先週、新潟のアウェイ戦があったので思い出しましたが、私にとっての新潟の旅は2000年、浦和のJ2時代が思い出です。当時、交通費を節約するために、「あさひ朝得切符」という始発の新幹線に乗るとほぼ半額で新幹線に乗れる切符を買って、朝8時半に新潟に着きました。
このままスタジアムで行列するのはもったいないと思った私は、市内循環のバスに乗って資料館に向かいました。それまでは新潟の街に関する知識はゼロでしたが、北前舟の風待ち港として栄えたこと、信濃川の河口をさかのぼったところに港を作ったこと、江戸時代の代官の川村氏が掘割の町を作って「商都」にしたことを知りました。
確かに、戦国時代の「越後」のイメージは現在の上越市に居城を置いた上杉謙信のものです。今の新潟市が栄えたのは、後の世の人の努力があったからなのですね。ただ、その掘割は戦後の高度経済成長期に、交通の邪魔になるという理由で埋められてしまいました。
今考えるとなんとももったいない話です。もし、この堀があれば、九州の柳川にも負けないくらいの「水の都」としてアピールできたはずです。当時、居酒屋で初老の店員さんに聞いたら、少年時代に堀があった話を聞かせてくれて、当時の写真も見せてくれました。
しかし、肝心の試合の方は、記憶力の良い方なら覚えていらっしゃるかもしれませんが、浦和は退場者を出して1-6と惨敗を喫しました。この怒りの感情を静めるのには時間がかかりました。当時はJ2のテレビ放送はなかった時代ですから、弟は私の電話だけが情報だったので、まさかこんな結果になるとはと唖然としていました。
そんな状態でしたから、これは日本海でも見て落ち着かせるしかないと思い、当時の新潟市陸上競技場から歩いて30分ほどのところにある日本海目指してまっすぐに歩を進めました。当時は梅雨時だったこともあって曇り空でしたが、日本海を見ていると、浦和レッズの負けに対する怒りが少しずつ静まってきました。
その後はNEXT21ビルで上から新潟の街を見て、今でも新潟には大きな船が留まっている様子を見ることができました。船の修理場(ドック)もあったように見えました。こういう、関東地方にはない街の様子を見られただけでも良かったと、レッズの負けを除いては満足だった旅でした。
このままスタジアムで行列するのはもったいないと思った私は、市内循環のバスに乗って資料館に向かいました。それまでは新潟の街に関する知識はゼロでしたが、北前舟の風待ち港として栄えたこと、信濃川の河口をさかのぼったところに港を作ったこと、江戸時代の代官の川村氏が掘割の町を作って「商都」にしたことを知りました。
確かに、戦国時代の「越後」のイメージは現在の上越市に居城を置いた上杉謙信のものです。今の新潟市が栄えたのは、後の世の人の努力があったからなのですね。ただ、その掘割は戦後の高度経済成長期に、交通の邪魔になるという理由で埋められてしまいました。
今考えるとなんとももったいない話です。もし、この堀があれば、九州の柳川にも負けないくらいの「水の都」としてアピールできたはずです。当時、居酒屋で初老の店員さんに聞いたら、少年時代に堀があった話を聞かせてくれて、当時の写真も見せてくれました。
しかし、肝心の試合の方は、記憶力の良い方なら覚えていらっしゃるかもしれませんが、浦和は退場者を出して1-6と惨敗を喫しました。この怒りの感情を静めるのには時間がかかりました。当時はJ2のテレビ放送はなかった時代ですから、弟は私の電話だけが情報だったので、まさかこんな結果になるとはと唖然としていました。
そんな状態でしたから、これは日本海でも見て落ち着かせるしかないと思い、当時の新潟市陸上競技場から歩いて30分ほどのところにある日本海目指してまっすぐに歩を進めました。当時は梅雨時だったこともあって曇り空でしたが、日本海を見ていると、浦和レッズの負けに対する怒りが少しずつ静まってきました。
その後はNEXT21ビルで上から新潟の街を見て、今でも新潟には大きな船が留まっている様子を見ることができました。船の修理場(ドック)もあったように見えました。こういう、関東地方にはない街の様子を見られただけでも良かったと、レッズの負けを除いては満足だった旅でした。