Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

今度こそ開花か(大久保嘉人)

2008-10-22 18:51:59 | 他チーム
今日のG大阪戦は平日夜の試合なので、即日更新は勘弁していただき、穴埋めネタを書きながら試合開始を待つことにします。浦和がいい試合をした直後なら、良かった選手をネタにするのですが、皆さんご存知の通り神戸戦は最悪の試合なので、代わりに相手のエース大久保嘉人選手を取り上げます。

大久保は、名将小峰監督が率いていた国見高校の出身です。当時の大久保を、高校サッカー選手権の準々決勝で見たのですが、当時のポジションはトップ下でした。膝に分厚いテーピングを巻いていたので、本調子ではなかったと思いますが、それでも確実にボールをつなげる能力は、国見高校の中でも輝いていました。

卒業後は当時J1のC大阪に入団します。私は、C大阪のサポーターではないにもかかわらず、大久保のデビュー戦が駒場の浦和戦だったので、見ています。ただ、途中出場でちょっと出ただけなので、この試合での大久保の印象はないです。

ただ、負傷でワールドユースに出られなかったのは、本当に残念でした。彼の力があれば、日本も1次リーグを突破できていたかもしれません。ただ、大久保の真の開花は所属のC大阪がJ2に降格した2002年でした。FWに固定された当時高卒2年目の大久保は、J2日本人得点王の実績を残し、翌年は代表にも選ばれるようになりました。

しかし、その後は伸び悩みました。代表では20試合近くノーゴールが続き、東アジア選手権の韓国戦では開始15分で退場するなど、メンタル面の不安定さも目につきました。若くして、スペインリーグのマジョルカにも渡りますが、目立った活躍はできずにC大阪に復帰します。

しかも、即戦力の期待だった大久保はC大阪をJ1に残すことができず、降格させてしまいました。この頃になると、代表とはまったく無縁の選手になっていました。

しかし、神戸への移籍が大久保をよみがえらせます。すっかり得点感覚を取り戻し、左MFもこなせるようになった大久保は代表にも復帰して、今度こそ開花の予感です。何とか日本をW杯へというのは、サッカーファン共通の願いですから、大久保がそれに貢献して欲しいと思います。
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ACL準決勝G大阪戦プレビュー

2008-10-21 18:48:59 | 浦和レッズ
明日は、浦和はACLの準決勝第二戦でG大阪とホーム埼玉スタジアムで対戦します。リーグ戦の直近の試合を見ると、G大阪は磐田に終了間際の山崎のゴールで2-1と勝ち、対する浦和は神戸相手に全く良いところがない敗戦と、チーム状態にはかなりの差があります。

冷静に見れば浦和不利は動かないでしょうが、もしかすると効いてくる可能性があるのが、第一戦で浦和が入れたアウェイゴールです。この結果、G大阪は0点では勝てなくなりました。なにがなんでも点を入れようと、前がかりで来る可能性が高いです。

もちろん、G大阪の攻撃力を考えたら、最初から0-0を狙うのは良い手ではありません。浦和も点を取る姿勢を見せておかなければ、失点したときに慌てても遅いでしょう。ただ、G大阪になかなか点が入らなければ、無理に攻めてくる相手をカウンターで攻略するのは、悪い手ではないでしょう。

この両チームが対戦すると、いつもG大阪が押し気味に試合を運び、浦和は少ないチャンスに賭ける展開が多いです。おそらく、明日もそういう展開になると思います。ただ、G大阪の前線は負傷明けのルーカス、肝機能障害明けの播戸、不振のロニーと決して万全ではありません。

G大阪が打てども打てども入らない展開になれば、浦和にもチャンスがあります。おそらく、山岸のファインセーブに救われる可能性もありますが、それでも、CB2枚の間が弱いG大阪DFを、アーリークロス一発で田中達也を走らせれば、十分可能性はあると思います。

