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社会福祉の源流を探るという意味でも、小笠原登医師の祖父のことも触れなくてはならない。
名は小笠原啓導(啓実)
愛知県甚眼目寺町円周寺の住職であり漢方医。小笠原登医師の文章からの引用です。
「私の祖父は、明治24年の濃尾大震災に顱頂に重傷を負ってより、痴呆状態(原文ママ)に陥ったので、
当時4歳であった私は、祖父の医術については直接見聞して居らぬのであるが、断片的に私の母より伝え聞いた。
癩は治るという信念のもとに診療に従事していたことや、食治療法、無塩食療法、浄血療法などを
行っていたこと等、私が治療上応用しているところが多い。
殊に、癩は治るという私の信念は祖父からの伝統である」※
医学の継承という点で特筆される。また、「ハンセン病治療の歴史」ということを
学んでいくことの大切さが痛感される。
小笠原登医師は昭和32年に奄美和光園に医官として赴任しているが、
『光仰ぐ日あるべし』奄美和光園発行1993年の年表の昭和32年には名がない。
昭和39年(1964年)に光田元長島愛生園長が亡くなった翌年、
小笠原登医師は「らい事業功労者」として表彰される。
故意か偶然かはわからない。
これは年表に載っている。
もうひとつ、この文章で注目されることに、明治24年の濃尾大震災のことがある。
明治期以降の社会福祉を学んでいく時にこの災害の重要性を知っておく必要がある。
濃尾大震災を契機として日本人による社会福祉事業が始まったといっても過言ではないと思う。
石井十次、石井亮一、日赤看護婦など多くの人や組織が、救済実践の中で鍛えられていく。
神戸淡路大震災が日本のボランティア育成に果たした役割を思い出す。
先人達は、海外から流入した慈善思想や行動を濃尾大震災という現場で実践していった。
やがて起る東北大飢饉が次なる実践の場だった。
従軍看護婦にとっては次なる実践の場は戦場だった。それが戦後まで続く苦難の道につながったのだが。
※小笠原登著『漢方医学の再認識』洋々社昭和38年を、大谷藤郎著『ハンセン病 資料館 小笠原登』より孫引き。
写真は、岡山県立美術館前
名は小笠原啓導(啓実)
愛知県甚眼目寺町円周寺の住職であり漢方医。小笠原登医師の文章からの引用です。
「私の祖父は、明治24年の濃尾大震災に顱頂に重傷を負ってより、痴呆状態(原文ママ)に陥ったので、
当時4歳であった私は、祖父の医術については直接見聞して居らぬのであるが、断片的に私の母より伝え聞いた。
癩は治るという信念のもとに診療に従事していたことや、食治療法、無塩食療法、浄血療法などを
行っていたこと等、私が治療上応用しているところが多い。
殊に、癩は治るという私の信念は祖父からの伝統である」※
医学の継承という点で特筆される。また、「ハンセン病治療の歴史」ということを
学んでいくことの大切さが痛感される。
小笠原登医師は昭和32年に奄美和光園に医官として赴任しているが、
『光仰ぐ日あるべし』奄美和光園発行1993年の年表の昭和32年には名がない。
昭和39年(1964年)に光田元長島愛生園長が亡くなった翌年、
小笠原登医師は「らい事業功労者」として表彰される。
故意か偶然かはわからない。
これは年表に載っている。
もうひとつ、この文章で注目されることに、明治24年の濃尾大震災のことがある。
明治期以降の社会福祉を学んでいく時にこの災害の重要性を知っておく必要がある。
濃尾大震災を契機として日本人による社会福祉事業が始まったといっても過言ではないと思う。
石井十次、石井亮一、日赤看護婦など多くの人や組織が、救済実践の中で鍛えられていく。
神戸淡路大震災が日本のボランティア育成に果たした役割を思い出す。
先人達は、海外から流入した慈善思想や行動を濃尾大震災という現場で実践していった。
やがて起る東北大飢饉が次なる実践の場だった。
従軍看護婦にとっては次なる実践の場は戦場だった。それが戦後まで続く苦難の道につながったのだが。
※小笠原登著『漢方医学の再認識』洋々社昭和38年を、大谷藤郎著『ハンセン病 資料館 小笠原登』より孫引き。
写真は、岡山県立美術館前