北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

介護スクール4日目 ~ こころとからだのしくみと生活支援技術

2023-03-04 23:12:11 | 介護の世界

 

 全部で15回の介護職員初任者研修は今日が4日目。

 今日からは「こころとからだのしくみと生活支援技術」という段階に入ります。

 ここでは改めて「介護サービスは何を目的に支援してゆくのか」という根源的な問いから始まりました。

 介護保険法の第一条「目的」では、この法律は…(利用者)が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう必要な保険医療サービスおよび福祉サービスに係る給付を行う…」とされています。

 つまり目的は「高齢者の自立支援ができるように」ということです。

 ごく初期の頃の高齢者介護はどちらかというと、高齢者の身体を清潔に保ち、食事や入浴等の面倒を見るなどといった、「お世話をする」ということを中心に考えていたきらいがあります。

 今日の介護保険法では、それから脱却して「利用者の能力に応じた自立支援を促す」ということが求められているわけで、そのためには時間がかかっても本人がやる意思のある日常動作は本人に委ねる忍耐が必要になるということです。

 介護サービスを受けることで、できれば本人のやれることが増えてゆくというのが理想なのであって、なんでも任されてやってあげるという事とはちがうのです。

 
     ◆


 今日の授業の中ではちょっとしたワークショップがありました。

 先生からのお題に対して自分なりの答えを書いて、それから受講者同士(といっても全部で3人しかいないのですが)で答えを述べ合って意見を交わすというものです。

 先生からのお題は3問で、

①自分が生活で大切にしていることは何か
②自分が片麻痺(右半身まひ)になり介護サービスを受けることになったら、どんなことをしてほしいか
③逆に片麻痺になった時にどんなことをしてほしくないか

 …というものでした。

 私自身が大切にしていることは「趣味の充実」や「家の周りの整理や雪かき」などとし、してほしいことは服の着替えなど身の回りの"できないこと"へのサポートでした。

 また「してほしくないこと」では「トイレの世話」や「入浴の世話」などを挙げてみましたが、改めて、もしもそういう身体状態になったとしたら何をしてほしくて、何をしてほしくないのかを考えるきっかけになりました。

 自分がしてほしくないことは、介護の現場でも利用者がためらいを感じるサポートなのかもしれません。

 考えたくなくてつい避けている話題ですが、自分自身の「もしも」を想定すると、高齢化によってそこに向かっている自分の姿が見えるかもしれません。


     ◆


 授業の後半では、「記憶の問題」「感情の問題」などにも触れてゆきます。

 そして今日の最後に「自己概念と生きがい」という話題になりました。

 私たちが歳を重ねて高齢化してゆくその姿には大きな個人差があります。

 いつまでも健康で元気なお年寄りもいれば、若くして病気や障害を得て機能が衰え、意欲が衰えてゆく方もいます。

 まずは自分自身とはどういう人間なのか、という「自己概念」を改めて自分自身に問うてみることをお勧めします。

 そこで浮き彫りになる好き嫌いや行動の癖、考え方の価値観などは介護を受ける際に、一人ひとりの情報として大切な事柄です。

 自分とは何か、を自問自答してみることをお勧めします。

 

 そして最後に「老年期」という人生の時期についてです。

 老年期は様々な「喪失・衰退」に触れることが多くなります。

 身体機能の喪失、友人や身内との死別・離別などがある日突然、あるいはゆっくりと進行しながら自分の元から去ってゆくのです。

 生きている限りはそうした喪失などに「ショックを受け」「否認したくなり」「混乱し」しかしその過程を経て「解決への努力」が始まり、「それらを受け入れる」という段階に至ります。

 これらも普段から少しずつ心の訓練をしておいて良いことかもしれません。

 白髪を一本認めたとき、顔のしわが一本増えたとき、体に何らかの衰えを感じたとき、それははつらつとしていた自分から若さが「喪失」していった小さな一歩です。

 それを仕方がないと受け入れてすぐに納得できるでしょうか。

 少しはそれに抗う努力があっても良いかもしれません。

 しかし早晩それらは無駄な努力になることがわかります。

 いつかそれを受け入れなくてはならない段階に至るのです。

 

 
 先日、「高齢者は集団自決せよ」という意見を述べる学者が現れて物議をかもしました。

 私たちの社会に最初から高齢に生まれた高齢者といつまでも若い若者がいるわけではありません。

 人は幼少期から青年期、壮年期を経て高齢期に至る生物です。

 だから「高齢者」ではなく「高齢期の人々」と言うべきだ、という人もいます。

 高齢期の自分がどうなっているかの想像力を養っておくことは怖いけれど実は大事なことのように思えてきました。

 介護のスクーリングはまだまだ続きます。
 

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「野生生物と交通」の研究発表会 ~ 特別講演は「ヒグマ管理計画」についてでした

