全部で15回の介護職員初任者研修は今日が4日目。
今日からは「こころとからだのしくみと生活支援技術」という段階に入ります。
ここでは改めて「介護サービスは何を目的に支援してゆくのか」という根源的な問いから始まりました。
介護保険法の第一条「目的」では、この法律は…(利用者)が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう必要な保険医療サービスおよび福祉サービスに係る給付を行う…」とされています。
つまり目的は「高齢者の自立支援ができるように」ということです。
ごく初期の頃の高齢者介護はどちらかというと、高齢者の身体を清潔に保ち、食事や入浴等の面倒を見るなどといった、「お世話をする」ということを中心に考えていたきらいがあります。
今日の介護保険法では、それから脱却して「利用者の能力に応じた自立支援を促す」ということが求められているわけで、そのためには時間がかかっても本人がやる意思のある日常動作は本人に委ねる忍耐が必要になるということです。
介護サービスを受けることで、できれば本人のやれることが増えてゆくというのが理想なのであって、なんでも任されてやってあげるという事とはちがうのです。
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今日の授業の中ではちょっとしたワークショップがありました。
先生からのお題に対して自分なりの答えを書いて、それから受講者同士(といっても全部で3人しかいないのですが)で答えを述べ合って意見を交わすというものです。
先生からのお題は3問で、
①自分が生活で大切にしていることは何か
②自分が片麻痺(右半身まひ)になり介護サービスを受けることになったら、どんなことをしてほしいか
③逆に片麻痺になった時にどんなことをしてほしくないか
…というものでした。
私自身が大切にしていることは「趣味の充実」や「家の周りの整理や雪かき」などとし、してほしいことは服の着替えなど身の回りの"できないこと"へのサポートでした。
また「してほしくないこと」では「トイレの世話」や「入浴の世話」などを挙げてみましたが、改めて、もしもそういう身体状態になったとしたら何をしてほしくて、何をしてほしくないのかを考えるきっかけになりました。
自分がしてほしくないことは、介護の現場でも利用者がためらいを感じるサポートなのかもしれません。
考えたくなくてつい避けている話題ですが、自分自身の「もしも」を想定すると、高齢化によってそこに向かっている自分の姿が見えるかもしれません。
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授業の後半では、「記憶の問題」「感情の問題」などにも触れてゆきます。
そして今日の最後に「自己概念と生きがい」という話題になりました。
私たちが歳を重ねて高齢化してゆくその姿には大きな個人差があります。
いつまでも健康で元気なお年寄りもいれば、若くして病気や障害を得て機能が衰え、意欲が衰えてゆく方もいます。
まずは自分自身とはどういう人間なのか、という「自己概念」を改めて自分自身に問うてみることをお勧めします。
そこで浮き彫りになる好き嫌いや行動の癖、考え方の価値観などは介護を受ける際に、一人ひとりの情報として大切な事柄です。
自分とは何か、を自問自答してみることをお勧めします。
そして最後に「老年期」という人生の時期についてです。
老年期は様々な「喪失・衰退」に触れることが多くなります。
身体機能の喪失、友人や身内との死別・離別などがある日突然、あるいはゆっくりと進行しながら自分の元から去ってゆくのです。
生きている限りはそうした喪失などに「ショックを受け」「否認したくなり」「混乱し」しかしその過程を経て「解決への努力」が始まり、「それらを受け入れる」という段階に至ります。
これらも普段から少しずつ心の訓練をしておいて良いことかもしれません。
白髪を一本認めたとき、顔のしわが一本増えたとき、体に何らかの衰えを感じたとき、それははつらつとしていた自分から若さが「喪失」していった小さな一歩です。
それを仕方がないと受け入れてすぐに納得できるでしょうか。
少しはそれに抗う努力があっても良いかもしれません。
しかし早晩それらは無駄な努力になることがわかります。
いつかそれを受け入れなくてはならない段階に至るのです。
先日、「高齢者は集団自決せよ」という意見を述べる学者が現れて物議をかもしました。
私たちの社会に最初から高齢に生まれた高齢者といつまでも若い若者がいるわけではありません。
人は幼少期から青年期、壮年期を経て高齢期に至る生物です。
だから「高齢者」ではなく「高齢期の人々」と言うべきだ、という人もいます。
高齢期の自分がどうなっているかの想像力を養っておくことは怖いけれど実は大事なことのように思えてきました。
介護のスクーリングはまだまだ続きます。