北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

ネット対マスコミの戦い

2008-11-26 23:43:06 | Weblog
 面白い記事がありました。ネット上の読者とマスコミの攻防戦です。
皆さんはどのような感想を持つでしょうか。


    ※    ※    ※ 【引用始め】 ※    ※    ※    ※

ネットユーザーたちが暴き始めた「客観報道」というまやかし=佐々木俊尚
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/sapio-20081125-01/1.htm

                文=佐々木俊尚(ジャーナリスト)

 ネットの普及、IT技術の進化により、一般の人が目撃したマスメディアの取材現場がネット上に晒されるケースが増えている。また、報道に疑問を持った読者、視聴者がマスメディアに電話をかけ、その対応をネット上に掲載するケースも多々ある。従来は覆い隠されていた取材現場、被取材者としての対応が暴かれることで、マスメディアは大きな危機を迎えている。

《化けの皮が剥がされる「高邁な社会正義」》
 今年6月8日、秋葉原で無差別殺傷事件が起こったときのことだ。

 たまたま事件現場やその周辺に居合わせた一般の人たちが、携帯電話やデジカメやデジタルムービーで被害者の様子を含め現場の悲惨な状況を撮影し、それを赤外線送受信で交換したり、ネットの掲示板やブログや動画投稿サイトにアップしたりする行為を盛んに行なった。土地柄からITに強い人が多く、パソコンに内蔵されているウェブカメラで撮影し、その場で動画配信サービスに接続して現場の生中継を行なった人もいた。

 こうした行為に対してマスメディアは「惨劇を前にして不謹慎ではないか」「被害者に失礼ではないか」と、その〝野次馬根性〟を批判した。

 もちろん、人が生きるか死ぬかという状況を前にして撮影をするべきなのか、それとも何をおいても被害者を救護するべきなのかというのは、プロの取材者であっても、モラルが問われる根源的な問題だ。実際、野次馬根性に対する批判はネット上でも沸き起こった。

 しかし、その一方で、では、マスメディアには一般の人たちの野次馬根性を批判する資格があるのか、という問題がある。

 私自身、新聞記者出身で事件現場の取材を何度も経験したのでわかるが、慣れないうちは一般の人たちと同じように興奮し、場数を踏むと今度は感覚が麻痺し、殺人現場であろうと笑いながら取材したり、他社の記者と場所取りで争ったりするようになる。ところが、紙面や画面では「我々は高邁な社会正義に基づいて報道している」という姿勢が装われる。

 従来はそうした現場の実態と報道の建前とのダブルスタンダードが通用した。たまたま一般の人が取材現場におけるマスメディアの実態を目撃しても、せいぜい周囲に話すだけで終わっていたからだ。

 ところが、今は違う。かつてなら一般の読者や視聴者にとってはブラックボックスだった取材現場における野次馬ぶり、不謹慎な態度が、ネットユーザーにより、掲示板、ブログ、動画投稿サイトなどで、文章で書かれるだけでなく、画像、映像、音声付きで生々しく暴かれるようになったのである。

 実際、秋葉原の事件のときには、新聞記者が容疑者に「あれってオタクがやったんだよね」と大声で問いかけたり、一般の人たちに「誰かもっとセンセーショナルな写真を持っていませんか」と聞いて回ったりする様子がネットにアップされた。5月に愛知県豊田市で女子高生が殺害された事件のときには、テレビ局のスタッフたちが殺害現場の近くで手を叩いて笑っている映像が投稿された。これ以外にも、路上禁煙地区になっている取材現場でマスメディアの人間がタバコを吸い、ポイ捨てしている様子や、違法駐車を注意した周辺住民にマスメディアの人間が怒鳴っている場面がネット上で報告されるといった例は数多くある。

 ちなみに、秋葉原の事件の翌日、新聞各紙は、一般の人が撮影した容疑者逮捕の瞬間を写した写真を掲載した。こうしたことは従来から当たり前のように行なわれていた。ところが、毎日新聞社内ではその写真を紙面に使うべきかどうかで議論が起こったと聞く。同じ紙面の片隅で、一般の人の撮影行為や赤外線送受信行為を批判的に取り上げる記事を掲載した手前、皮肉なことに、「そんな写真を借りて掲載していいのか」という建前に自縛されてしまったからだ。

《自らが取材されることに鈍感なマスメディア》
 ネットの出現、普及により、このように取材の現場やプロセスが可視化され、その実態と紙面、画面の建前のダブルスタンダードが通用しなくなり、マスメディアの取材姿勢が厳しく問われるようになっている。

 典型的な事例のひとつが、毎日新聞が2007年正月から掲載を始めた大型連載『ネット君臨』を巡る新聞社と著名ネットユーザーの議論だ。

 前年9月に始まった、難病にかかったある幼女の手術費用を募金する運動に対し、募金活動の倫理性や情報の透明性を問う視点から、ネット上で批判が起こった。『ネット君臨』取材班は批判の中心人物のひとりだったある著名ネットユーザーを取材し、『難病児募金をあざける「祭り」』と題した連載第1回で取り上げた。

