岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

「理性の眠り時間」とは?

2005-07-19 08:42:20 | 日本の仲間
7月15日号で、取り上げながらもそのままになった
「理性の眠り時間とは何か」という課題を少し考えてみよう。

これは「子どもは今だに理性が目覚めていない」とルソーが
その著作の『エミール』に書いているのだが
(手許に書物がないが)、これは児童心理を考える上で
見逃せない考えである。

この考えが、今も欧米においては生きていると考えられるし、
日本においても児童教育のなかにあると思う。

『エミール』が日本で訳されたのは明治期のいつだったかは
把握していないが、石井十次の座右の書物だったことは
確かだ。
以来、大正、昭和、平成と読み続けられた。
私の実家にある『「エミール』は、昭和初期の訳本である。
教養本だったのだろう。80年前の本である。

さて、理性がどのような経緯で西欧思想に表れたのかの理解は
私にはおよばないことだが、啓蒙思想の中心に位置付けられる
言葉であることは確かだ。

「18世紀ヨーロッパの特徴は啓蒙主義である。彼らが攻撃
目標に定めたのは、キリスト教そのものだった。
人間をキリスト教という迷蒙から解放し、人間理性を至上の
ものとして位置付け、すべてを、人間理性の支配の下に
再編成すること、これが『啓蒙』という考え方の基本であった」
『安全学』村上陽一郎著より

「人間理性を至上のものとする」という時に、この人間理性とは、
すべての人間の理性のことなのかといえば、どうだろうか。

時代背景を考えなくてはならない。
実は、対等な人間と考えられているは狭い範囲の人間なのである。
「人間理性」の対象からは、女性や子ども、その他の被差別者、
そして非文明社会に生きている人々は除外されている。

「文明」という概念も、啓蒙思想から生まれた。
人間理性の考えの中には、人間が至上のものであると謳うと同時の
人間をカテゴリー分け(差別ともいえる)する考えが存在する。

「文明」に対して「野蛮」という言葉があり、「野蛮」は「文明」
によって矯正されると考える。
明治期の日本は、西欧諸国によって「文明化」される対象だった。

この考えは、「文明化」される人々にとっては迷惑な話である。
かってに矯正対象にされてはたまらない。

人間理性とは、一部の人間の理性だったといってよいと思う。

こうして考えてみると、18世紀の啓蒙思想は多くの問題点を
時代の制約ということもあって抱えていることは明らかである。

ところが過去の思想に思える啓蒙思想は、現代においても力を
持っていると思わざるをえない。

啓蒙思想は、対キリスト教思想として人間理性を至上のものと
したのだが、その「啓蒙主義の人間理性思想」と相対するはずの
「キリスト教原理思想」を都合よく賭け合わせたのが、
ブッシュのグローバリズムではないだろうか。

さて、「理性の眠り時間とは何か」である。
理性については書いてきた。
「眠り時間」とは、未開や野蛮と同じ言葉である。
未開や野蛮は眠っているのと同じなのである。
やがて、目覚めさせてやろうということである。
いらぬ節介だが、金儲けの口実にはなる。

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西欧の子どもは人間扱いをされないというちょっと極端に
聞こえる見方がある。
西欧では、大人の社会と、子どもの社会が分れていて、
レストランに子どもが同席することはない
(いわゆるファミレスは除外)。

また多くの子どもたちは今でも、学生寮で過ごす。
それに対して、アジアの子どもたち(少なくとも日本と中国)は、
親と一緒にレストランで食事をする。
子どもは生まれた時から、家族の大切な一員なのである。

日本人が、子どもを溺愛することに、戦国時代の宣教師は
驚いている。
自覚していないかもしれないが、世界で稀なほど日本人は
子どもを大切にしてきた。
明治期に活躍した人々は、親から愛されて育てられてことを
日記に書いおり、その親の恩に報いることを、「報恩」といい、
生きる道とした。
それが人々の大切な心の財産だった。

「子ども時代は理性の眠り時間である」というルソーの思想は、
日本には根付かなかったと思う。

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