失語症の研修会で、手話通訳をしていた知人と話をした。
今回はなかなか難しかったとのこと。
発声のことを聴覚障がいの人が理解するのが難しい。
音を聞いたことのない方に、濁音や静音、破裂音というものの
理解が困難なことはわかるような気がする。
ただ聞こえないのではない。通訳を通しても体験のないものは
理解できないのだ。
例えば、古いクーラーの下で話をしていて、クーラーの音が
うるさいね、と手話でいうと、
「えー、クーラーってうるさいものなのか?」となる。
人の耳は聴きたいことに集中できる。
音を選別できることは常識の範疇だが、
これも聴覚障がいの人には理解できないようだ。
このように話してくると、「聴覚障がいの人には独自の文化が
ある」という話もよく理解できる。
手話は言語か、という問いもある。
もちろん言語だろう。
このことを真剣に考えたことがなかった。
ここにも「こころのバリア」があった。
今回はなかなか難しかったとのこと。
発声のことを聴覚障がいの人が理解するのが難しい。
音を聞いたことのない方に、濁音や静音、破裂音というものの
理解が困難なことはわかるような気がする。
ただ聞こえないのではない。通訳を通しても体験のないものは
理解できないのだ。
例えば、古いクーラーの下で話をしていて、クーラーの音が
うるさいね、と手話でいうと、
「えー、クーラーってうるさいものなのか?」となる。
人の耳は聴きたいことに集中できる。
音を選別できることは常識の範疇だが、
これも聴覚障がいの人には理解できないようだ。
このように話してくると、「聴覚障がいの人には独自の文化が
ある」という話もよく理解できる。
手話は言語か、という問いもある。
もちろん言語だろう。
このことを真剣に考えたことがなかった。
ここにも「こころのバリア」があった。