2023-03-03 23:08:24 | Weblog

 

 今日は朝から「野生生物と交通」に関する研究発表会を聴講してきました。

 この手の研究発表会の多くはコロナ下ではリモート開催だったものが多く、今日の発表会も会場に参加した形で行われるのは3年ぶりとのことでした。

 開会のあいさつの後の特別講演は道庁環境生活部樋熊対策室の方による「北海道ヒグマ管理計画と諸課題への対応について」と題した、ヒグマ対策のお話。

 北海道におけるヒグマは、自然動物の象徴でもある一方で農業被害や人的被害も大きな、しばしば害獣にもなる存在です。

 一時は毛皮や熊の胆が売れるというのでいわゆる「春熊駆除」と言う形で制限なく狩猟の対象となっていた時期があります。

 しかしそのために全道の熊の頭数が減って絶滅の可能性が出たことから春熊駆除は中止されました。

 しかしそれと並行して隣地境界での営農放棄などによって熊が人里にきやすい環境になり、農業被害を及ぼしたり、果ては人との遭遇によって人的被害も出てくるようになりました。

 そこで道庁では令和3年に「北海道ヒグマ管理計画」を策定し、人とヒグマの軋轢を緩和することを目指すと同時に、地域によっては絶滅の恐れのある地域個体群の存続を図ろうとしています。

 
【道庁 ヒグマ対策の手引き】
 https://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/skn/higuma/higuma_taisaku.html

 このあたりの最新事情は道庁のホームページをみていただくのが一番ですが、まだまだヒグマに対する知識が一般の道民にも欠けているところがあって、講師は「学校教育や社会教育を通じてヒグマの知識をもっと持ってもらいたい」と述べられました。

 野生動物が鉄道や自動車と接触するという事故(=いわゆるアニマルアタック)は年々増えているのですが、その中でも熊とそれ以外のシカやキツネなどと違うのが、接触したのが熊の場合はハンターさんを呼んで死んでいることを確認しないと除去できないことです。

 またもしも事故に会いながら死んでいない時はどうしたら良いかの判断が難しい、法律のエアポケットで宙ぶらりんな位置づけにもあります。

 今では春熊駆除を止めたことで個体数は漸増の一途をたどっており、市街地に迷い込んで人間社会と接触するアクシデントも増えています。

 また一方でハンターの高齢化によって適切に駆除できる社会の力は減りつつあります。

 こうした課題を今後に向けて一つずつ解決してゆかなくてはなりません。


 講師が述べて面白かったのは、「ゴースト熊」ということでした。

 これは住民が「熊らしきもの」を見て警察に連絡することで、その多くは見誤りなのだそう。

 そもそも熊もさすがに市街地にはそうそう出てくるものではありませんが、しばしば人を熊だと思ったり、落ちている糞を熊のものだと思い込んでしまうことなどで「熊らしきもの」が独り歩きして社会不安を増大させてしまうのです。

 一方で登山や山菜取り、釣りなどで人間が熊の住処に入り込んでゆく場面も多くあります。

 自然の中に入るためには、熊に対する正しい知識と正しい備え、対処の仕方などを十分に学んでからにしたいものですね。

 北海道で森や林の中に入るときは熊鈴と熊スプレーは必須です。

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北海道開拓に東本願寺の果たした功績

2023-03-02 22:08:25 | Weblog

 友人との飲み会でススキノへ行くのに久しぶりに電車に乗り東本願寺前の駅で降りました。

 

 実はこの東本願寺、北海道開拓の初期に大きな役割を果たしています。

 浄土真宗(門徒宗)はあまりに勢力が強く時の幕府に反抗する勢力だったために、織田信長によって1570年代の俗にいう石山本願寺戦争によって攻め立てられました。

 その際に和睦か徹底抗戦かで意見が分かれてその結果中で二派にわかれてしまったとされています。

 その後徳川時代には徳川幕府に庶民の中に入り込んでいきましたが、明治維新の際には徳川幕府についたとみなされて危うい立場になりました。

 特に西本願寺派は西国に寺が多く早い段階で新政府に近づいたものの、東国だった東本願寺派はそれに遅れ、新政府からは厳しい対応を迫られました。

 特に新政府は明治元年に神仏分離令を発令し、それまではあやふやだった神と仏つまり神社と仏閣を分けるようにという政策に転換しました。

 このことは単に分けるだけではなく、神社を優遇し寺を廃止しようという画策さえあったほどで、これがために廃仏毀釈によって日本中で多くの仏像が取り壊されたほどです。

 これを危機と察した東本願寺派は、自ら蝦夷地における新道切立を願い出て、明治三年(1870年)二月十日に、弱冠十九歳の新門跡である現如上人を先頭に、僧侶や信徒など約180人が京都を出発しました。

