北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

思いを伝えるにはコレが必要

2015-03-24 23:43:31 | Weblog

 どこの組織でも、組織のビジョンや思想を構成員全員に伝えるのは難しいことです。

 たいていの組織は階層構造になっているので、その階層を使おうとします。社長から役員や部長へ、部長から課長へ、課長から課長補佐、係長、係員へ…という順番です。

 それも小さな組織ならいざ知らず、何千人もの社員や職員がいるようなところではどうしても、トップから離れれば離れるほど、熱というか暑さというか、そうした思想の力強さが次第に弱まってしまいます。

 思想を発する直接のご本尊の熱は次の段階で歩留まりを悪くし、それが次第に重なっていくのです。

 ある会社では、社員に対して会社の思想を直接伝えようとするよりも、商品を開発してそれをお客さんに売るという広報活動によって、結果的に社員が自分の会社の商品にこめられた思想を理解した、ということがあったそうです。

 つまり、直接伝える効果よりも一度外へ発信した情報のほうが理解しやすいということがあるのです。

 江戸時代末期の農村救済アドバイザーである二宮尊徳は、日本古来の神道、飛鳥時代に伝来した仏教、そして中世に伝えられた儒教を組み合わせた独特の思想体系で人々を魅了し、疲弊した村々にやる気と活気をもたらして救済を果たしました。

 尊徳先生自身は自分の思想をまとめた書物を著しませんでしたが、後に高弟と呼ばれる人たちが生前の出来事や語録をまとめて書物に著しました。

 「二宮翁夜話」、「報徳記」、「二宮先生語録」などがそれですが、これらは多くの人々を感動させましたが、これなどは尊徳先生に触れた弟子たちがその感動をそのまま閉じ込めた書物であり、自分たちなりにその人となりをしっかり伝えようという強い思いがこめられているので、大いに人口に膾炙したといえるでしょう。

 つまり何段階も経た言葉ではなく、直接触れた熱い思いがあるからです。


 
     ◆   

 

 アインシュタインがこういうことを言っています。

「知識は二つの形で存在する。ひとつは、本の中に、生命のない形で。もうひとつは、人の意識の中に、生きている形で。後者こそがとにかく本質的なものである。前者は絶対必要であるように見えるがたいしたことはない」

 確かに本の中の情報は生命の無い形ですが、そこに熱を感じさせるような書き振りがあれば、いくばくかの熱は伝わるのだと思います。

 孔子でもお釈迦様でもソクラテスでも、真に偉大な人は自らは物を著さないかわりに、人を強烈に感動させて弟子が彼らの放つ熱にいたたまれないかのように書物を著してその情熱を伝えています。

 生きた情報というものには熱がある。何かをちゃんと伝えようと思ったら、手っ取り早いところで組織を使って人づてに伝えようとするのではなく、直接熱さを発しましょう。それが多分一番です。 

コメント
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