午後から明るくなって快晴となりました。ようやく車のヒーターを入れなくてもすむ陽気です。
【菅江真澄遊覧記】
菅江真澄は宝暦4(1754)年、三河国渥美郡(現在の愛知県豊橋市)生まれといわれる旅行家です。
彼は国学、本草学を学び、飢饉の真っ盛りである天明3(1783)年より長い旅に出て、信濃、出羽、奥羽を経て蝦夷地に渡りました。その間、各地の風俗や景色、文化などを日記や図誌の形で残し当時の日本の人々の暮らしを知る上で貴重な資料を残してくれています。
「菅江真澄遊覧記2(平凡社ライブラリー、編訳内田武志、宮本常一)」には、「えみしのさへき」と「えぞのてぶり」という寛政元年~3年にかけて蝦夷地を旅した際の紀行文が載せられています。
菅江真澄は寛政元年に今の松前に上陸しましたが、「えみしのさへき」では西蝦夷地として渡島半島の西側を陸行と船で現在の大成町まで行き、そこから戻ってくる行程となっています。
また「えぞのてぶり」では今度は渡島半島の東側を旅して、有珠山へ登山したところで終わっており、この間の和人(シャモ)とアヰノの生活を事細かに記載しています。
菅江真澄は寛政元年から3年にかけて地元でアイヌ語をかなり勉強したようで、アイヌ語による単語をかなりアイヌ語のままに書き記したようです。本書ではそのあたりも日本語訳を付けながら読みやすく書かれています。
彼が来た頃の蝦夷地は、一定の税金を納めた商人が蝦夷と交易するために行く事が許されるだけで、一般の旅人が自由に動き回る事が出来る時代ではありませんでした。
そこで彼は唯一大目に見られていた社寺詣でとして知人の法師に同行を願い、旅に出たのでした。
彼は至る所で神社に詣で寺を見聞していますが、ちょくちょく円空の名が登場してきます。すでに多くの仏像を刻んで各地にそれが祀られていた事が分かります。五勝手(江差町)では姨神(うばがみ)神社の記載が出てきます。
真澄の旅はひたすら海岸線に沿った旅で、そこでアイヌ人と和人が混在しながら住んでいた様子が分かるのと、そこでも生まれた内地の故郷の習俗をそのまま持ち込んでいた様子がよく分かります。
菅江真澄が旅をした寛政3年の翌年の寛政4年にはロシア使節ラクスマンが来訪するなど、この後蝦夷地はオロシヤという大国との領土のせめぎ合う場所となって行くのです。
そのためにやがて松前の和人の生活もアイヌの人たちの生活も次第に変貌して行くのですが、まさにその直前の時期の民俗学的な記述は貴重な資料になっているのです。
「熊(しし)は三寸の草がくれ」という表現が出てきます。ひぐまはわずかの低い草むらにも隠れる事が出来、身を潜める事が出来るという事が出てきます。
また「熊も突然出会うと驚いて、なおさら暴れる事でしょう。そんなときには気も心も失せてしまうでしょうが、タバコを吹かしながら何気ない風で休んでいれば熊は逃げ去るものです」という表現も出てきます。熊は自分を恐れないものを怖がると思われていた事が出てきます。
また本草学を学んだことから、多くの植物や動物の名前が出てきて、この時代の植生なども分かります。約220年前の北海道での習俗の一端が分かり実に興味深い日記です。
もしも冒険紀行家菅江真澄の名前を聞く事があったら、北海道を思い出してください。
【菅江真澄遊覧記】
菅江真澄は宝暦4(1754)年、三河国渥美郡(現在の愛知県豊橋市)生まれといわれる旅行家です。
彼は国学、本草学を学び、飢饉の真っ盛りである天明3(1783)年より長い旅に出て、信濃、出羽、奥羽を経て蝦夷地に渡りました。その間、各地の風俗や景色、文化などを日記や図誌の形で残し当時の日本の人々の暮らしを知る上で貴重な資料を残してくれています。
「菅江真澄遊覧記2(平凡社ライブラリー、編訳内田武志、宮本常一)」には、「えみしのさへき」と「えぞのてぶり」という寛政元年~3年にかけて蝦夷地を旅した際の紀行文が載せられています。
菅江真澄は寛政元年に今の松前に上陸しましたが、「えみしのさへき」では西蝦夷地として渡島半島の西側を陸行と船で現在の大成町まで行き、そこから戻ってくる行程となっています。
また「えぞのてぶり」では今度は渡島半島の東側を旅して、有珠山へ登山したところで終わっており、この間の和人(シャモ)とアヰノの生活を事細かに記載しています。
菅江真澄は寛政元年から3年にかけて地元でアイヌ語をかなり勉強したようで、アイヌ語による単語をかなりアイヌ語のままに書き記したようです。本書ではそのあたりも日本語訳を付けながら読みやすく書かれています。
彼が来た頃の蝦夷地は、一定の税金を納めた商人が蝦夷と交易するために行く事が許されるだけで、一般の旅人が自由に動き回る事が出来る時代ではありませんでした。
そこで彼は唯一大目に見られていた社寺詣でとして知人の法師に同行を願い、旅に出たのでした。
彼は至る所で神社に詣で寺を見聞していますが、ちょくちょく円空の名が登場してきます。すでに多くの仏像を刻んで各地にそれが祀られていた事が分かります。五勝手(江差町)では姨神(うばがみ)神社の記載が出てきます。
真澄の旅はひたすら海岸線に沿った旅で、そこでアイヌ人と和人が混在しながら住んでいた様子が分かるのと、そこでも生まれた内地の故郷の習俗をそのまま持ち込んでいた様子がよく分かります。
菅江真澄が旅をした寛政3年の翌年の寛政4年にはロシア使節ラクスマンが来訪するなど、この後蝦夷地はオロシヤという大国との領土のせめぎ合う場所となって行くのです。
そのためにやがて松前の和人の生活もアイヌの人たちの生活も次第に変貌して行くのですが、まさにその直前の時期の民俗学的な記述は貴重な資料になっているのです。
「熊(しし)は三寸の草がくれ」という表現が出てきます。ひぐまはわずかの低い草むらにも隠れる事が出来、身を潜める事が出来るという事が出てきます。
また「熊も突然出会うと驚いて、なおさら暴れる事でしょう。そんなときには気も心も失せてしまうでしょうが、タバコを吹かしながら何気ない風で休んでいれば熊は逃げ去るものです」という表現も出てきます。熊は自分を恐れないものを怖がると思われていた事が出てきます。
また本草学を学んだことから、多くの植物や動物の名前が出てきて、この時代の植生なども分かります。約220年前の北海道での習俗の一端が分かり実に興味深い日記です。
もしも冒険紀行家菅江真澄の名前を聞く事があったら、北海道を思い出してください。
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