 東本願寺派蝦夷地につくと、4つのルートで道路を開削しました。

 函館では大野~鶉(うずら)、砂原~軍川の2ルート、今の札幌市内で山鼻~八垂別、そして現在の伊達市あたりから中山峠を通って平岸に至る
約105kmのルートです。

 このうち最後の中山峠を通るルートは現在の国道230号線の前身とされていて、僧侶をはじめ地元のアイヌ人を雇い、さらには仙台伊達藩の移住者などを募って、明治3年7月から翌4年10月までの一年三か月で道を通したと言われています。 

【北海道開発局 ホームページ『本願寺街道』】
 https://www.hkd.mlit.go.jp/sp/douro_keikaku/kluhh40000007mhw.html

 
 こうした苦労の末に、東本願寺派いち早く道内に寺院設立の許可を得て、現在の南7条西8丁目の東本願寺札幌別院に寺院を構えることとなりました。

 今はススキノのはずれのお寺というくらいにしかおもわれていないかもしれません。

 しかし当時のロシアの南下を恐れて蝦夷地の開拓が急務と認識していつつも金のない明治新政府にとって、こうした開拓は大きな支援とみなされたことでしょう。

 人口約200万人の都市札幌の繁栄は、こうした歴史の上に成り立っています。

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夜はちゃんと睡眠が取れていますか

2023-03-01 21:12:37 | Weblog

 

 冬はどうしても早起きの癖がつく季節です。

 雪かきもさらりと降るくらいなら30分で済みますが、がっつりと15センチも降ろうものなら1~1.5時間はかかるのです。

 そのため 天気予報を気にしながら、少しの積雪予報なら6時、絶対に積もっていることを確信するときは5時起きで雪かきをしてから出勤します。

 それが続くともう5時には目覚めるようになってきます。

 さらにワカサギ釣りが始まると、朝2時起きで2時半出発と言うことになり、そうなるとさらに起きるのが早くなる癖がついてしまいます。

 そこへきて老化で体力がなくなってきて長時間睡眠ができなくなります。

 若い人たちが朝いつまでも【寝ている】というのは【寝ていられる】ということでもあり、それだけ体力があることがうらやましくもなります。

 健康教科書の「早寝早起き」と一口に言いますが、やがては夜遅くまで起きてもいられない「早寝」が始まり、意図せずして寝ていられない「早起き」になるわけです。

 さらにさらに、だんだんトイレが近くなって尿意で目が覚めることもしばしば。

 健康の源である睡眠も、安定的な日常を過ごそうと思うとなかなか大変です。


     ◆

 
 実家の母によると、92歳という高齢で少し認知が怪しくなってきた父は、夜床に就いた後しばしば夜中の12時過ぎに起きて服を着替えてテレビを見ていることがあるそうです。

 母が「まだ寝ている時間でしょ」と言うと、「そうか」と言ってまたベッドに入るそうです。

 またときどき実家を訪ねた時も、ウトウトする時間が増えてきました。

 起きている時間と寝ている時間が細切れになるのも老化の一つの側面なのでしょう。

 だんだん日常の24時間と自分の睡眠や生活のタイミングがずれてきているようです。

 
     ◆


 中国の古典にある話ですが、ある若者が故郷を離れて放浪し、趙の都「邯鄲(かんたん)」である老人に出会います。

 若者は老人に貧乏な自らの身の上と不平を語ると、その老人は夢がかなうという枕をその若者にくれました。

 そこで若者がその夢がかなう枕を使ってみると、なんとみるみるうちに出世を果たし美しい嫁を貰い、時には投獄されたりその冤罪を晴らされたりと波乱万丈の人生を歩み、とうとう国王にも就くという栄華を極めます。

 子孫にも恵まれて幸せな人生を歩みながら歳を取り、最後には多くの人々に惜しまれながら眠るように亡くなります。

 そこでふと我に返ると、なんと眠る前に火にかけた粥がまだ煮上がってさえいませんでした。

 若者は枕をくれた老人に、「人生の栄枯盛衰を経験しました。すべては夢であり束の間の出来事でした。先生は私の欲を払ってくださいました」と礼を言い、故郷へ帰って行ったのでした。

 これが世にいう「邯鄲の夢」「邯鄲の枕」といった故事です。

 ふと目が覚めるとキャンプ場で料理の途中で我が人生の夢を見ていた、なんてことがあるでしょうか。

 はかない人生でも今を一生懸命に生きましょう。 

 

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