おそらく、明日は昨日の記事に書いたような、史上最高の応援が待っている可能性が高いです。これを見て、浦和の選手がどう感じてくれるかによっては、熱く燃える戦いが待っているかもしれません。
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史上最高の応援(2007年ACL城南一和戦)

2008-10-20 18:42:27 | 浦和レッズ
駒場スタジアムが2万人収容になった1995年にシーズンチケットを手に入れて、いまだに持ち続けている私にとっては、駒場時代にも良い応援があったことは忘れていません。

1995年の横浜M戦のPK戦で、突然浦和レッズコールが大きくなり、相手キッカーの野田がミスをして浦和が勝った試合や、1999年の残留争いの大一番の市原戦のスタンドをボール紙で赤と白で染めた演出、2000年の最終戦の鳥栖戦のルシアノのPK失敗を誘った大声援と、思い出に残るものはたくさんあります。

しかし、埼スタでの最高の応援だったのは、昨年のACL準決勝の城南一和戦だったと思います。城南一和は決勝戦で対戦したセパハンより強かったチームで、何度でも諦めずにクロスを次々上げてくるプレースタイルに、浦和の選手は相当消耗させられました。

それでも先制点は浦和に入ったのですが、城南一和が長身の9番のFWを入れて、持ち味のパワーサッカーの傾向を強めると、立て続けに2点を入れられて逆転されます。普段の浦和の応援だったら、ここでトーンが落ちることもありますが、この日はその後の盛り上がりがいつもと違っていました。

その応援が効いたのか、浦和はすぐに同点に追い付き、この苦しい試合を延長戦に持ち込みました。しかし、選手の体力は既に限界で、PK戦になるしか勝つ可能性はないと、選手たちはまとまっていたそうです。

その狙い通り持ち込んだPK戦ですが、リーグ戦でPK戦が廃止された1999年から、相当の歳月が過ぎています。以前のPK戦の応援は、大旗を持っている人がほぼ全員、PK戦の行われるゴール裏に集結して、相手のPKでは全員で旗を振り、逆に浦和のPKでは旗を振らないどころか、スタンドの全員が沈黙してPKに集中させるというルールで行われていました。

ただ、当時とはサポーターも相当入れ替わっているはずで、この応援が本当にこの大一番でできるか、半信半疑でした。しかし、この伝統は若いサポーターにも受け継がれていました。昔の国立を思い出すPK戦の前に、城南一和の選手がミスをして浦和が勝ちました。

あさってのG大阪戦、チーム状態を考えたら不利でしょう。しかし、この城南一和戦のような応援ができれば、初戦引き分けで一発勝負になりましたからどんな可能性もあるでしょう。悔いのない試合にしたいです。
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攻撃的ボランチ!(河合竜二)

2008-10-19 20:23:49 | 他チーム
浦和時代の河合竜二選手のプレーを覚えている私の印象は、「身体能力は高いがそれを生かしきれていない。ファウルが多いし、特に攻撃力は皆無に等しい。」というものでした。しかし、横浜FMに移籍していろいろ変わったようです。

最初に移籍した当時はCBで、手堅いサッカーを身上としていた岡田監督の構想にうまくマッチした河合は、松田、中澤と組んだ3バックの一角として起用されました。2003年9月の埼スタで、横浜FMの一員として初めて浦和と対戦した河合は、浦和相手に3-0の勝利を収め、古巣にリベンジできた思いからか会心の笑みを浮かべていました。

また、河合といえば2004年のチャンピオンシップの活躍も忘れてはいけません。第一戦で先発出場した河合は、お互いが相手の良いところを消し合う消耗戦の中、セットプレーで貴重なゴールをヘディングで奪っています。結果的に、第二戦を終えて同点となり、PK戦で横浜FMがリーグ王者になりましたから、この河合のゴールは値千金でした。

ただ、これだけ活躍しても、背番号はなかなか最初につけた35番を変えようとしませんでした。しかし、今年、ついに一桁の6番をつけ、しかもチームキャプテンという重要な役割を任されます。昨年、早野監督に1ボランチを任された河合は、今季は負傷で出遅れたものの、負傷が癒えるとボランチのポジションに収まります。