 掲載された記事は決してその人物を正面から批判してはいないが、「男」と表現していた。新聞記者なら誰でも知っていることだが、「男」という表現は、犯罪者、容疑者、反社会的人物などの代名詞として使う。一見公平を装いながら、じつは読者に対してその人物は禍々しく、卑怯な人間だという明らかな印象操作を行なっていた。その後、私が彼を直接取材したところ、記事を書いた毎日新聞の記者は、最初の取材申し込み時点では所属や連絡先などを明確にせず、実際の取材でも最後まで明確な取材趣旨を説明せず、最初から議論を吹っかけるようだったという。

 彼は毎日新聞が読者向けに開設しているコミュニティサイトに取材手法や記事内容について質問状を出し、それに対して何の回答もないと取材班に抗議の電話をかけるなどした。結局、〈社としての回答は「見解の相違としかお答えできません」〉という回答がきただけだった。

 従来なら、取材対象者がいくら新聞社に抗議しようと、黙殺されるか、横柄な、あるいは官僚的な対応をされて終わりだった。ところが、時代は変わった。

 彼は一連の経緯を自身のミクシィ上の日記で公開したのである。そして、それが他の多くの日記ブログにリンクされ、掲示板にもコピーが貼られ、毎日新聞に対する批判の嵐が起こった。

《ネットを見下している限りマスメディアに未来はない》
 このように、現在のマスメディアは、取材現場やプロセスがネットという公の空間で可視化されるという危機に晒されている。さらに危機的なのは、マスメディア自身がその危機に極めて鈍感であることだ。

 これも毎日新聞の例だが、英文サイト「毎日デイリーニューズ」上のコラム「WaiWai」が長年にわたって低俗記事を配信し続けた問題では、JCASTニュース、PJニュースといったネット上のニュース媒体が毎日新聞に取材を申し込んだ。ところが、毎日新聞はなおざりな対応をしたばかりか、社長室の広報担当が「ネット媒体の取材は受けません」などと言って取材を断わった。

 こうした一連の対応もそのままネット媒体で報道された。JCASTなどはYAHOO!ニュースにもリンクされているので、莫大な数のページビューがある。

 マスメディアは不祥事を起こした一般企業を厳しく追及し、法令遵守と説明責任を強く求める。ところが、いざ自分が不祥事を起こすと、それとは正反対の態度を取る。その実態がネットという公の空間で公開されるようになったのである。

 同様に、ネットユーザーが、マスメディアの報道内容や報道姿勢に疑問を持ち、マスメディアに問い合わせ、それに対する返答をそのままネット上で報告するケースはいくらでもある。

 マスメディアの側はネットの言論をいまだに「フリーターやニートが適当なことを書いている」と見下している。

 しかし、その影響力はマスメディアが想像するよりもはるかに大きい。実際、WaiWai問題では、多くのネットユーザーが毎日のサイトに広告を出稿している企業に抗議電話をかけた結果、一時はネットの広告が全てストップし、本紙の広告にも影響が出た。リアルの世界に対するネットユーザーの影響力はここまで高まっているのである。

 ネットの登場、普及により、マスメディアの言論とネットの言論が等価値になり、言論のあり方がフラット化した。読者、視聴者のメディアリテラシーも格段に向上した。

 だが、長年「自分たちだけが報道する権利を持つ」という特権意識にあぐらをかいてきたマスメディアは、こうした時代の変化や問題の本質を理解できないでいる。ネットユーザーを見下し、恐怖し、憎悪しているだけでは、マスメディアはますますネットユーザーから不信感を抱かれ、批判を浴びるのは当然だ。

    ※    ※    ※ 【引用終わり】 ※    ※    ※    ※

 最近のマスコミに対するネット読者たちの分析は、「何をどのように書いたか」というなかに嘘やねつ造がないか、ということよりも、「これは大事だと思われるような情報の中のなにをスルーして書かずにごまかしているか」ということに及びます。

 大量の事実の中から、何を取り上げて何を取り上げないのか、というところにマスコミの考える社会正義のフィルターがあるということでしょう。そしてそのフィルターがどのようなものなのかも次第に明らかになりつつあります。
 
 少なくとも記者の署名がない記事や、記事に対して賛同や批判のコメントを書き込めないマス媒体はその事自体、マスコミが求めて止まない「説明責任」を回避していると言えるでしょう。

 ネット上の掲示板は、始まった頃は落書きとニセ情報の洪水の中に真実という小さな宝石が垣間見えるという状況でしたが、最近はこの統制が取れてきて、ネットリテラシーが目に見えて向上しています。

 多くの目と耳が集まって集合知を形成する場になる可能性が高まるなかで、一人のネット読者として真実にたどりつくための能力を向上させるにはそれなりの教育と努力が必要です。

 面白い時代になってきました。 
コメント
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