北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

出世頭だったクラスメートの訃報 ~ 共に浪人をした仲間の思い出

2021-10-02 23:11:04 | Weblog

 

 高校の同級生だった友人Yの訃報が届きました。

 先輩の死去も寂しいけれど、同い年の友達がこの歳で逝ってしまうのは、ショックです。

 彼とは、高校の3年生の時のクラスメートで、高校時代はそれほど仲の良いという感じではなかったものの、お互いに大学受験に失敗した際に、同じ予備校へ通うことになりました。

 予備校へ通うために、今の北大生協の裏に2階建ての木造アパート2LDKの部屋を3人で借りることにしたのですが、そこに最後の最後に「俺も入れてくれないか」と飛び込んできたのがYでした。

 浪人生活を1年間過ごす中で、8畳間の四隅にそれぞれの机を置き、隣の8畳間には布団が敷きっぱなしになり、各自が自分のペースで寝起きと勉強をするという体制でした。

 四人での暮らしは、始めは料理ができるというYが食事を作ってくれて、他の3人は洗濯や掃除、風呂焚きなどの家事を分担していたのですが、やがてYが「料理と言うのは創造的な家事だ。何を作ろうか、を毎日考えるのは結構大変だ」と言い出しました。

「それもそうだ」ということで、4人で『料理・掃除・洗濯・風呂焚き』などの家事を日替わりにしたローテーション表を作って壁に貼り、平等を保つことに成功したのです。

 噂では、他にも4人で同居しながら浪人生活を始めたグループがあったようなのですが、そこはマージャンに流れてしまったようで、予備校にも来なくなってしまったのですが、我々はそんなこともなく、規律を保った浪人生活を過ごしました。

 Yの勉強スタイルは、藁半紙を買ってきて何十枚もの束を大きなクリップで止めて、とにかく問題集の答えをボールペンで書いて書いて書き続ける、というものでした。

 インクの尽きたボールペンは捨てずに輪ゴムで束ねて保管。

 最後にはその束が直径10センチほどになり、「これをいつか子供に見せるんだ」と笑っていました。

 
    ◆


 そうやって迎えた再度の受験。

 彼は北大医学部に見事合格し、私は北大理類、一人は商大に合格したのですが、最後の一人が残念ながら再び志ならなかったことで、全員での祝勝会という雰囲気にはなりませんでした。

 その後は時々会いながらも卒業後はほとんど会わず仕舞でしたが、高校の同窓会では会うことがあるくらい。

 数年前に別の同級生が札幌に転勤になってきて「近くにいる奴で飲もうぜ」ということになり、そのときにはYも駆けつけてくれました。

 そのときに思い出したのがあのボールペンの束。

「覚えているか?浪人したときのボールペンの束を。あれを『子供に見せるんだ』と言っていたけどどうなった?」

 すると彼は「ああ、あれな。大学時代に家庭教師をしていて教えた子にお守り代わりにあげちゃったよ」と笑っていました。

 人望も厚く、進んだ薬理学の道でも業績を上げ医学部長として後進の指導や大学経営にも力を尽くしたのみならず、全国的な学会でもトップを務めて日本の医学界のレベルを高めました。

 一人の人間としては、フルート奏者としてオーケストラに参加するなど音楽活動にも才能を発揮したY。

 同期の出世頭の一人でしたが、スマートな笑顔が忘れられません。

 吉岡充弘君、享年63歳。

 冥福を祈るばかりだけど、ちょっとばかり早いよな、寂しいよ。

 合掌

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