しかし、今日の横浜FM対名古屋を見たところ、河合の位置はなんと「攻撃的ボランチ」でした。ダブルボランチを組んでいた相手が、本来CBの松田ですから、押し出された格好なのかもしれませんが、浦和時代を知る私にとっては永遠にありえない役割だと思っていたのでびっくりしました。

しかも、攻撃的ボランチに入った河合は、積極的にミドルシュートを放ち、低い弾道に抑えたいいシュートでした。パスの精度も悪くないし、これだけできるならなぜ浦和時代にできなかったのかと思うほどです。

ただ、河合が浦和に在籍していた当時は、サテライトの練習環境が悪く、着替え場所もない東農大グラウンドの野球場の外野で練習をするほどでした。今はレッズランドになり、クラブハウスも建ちましたが、当時はそういう時代だったのです。もう少し、いい環境でやらせてあげれば、河合は浦和で育ったかもと思うと、もったいない話でもあります。
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1985年の阪神

2008-10-19 10:24:56 | 他スポーツ
当時、中学生だった私にとって、1985年の阪神は印象的なチームでした。数字を見ても、投手の防御率が4点台後半で優勝したチームの記憶はほとんどない(ほかには2001年の近鉄くらいかな)ほど、打って打って打ちまくったチームでした。阪神次期監督候補に挙げられている真弓明信氏は、あの当時の一番バッターでした。

真弓は、もともとは西武の前身のクラウンライターライオンズに入団し、西武ができたときの大型トレードで田淵らと交換で阪神に入っています。そのため、1985年の「ダイナマイト打線」の当時はもうベテランの域に入っていましたが、出塁が主な役割と見られていた一番打者の役割を革命的に変えた人でした。

だいぶ薄くなってきた記憶が頼りですが、真弓といえば先頭打者ホームランの多かった印象があります。セリーグの場合、9番打者は投手ですから、一番打者のところにチャンスが回ってくる機会は、9番に野手を置けるパリーグに比べると少ないのですが、そんな真弓は3割30本を誇る強力な得点源でした。

当時の選手でホームランが出なかったのは、せいぜいショートの平田くらいで、後の選手はどこからでも一発が出る、規格外のチームでした。バース、掛布、岡田のクリーンアップの破壊力は今でも伝説に残るほどで、1985年の阪神優勝にかかわる記念品は、今でもスポーツ系お宝鑑定で高額の値段がつくほどです。

ただ、そんな阪神の黄金時代は想像以上に短く、掛布はこの年が最後の活躍になりましたし、バースも子供の病気で帰国を余儀なくされました。真弓は長く現役を続けましたが、守備範囲が狭くなったベテランに甲子園のラッキーゾーンの撤去は逆風になり、最後は代打要員になっていました。

今、振り返ると、先ほど出た「ラッキーゾーン」は若いファンはご存知ないと思いますが、外野のレフト側とライト側に、フェンスを設置してスタンドまで届かなくてもホームランにしてしまうルールでした。こういうルールは、打線の力で勝つチームには追い風になるルールで、それと打力を売り物にする選手の全盛期が見事に一致したのが、あの伝説のチームを生み出した要因でしょう。

今は、野球は広い球場で、守備と足を競うスタイルに変わっています。今や、大リーグ規格を満たさない球場は横浜スタジアムと広島市民球場だけというほどで、野球は同じでも、少しずつ質は変わっています。ただ、やはり身体能力が高く守備範囲の広い外野手を見たいという気持ちはあって、この変更はいい方向なのではと思っています。
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カウンター対策の不備(10/18浦和対神戸)

2008-10-18 20:13:25 | 浦和レッズ
今日は、まったくいいところがない敗戦で、ブログを書く気分も重いですが、ようやく酔いも覚めたので、今日の試合の敗因でも分析してみます。まず、今日の試合は内容でも完全に負けの内容でしたが、それを招いたのはカウンター対策の不備です。本来、浦和が人数を掛けてサイドまで持ち出したり、FWがキープしたときは、シュートかクロスで終わるのが鉄則です。

