。どの話も、すっと気持ちが入っていけて、妻のこと、子供たちのことを深く考えることができた。歩美君が高三の息子にダブって見えて余計によかった。
読了日:11月23日 著者:辻村 深月




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