北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

江戸五色不動尊

2007-09-26 22:47:25 | 東京探検
 今や東京は一大観光都市として日々発展しています。

 しかし物の本を読んでいると、明治大正の頃はまだ名所旧跡というものもあまり確立しておらなくて、いろいろな工夫があったことが伺えます。

 名所旧跡とはいうものの、人がとにかく集まれば「名所」と呼べるが、旧跡の方は古さをどう自慢するかが工夫のしどころ。大正の頃には『江戸以来』などと言って、旧跡を演出するも、三百年続いた江戸の一体どの当たりかということをまあ適当にさらりと流して旧跡らしくふるまったよう。
 そういう曖昧さも日本人らしくていいような。

「江戸時代は寺社をもって装飾とした。泉石花木がそこに集められ、市民四時の遊観は、必ず神詣で・仏参りであったのだ(三田村鳶魚・みたむらえんぎょ著 「江戸の旧跡・江戸の災害」)」

 三田村鳶魚(1870~1952)は江戸時代に関する多くの著作を残し、「江戸学の祖」と呼ばれる江戸文化・風俗の大変な研究家。この人が言うには「渺茫(びょうぼう)たる武蔵野の一角に開かれた江戸市だけに自分を装飾する者は、建築美よりほかにはなかった」とのこと。

 実はその江戸を飾った多くの寺社も何度も襲った火災によって多くが失われているというのは実に残念なお話。今我々が見ているのは本当の江戸に栄えた文化のほんの何パーセントにしか過ぎないのですから。

    ※    ※    ※    ※

 しかしそれでも寺社仏閣に注目しながら町を巡っているといろいろなものに出会えたりします。

 先日文京区の駒込界隈を自転車で走っていてみかけたのが「目赤不動」という看板。お寺名前は天台宗南国寺。
 『目赤』という表現はなかなか珍しいと思って中を拝見すると、確かに目赤不動尊のお堂がありました。

  

  

 掲げられていた看板によると、もともとはもう少し東の動坂というところにあった『赤目不動』が、三代将軍家光が今の土地を与えて「目赤不動尊とするように」との一言で目赤不動になったのだとか。

 目赤以外にも目黒、目白、目青、目黄という五色の不動尊があって、この五色は東西南北と中央を表すというのが陰陽五行説。

 家光が天下太平を祈願して江戸五色不動尊とした、ということになっていますが、「そう呼ぶようになったのは明治期以降だ」というような説もあるよう。
 火事で不動尊もあちらこちらに移っているので分かりづらくもなっているのでしょうか。

 この中では目黒不動尊が一番有名ですし、地名としては目白も残っていますね。目青不動と目黄不動も一応どこにあるか、ということはわかっているので、こういう曰く因縁をたどって町を巡るのも面白いですね。

 歴史的に著名な権力者が強権を発動することで、かえって名所旧跡ができあがるということはよくある話。顔の見えない民主主義の時代は歴史に名を残す偉大な事業を残すことが難しいかもしれません。

    ※    ※    ※    ※

 ○○長者などと呼ばれて時代の寵児になった人ならその財産を、くだらない見栄に使うのではなく、後世に残る社会の財産として残してくれればよいのにね。 
 
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