10年前(1999年)の今ごろ、どうしていたか振り返ると、頭の中の多くが浦和の残留争いだったと記憶しています。ちょうど9月末の名古屋戦にVゴール負けして、当時のデモス監督が残り5試合全勝を口にして、「ファイナルファイブ」というフレーズが叫ばれていた頃です。
事実、浦和は本当にがけっぷちで、残り5試合全勝に近い成績でないとJ1に残れない状況でした。その「ファイナルファイブ」は、U-23日本代表のシドニー五輪最終予選でリーグが中断していたので、少しずつやってきて、最後の4試合は週2試合で一気にやりきってしまう、変則日程での開催でした。
小野伸二の負傷も、この年を苦しいシーズンにした理由で、浦和サポは今でも小野伸二を負傷させるタックルをしたフィリピンU-23代表の19番のことを覚えている方もいらっしゃるでしょう。
ちょうど今の時期の神戸戦のとき、小野伸二が復帰するかどうかが話題になっていました。浦和は情報統制を引き、小野伸二のコンディションについては外部に漏れないようにしていましたが、神戸側は「どうせ出てもまともにプレーできる状態ではないだろう」と読み切っていました。
事実、小野伸二は神戸戦ではほとんど存在感はなく、この試合に0-2で敗れた浦和は本当にぎりぎりの状況になりました。次の試合は、当時残留を直接争ったジェフ市原(現千葉)でした。これは平日だろうと何だろうと行かなければならないだろうと、会社を半休する準備を進めたことを覚えています。
この残り4試合に関しては、私も少しは声を出してバックスタンドから盛り上げたいという気持ちがあったので、ノートに記録は残っていません。覚えているのは、実行した試合は全勝だったジンクス(本太氷川神社に賽銭を入れる)を実行したことと、その神社の前にあった桜の木の落ち葉です。
本来なら、このブログのスタイルのように、落ち着いて戦術分析をするのが私に合っているのでしょうが、当時は駒場に参戦していたサポーターは何とかしなければいけないと、皆がまとまっていました。結果的には残留にはつながらなかった、あの千葉戦、終了間際の福田のゴールで1-0で勝ったときの感動は、今でも記憶に残っています。
事実、浦和は本当にがけっぷちで、残り5試合全勝に近い成績でないとJ1に残れない状況でした。その「ファイナルファイブ」は、U-23日本代表のシドニー五輪最終予選でリーグが中断していたので、少しずつやってきて、最後の4試合は週2試合で一気にやりきってしまう、変則日程での開催でした。
小野伸二の負傷も、この年を苦しいシーズンにした理由で、浦和サポは今でも小野伸二を負傷させるタックルをしたフィリピンU-23代表の19番のことを覚えている方もいらっしゃるでしょう。
ちょうど今の時期の神戸戦のとき、小野伸二が復帰するかどうかが話題になっていました。浦和は情報統制を引き、小野伸二のコンディションについては外部に漏れないようにしていましたが、神戸側は「どうせ出てもまともにプレーできる状態ではないだろう」と読み切っていました。
事実、小野伸二は神戸戦ではほとんど存在感はなく、この試合に0-2で敗れた浦和は本当にぎりぎりの状況になりました。次の試合は、当時残留を直接争ったジェフ市原(現千葉)でした。これは平日だろうと何だろうと行かなければならないだろうと、会社を半休する準備を進めたことを覚えています。
この残り4試合に関しては、私も少しは声を出してバックスタンドから盛り上げたいという気持ちがあったので、ノートに記録は残っていません。覚えているのは、実行した試合は全勝だったジンクス(本太氷川神社に賽銭を入れる)を実行したことと、その神社の前にあった桜の木の落ち葉です。
本来なら、このブログのスタイルのように、落ち着いて戦術分析をするのが私に合っているのでしょうが、当時は駒場に参戦していたサポーターは何とかしなければいけないと、皆がまとまっていました。結果的には残留にはつながらなかった、あの千葉戦、終了間際の福田のゴールで1-0で勝ったときの感動は、今でも記憶に残っています。