北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

前田正名とグンゼ

2024-06-05 22:30:08 | Weblog

 報徳の歴史を学んでいると、ときどき知った人が登場します。

 今回は阿寒・釧路の恩人である前田正名(まえだ・まさな)さんのこと。

 前田正名(1850-1921)は明治時代の官僚で、明治政府の殖産興業政策を立案・実践した人物です。

 1881(明治14)年からは大蔵省・農商務省の大書記官になり、在職中に国内産業の実情を調査して殖産興業のために力を尽くしました。

 前田正名自身は報徳を推進した側の人物ではありませんが、彼が活躍した当時、報徳では岡田良一郎という掛川出身の

 後年の前田正名は、1898(明治31)年に釧路市で最初のパルプメーカーである前田製紙合資会社を設立、今の釧路東IC近くの天寧地区に工場を建設します。

 しかし会社そのものはパルプの販売不振が続き、富士製紙の支援を得て北海紙料株式会社に改組されました。

 しかしその後も経営が大幅に改善しないままに、火事により工場が全焼、この工場での総業は断念されました。

 その後は樺太工業が富士製紙と合併し、その富士製紙の手によって釧路市の西部の鳥取地区に新たな釧路工場が操業を開始、これは後に王子製紙→十條製紙を経て日本製紙の向上となりましたが、この火も2021年に消えたのでした。


       ◆



 そんなわけで釧路を製紙業の町として殖産興業に貢献した前田正名ですが、1906(明治39)年に阿寒地域で国有未開地の払い下げを受けて牧場としての開拓を始めました。

 しかし阿寒の風景を見た正名は湖畔からの景観に感銘を受けて、「この山は伐る山から観る山にすべきである」と語ったと伝えられています。

 彼は全国で地方産業の模範となるような農場経営や山林事業を興しましたが、その事業体は彼の座右の銘である「ものごと万事一歩が大切」から、「前田一歩園」と名乗りました。

 『前田家の財産は全て公共の財産となす』という家訓により、彼の思想を受け継いだ3代目園主であり前田正名の妻であった前田光子は、生活拠点を東京から阿寒に移し、地域の人々と共に山林経営や環境保全に務め、この阿寒の自然を後世に残したいと前田一歩園の財団化に尽力され1983(昭和58)年に財団法人が設立されました。

 この間、昭和9年にはこのエリアが阿寒国立公園に指定され、環境と景観の保全には大きな後ろ盾ができています。

 今の阿寒湖の景観と自然が今日まで守られたのは大地主の大いなる公共精神があればこそで、阿寒国立公園と釧路への前田正名の貢献は計り知れません。


      ◆


 それと余談ですが、前田正名が農商務省の大書記官時代に、全国を行脚して殖産興業を奨励していた時代のこと。

 京都で彼が遊説をした際に「今日の急務は、国是、県是、郡是、村是を定むるにあり(今日求められていることは、国民の一致した方針である国是、県民の一致した方針の県是、郡民の郡是、村民の村是を定めることである)」と発した言葉に、聴衆の一人であった波多野鶴吉は感銘を受けました。

 波多野鶴吉は、「そうか、何鹿(いかるが)郡の発展のためには農家に養蚕を奨励することが郡の急務であり"郡是(グンゼ)"なのだ」と一念発起。

 彼は地元で養蚕業の進行を目的とする会社を立ち上げましたが、これが「郡是製紙株式会社」であり、その企業経営思想には報徳の思想の影響が強く感じられます。

 今もあるグンゼ株式会社ってそういう会社だったんだ、と思うと下着類を購入するときもちゃんとメーカーを見なくては、と思います。

 なんだかんだで、歴史上知っている人物が報徳の歴史としても登場すると嬉しくなります。
 

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