しかし、今日はなぜか左アウトサイドでスタメン出場した山田のところや、エジミウソンとポンテのコンビプレーなどで、それができずに取られる場面が目立ちました。前半は一見、神戸のSBが上がった裏のスペースを突いたかに見えましたが、決定機はCKのエジミウソンと高原の連続シュートくらいでした。

CKやFKなどなら、相手のカウンターは当然計算に入っていて、しっかり最終ラインを急造で作っておくのですが、流れの中でカウンターを食らうというのは、チーム全体の危機管理意識が足りなかったとしか思えません。おそらく視察していた、G大阪の偵察要員に、喜ぶ情報を与えてしまったでしょう。

また、この試合は、一つ寂しい現実を感じることになりました。それは、ポンテのパスがことごとくミスになり、まったくトップ下としての役割が果たせなかったことです。特に神戸がマンツーマンで厳しく来た訳ではありませんから、これはひょっとすると、2005年から3年半続いた、浦和の黄金時代、言い換えれば「ポンテ時代」が終焉を迎えるきっかけになる試合になる可能性があります。

確かに、これまでの長い間、ポンテが浦和を助けてくれたことは事実ですし、2006年のリーグ優勝にも2007年のACL優勝にもポンテの貢献は絶大です。しかし、ポンテも既に今年で32歳で、スポーツ界は常に新陳代謝を図らなければならない現実からしても、来年はポンテでない選手が浦和のトップ下に座っていてもおかしくありません。

この心配が、G大阪戦でポンテが決定的な仕事をして、ただの杞憂に終わってくれればいいと、ポンテが好きな私は思いますが、ひょっとしたらそういう事態も頭のどこかに入れておいた方がいいのではと、帰り道にふと思いました。ポンテと浦和の契約がどういう形態になっているか知らないので、ひょっとしたら複数年契約で来季残留は決まっているのかもしれませんが。
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神戸戦プレビュー

2008-10-17 18:47:43 | 浦和レッズ
ウズベキスタン戦の激闘がまだ記憶に新しいですが、Jリーグは明日再開し、浦和はホーム埼スタで神戸と対戦します。弱かった時代にたっぷり借金を作ったので、負け越しているチームが多い浦和にとって、神戸は数少ないカモのチームです。

しかし、今年に関してはその相性の良さは効いていません。今年のリーグ戦は引き分け、ナビスコ杯はなんと2連敗です。その理由として、浦和の3バック攻略のノウハウが全チームに知れ渡ったことが考えられます。

最初にナビスコ杯で敗れたときは、開始直後の失点を押し気味の浦和が最後まで返せず、事故のような敗戦と言ってもいいと思います。しかし、その後の1分け1敗は、神戸が浦和対策を立てていた結果です。それは、途中から4-2-3-1にして、サイドに拠点を作られると、浦和の対応が遅れることです。

もともと、3バックは4-4-2の相手に勝つための戦術と思います。2トップを2ストッパーがマークして、後ろにリベロがいれば、なかなか相手にとっては攻略は難しいです。しかし、4-2-3-1となると話は違ってきます。

ちょっと前に千葉戦の敗因に書いたので、2度は書きませんが、4-2-3-1の相手だと守備側のマークが混乱することがあります。そのため、浦和にとっては神戸に4-2-3-1をやられても、対応できる戦術的準備が不可欠です。

基本的に浦和の3バックは、ストッパーを引き出されると弱いですから、左右のアウトサイドのどちらかが相手のサイドハーフをしっかり見ることが必要です。急造4バックに近い守り方をしてもいいと思います。

浦和は田中達也に復帰の情報があります。ただ、負傷明けで、どこまでコンディションが回復しているかは未知数です。スタメンではない可能性もあります。そのため、もし途中出場なら、それまでに少なくとも同点で行きたいです。

