津波が石巻市立雄勝病院を呑み込んだときに、68名の方が病院内に残っていた。
その後、海の中で姿が確認されているのは7名だった。
7名の方は、助け合いながら、流れてきた屋根や船に乗り移っていった。
屋根や船は、雄勝湾の中をジェットコースターのように猛スピードで流されていた。
寄せては引く津波に翻弄されていた。
看護師の恵さんは、主査のまり子さんと同じ屋根に避難していた。
気温は氷点。雪が降る寒さだ。
恵さんは病院服にカーディガンを着ただけの服装だった。
辺りが暗くなってきた。
身体が寒さで痛い。手足の感覚が無くなる。
近くを流れる船に気がついた。生き残るためには移るしかない。
恵さんはなんとか移ることができたが、体力の弱ってしまったまり子さんは自力では移ることができない。ロープを使ってなんとか船に移した。
長い凍える夜を二人は船の中で過ごした。
睡魔が二人を襲う。低体温症の症状だ。
船は半島の向こう側に流されていた。
名振浜の近くになる。
翌朝、目覚めたのは、恵さんだけだった。
漁船に救助された。
船は大須浜に恵さんを下ろした。
大須小学校が避難場所になっていた。
津波に襲われた11日。漁船に救出された12日。
最愛の家族に会うことができたのは、それから3日後の15日だった。
それまではお互いの安否は不明だった。
雄勝町に繋がる道は冬季は、北の北上町からと南の女川町からの道しかない。
北の道は不通となり、南からの道は女川町が壊滅状態になっていて通れない。
雄勝町は「陸の孤島」と化していた。
もう1本、冬季は閉鎖している真野林道という山道があった。
この道を開けて、細々とした連絡路ができた(地図:雄勝から西に山中を石巻市街に抜ける)。
三陸海岸は、地形の厳しさから道は数少ない。
一旦災害に遭遇すると、安否確認さて困難な状況に陥ってしまう。
雄勝病院に勤務する多くの職員は、石巻市の他の地区から通勤している。
家族は震災発生とともに病院職員の安否がまったくわからなくなった。
雄勝町は全滅だという噂のみが流れてきた。
その中で、生きて家族に会えた数少ない職員が恵さんだった。
「今生きているのはまり子さんのおかげだ」との思いだった。
まり子さんには3人の子供がいた。
子どもたちの母親は帰ってくることができなかった。
「私は生き残り彼女は戻ってこれなかった」
恵さんの心の傷の深さを、私は想像するすべを持ち合わせてはいないけれど、
今、心の一端を知ることができるのは、彼女が外部に向けて心の中の苦しい思いを発してくれたからである。
本当にありがとうございました。
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海の見える病院 語れなかった「雄勝」の真実 |
辰濃 哲郎 | |
医薬経済社 |