岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【長島愛生園】 一朗道から学園の建物を望む。

2008-07-17 10:03:02 | ハンセン病
一朗道の峠に登ると、新たに東側の入り江が見渡せる。
この入り江には、手前側にあけぼの団地と望ヶ丘団地(住居地)がある。
そして、入り江に奥には学校の跡地が望める。
「少年舎」「愛生学園」「新良田教室」の学校と施設跡である。
これは、「無らい県運動」の一環として全国の学校における集団検診等により
強制的に収容された児童の住居であり学校だった。
映画「小島の春」は、患者である児童を故郷からこの島に連れてくる話だという。
3つの施設について、パンプから引用します。

1.少年舎
 ハンセン病を発病し、親元から切り離された子どもたちが暮らしていた
少年少女宿舎が立ち並んでいました。多いときには100名以上の子どもたちが
生活していました。寮の建築費は国の予算では計上されず、すべて寄付によって
建てられたものでした。また子どもたちもなんらかの作業に従事しながら
生活していました。

2.愛生学園
 昭和13年、愛生学園は寄付により建設されました。戦後、義務教育実施に
伴い正規の学校(小中学校=岩清水)として認められましたが、それまでは
入所者が代用教員として教育に当たっていました。また、ハンセン病が不治の時代
は卒業しても進路はなく、療養所での生活を余儀なくされていました。
(この表現には違和感がある。この時代には退所するという選択肢はなかったのだ
から=岩清水)

3.新良田教室
 昭和28年、「らい予防法」改正に伴い、昭和30年、岡山県立邑久高等学校
新良田教室が設置されました。さまざまの問題を含みつつも閉校までの307名を
数え、内73パーセントの者は社会復帰を果たした。

新良田教室開校時に問題が起こったことが、
『ハンセン病と戦後民主主義-なぜ隔離は強化されたのか』藤野豊著
に書かれている。158pより引用します。

「こうした外出規制(「らい予防法」改正に伴い規制が強化された=岩清水)は、
1955年9月16日、長島愛生園内に開設された岡山県立邑久高等学校新良田
教室の開校式への、外部入所者の参加拒否という事態を引き起こす。
全患協のたたかいの大きな成果として、新良田教室は開校された。
隔離され教育を受ける権利を国家により剥奪された若者に高等教育の場を提供する
ことは、教育の機会均等を実現するだけでなく、『軽快退所』して社会復帰する
ための準備ともなる。
入学する生徒はもちろん、多くの入居者が希望をもってこの日を迎えた。
開校式に出席して入学生を祝福すべく、菊池恵楓園・奄美和光園・駿河療養所・
邑久光明園・大島青松園・星塚敬愛園の入所者が長島に向かった。
しかし、園側は、『愛生園として本省より高校開校式に入学生以外の来園を
許可してはならないと通告を受けているので、君らの意に沿うことは出来ない』と
入園を強硬に拒んだ」

戦後、新しい憲法の下、基本的人権が国家の原理となった時代である。
「ハンセン病」の周辺では、戦前と変わらぬ人権無視の考えが生き残っている。
戦後の「ハンセン病」問題は、とても複雑で少々の学習では太刀打ちできないが
時間をかけて学んでいこうと思う。

写真は一朗道から見た学校があった辺りです。


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