もし、負けていて、田中達也のスピードが頼りという状況にしてしまうと、相手が5バックにしてでもスペースを消してくる可能性があるからです。去年は浦和と対戦するチームは引き気味に戦って、トップ下と両アウトサイドを消すのが多かったですが、今年は複雑に戦術を変えて浦和の対応が遅れるのを狙うチームが出てきています。去年より、リーグ全体がレベルアップしていると思います。
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サイドハーフを消された(10/15日本対ウズベキスタン)

2008-10-16 18:54:40 | ワールドサッカー
昨日は埼玉スタジアムへ行ってきました。ゴール裏で応援しながらの観戦で、いつものようにノートに試合展開をメモしていないので、細かいところは怪しいことをお許しください。

岡田監督のやりたいサッカーは、ここまでの試合を見る限りでは、サイドハーフのところでボールをキープして、CKやFK、クロスで点を取るサッカーに思えます。しかし、日本には一つ逆風がありました。これまで抜群のキープ力を誇っていた、左サイドハーフ松井の出場停止です。

代役が誰かは注目されていましたが、意外にも19歳の香川の大抜擢でした。ウズベキスタンはこの香川に目を付けていたようで、ドリブルを仕掛ける香川に2対1の形を常に作り、そこでボールを奪おうとしていました。

香川は、確かにキープ力はありますが、引いたところで余裕を持っているときに、相手の意表を突くプレーができることが売り物の選手です。今回のように、密集の中でもしっかりキープして味方につなげるほどの域には行っていません。

これで、日本がキープできる拠点が中村俊輔一枚になってしまったのが、攻撃面の苦戦の理由です。ただ、それでもウズベキスタンよりたくさんのチャンスを作っていました。攻撃面は全く駄目だったということはありません。

そうなると、先制点を許した守備が良くなかったと思います。ウズベキスタンの攻撃は比較的読みやすく、1トップのシャツキフに縦パスを入れて、そこで一旦キープしてサイドハーフの上がりを待ち、クロスにシャツキフ自身が飛び込むパターンが多いです。

今回、シャツキフには闘莉王が付きました。引き気味のウズベキスタンは、シャツキフにロングボールを入れてきましたが、このボールに闘莉王がヘディングでほとんど勝ちました。これなら、負けはなさそうだと安心しかけた前半27分、DFラインの裏に出されたボールに、闘莉王はオーバーヘッドでクリアしようとしました。

これがタッチラインの外へ出ていれば、なんてことのないプレーでしょう。しかし、これがミスになってウズベキスタンの右MFに拾われました。走り込んだボランチのカパーゼが空いていたウズベキスタンは、クロスにシャツキフが一瞬早く触り、初のシュートで先制点を得ました。

これなら、勝ち点1でもいいから欲しいウズベキスタンは、しっかり守りを固めてきます。闘莉王が無理に難しいプレーをせず、胸でトラップしてCKに逃れていればと惜しまれます。
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点さえ取ればいい(バルデス)

2008-10-15 23:36:44 | 他チーム
浦和サポにとっては、流れの中ではあまり効かなくても、点さえ取ればいいというFWを目にしたのは、2005年のマリッチが初めてだと思います。ただ、札幌や大宮で毎年のように結果を出しているのに、流れの中では効かないというFWを、私はそれ以前に見たことがあります。

それは、日本に長く在籍しながら、そのほとんどがJ2(もしくは以前のJFL)だったバルデスというパナマ人ストライカーです。双子の弟がセリエAやスペインリーグでプレーしていたのと比べると、極めて地味なキャリアです。

しかし、パナマ代表には弟と共に、常に招集されるほど、母国では英雄でした。そんなバルデスをじっくり見たのは、大宮時代が最初ですが、目に付くのは足の遅さです。相手DFにピタリと付かれたら、決してスピードでは振り切れません。

しかし、そんなバルデスは、当時のJFL東芝(現札幌)では圧倒的な差で得点王に輝くFWでした。その秘密はどこにあるか、注意して見ました。それは、クロスボールやCKへの反応が誰よりも優れていたことでした。どんなに良い選手でも、ボールと相手FWを同時に見ることは、かなり難しいことです。

