先日釧路へ行った際に、現地の知人とお話をしていたら、「コロナ期に婚姻の数が大きく減って、それに沿うように生まれる子供の数が減りました」と言っていました。
地域の人口減少は、亡くなる数と生まれる数との差ですが、今では高齢者の亡くなる数が増える一方で、子供が生まれなくなっています。
日本の場合は、子供は結婚した夫婦から生まれるのが一般的なので、結婚する数が減るということがそのまま生まれる子供の数に影響するということなのでしょう。
つくづくコロナウィルスが社会に与えた影響は大きいな、と思いました。
そして、コロナ期に社会が受けた影響は歴史として後世に残るのだと。
それにしても、私の若いときは大人になれば結婚して子供を産んで家庭を作るのが当たり前だと思っていたのですが、そういう「時代の常識」は時とともに変化しています。
「経済状況が悪くて若者の収入が少ないから結婚もしないのだ」という人もいて、それもある一面をとらえているかもしれません。
実際、収入の多い人の未婚率は収入が少ない人よりも少ない、というデータがあるそうですが、昔は収入にかかわらず「結婚はするものだ」という社会の規範があってそれに従うのが当たり前という風潮がありました。
今ではそれも個人の自由意志の範囲で、敢えてそれにとらわれなくても後ろめたく感じることも少なくなってきたのかもしれません。
社会の規範というのはその地域柄や国柄を表す価値観で、それがあるからその人たちなのだ、という「その人たちらしさ」です。
さて、「日本らしさ」「日本人らしさ」とはいったいなんでしょうか。
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「ローマ人の物語」の著者の塩野七生さんは、対談本のなかで、「なぜローマは滅亡したのでしょうか」と訊かれて、「さあ、でもローマ人がローマ人らしくなくなってしまったからではないでしょうか」と答えていたのを思い出しました。
国民がその国たらしめている規範や美学が薄れたときに、国柄は変質してその国らしくなくなってしまうのだろう、と。
ローマの滅亡まで引き合いに出さなくても、そこで生まれようと他から移ってきたのだとしても、今暮らしている故郷を良くしようという思いや協力して何かを成し遂げようという気持ちが薄れてしまったら、やはり地域の力は弱まってしまうことでしょう。
人々が、自分の関心や時間や労働力やお金を少しでも差し出す気持ちがあるか、はたまた、自分への関心や時間や貢献やお金を求めるのか、で地域のありようも変わってしまうことでしょう。
二宮尊徳は生きてゆく上で大切なこととして、「至誠・勤労・分度・推譲」の四つを掲げ、そのなかでも「分限をわきまえる分度」と「余れば他に譲る推譲」を説きました。
知識を与えられて事足れり、とするのではなく、誰かから何かを教わったらそれを自分の実践行動に繋げることが真の魂の教育です。
良いと思うことは実行いたしましょう。
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