そのため、クロスが上がったタイミングは、バルデスにとって大きなチャンスでした。相手DFとうまく駆け引きしてフリーになり、頭で合わせたシュートは全盛期ならほとんど外さない迫力がありました。

そんなバルデスの力で、大宮が首位を走り、J1昇格を視野に入れたのが2001年でした。ただ、まだ当時の大宮はバルデス一人が頼りのチームでした。バルデスが不運なことに、パナマ代表の試合で重傷を負ってしまうと、代役のバレーは当時18歳でバルデスの代役は荷が重く、大宮は失速してしまいました。

バルデスは翌2002年に復帰を果たしますが、13ゴールと彼にしては少ないゴールに終わり、最後は川崎Fでスタメンからも外され、36歳で現役を引退しました。しかし、こういうタイプのFWは、ポストプレーでも効かず、サイドに走り込んでキープもできないのですから、とにかく点を取り続けないといけません。

バルデスが36歳まで現役だったのは、それだけ毎年のように点を取り続けたからです。日本では、こういうタイプはあまり評価されませんが、そういうFWがいてもいいのではと、日本代表の決定力不足を見ると思います。

(代表戦は埼玉スタジアムへ行ったので、即日更新は勘弁してください。)
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秀吉型のカリスマ(仰木彬)

2008-10-14 20:53:59 | 他スポーツ
今はプロ野球がクライマックスシリーズという大舞台を戦っているので、思わず野球のことを思い出します。残念ながら、第一ステージで敗れたオリックスですが、その基礎を作った、今は亡き仰木監督の思い出です。

仰木さんは、現役時代は西鉄ライオンズ黄金時代の二塁手でした。ただ、守備はうまかったものの、打つ方が2割ちょっとの低打率だったので、「自衛隊の仰木」というありがたくない呼び名をもらってしまいました。

そんな仰木さんが、初めて脚光を浴びるのは、13年間コーチを務めた近鉄で、岡本監督の後任として監督の地位に座ったときです。前年最下位の近鉄を任された仰木さんへの期待はそれほど大きくありませんでしたが、当時森監督が率いる西武が黄金時代を築く中、決してAクラスを外さなかったのは評価したいです。

この全盛期の森西武を、唯一破ったのが仰木さんの近鉄で、1989年に敵地西武球場でのダブルヘッダーに連勝して、逆転優勝を果たしています。ただ、近鉄は300勝投手だったOBの鈴木啓示氏をいつか監督に据えたいと思っていました。好成績にもかかわらず、近鉄を追われた仰木さんは、オリックスに移ります。

ここからが、仰木さんの本領発揮でした。まず、成長株だった鈴木一朗外野手に、鈴木では目立たないと思って「イチロー」の登録名をつけます。目立つことが大好きだった仰木さんは、自らパリーグ広報部長を名乗り、話題性のありそうなネタにはすぐに飛び付きました。

また、イチローを発掘したことで黄金時代を作ったオリックスは、阪神大震災で壊滅的な被害を受けた神戸に勇気を与える、感動的な日本一もありました。仰木さんと言えば、選手の起用が流動的な監督で、好調だったらいつでも使ってもらえると、控え選手にとってはモチベーションが上がる監督でした。

また、過去に指導を受けた選手たちが、仰木さんの指導に感謝して、挨拶に訪れることは、仰木さんのカリスマぶりを示しています。誰も悪く言わなかった名将の仰木さんは、オリックスと近鉄が合併した初年度に、この混乱を鎮められるのは自分しかいないと、病気を抱えながら監督を引き受けます。

しかし、その無理がたたったのか、仰木さんはそのオフに帰らぬ人となりました。ただ、あの森西武にあれだけの戦いをして、オリックスの基礎を作った仰木さんの功績は大きいです。地味な選手時代が話題にならなくなるほど、監督として成功した人でした。
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