K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

福岡 1日目④   金印

2009年8月15日(土)



金印とは・・・
 1784年に福岡県志賀島で百姓甚兵衛が発見した金製の印章です。
この金印には「漢委奴国王」と刻まれていました。そこで中国の歴史書『後漢書』に記された印綬と推定されています。
因みに1784年のころの日本は田沼時代で、1786年に田沼意次は失脚します。アメリカは1783年にパリ条約でイギリスに独立を承認されました。フランスは1789年にフランス革命が勃発します。



福岡市博物館蔵

造り 鋳造
高さ 2,2365cm
辺長2,347cm
重さは108,7g
福岡県埋蔵文化財センターの分析結果の発表によると、金95,1%・銀4,5%・銅0,5%の極めて純度の高い中国産の金。

つまみの部分を鈕(ちゅう)といい、蛇の形です。
綬はつまみの部分に通した組みひものことです。

漢委奴国王をどのように読むか論争があるようですが、今回はそこまで踏み込めないので、定説となっている「かんのわのなのこくおう」後漢の光武帝が倭(日本)の奴国の国王(に与えた)という解釈とします。さらに、発見地についても問題があるようですが、田んぼで発見ということで話を進めていきます。

金印発見のおはなし
 発見についてはいまだ疑問が残っているようですので、簡単に説明します。お百姓の甚兵衛さんのが志賀島の田んぼでキラキラ光る金印を偶然発見しました。時は江戸時代の後半にあたる1784年2月23日でした。3週間後の3月16日に那珂郡役所に発見のいきさつを報告した口上書をつけて届けでました。



※口上書
「私の所有地、叶の崎というところの、田んぼの境の溝の水はけが悪かったので、先月23日、溝の形を修理しようと岸を切り落としていたところ、小さい石がだんだん出てきて、そのうち2人もちほどの石にぶつかりました。この石をかなてこで取り除いたら、石の間に光るものがあり、取り上げて水ですすぎ洗いしてみたところ、金の印判のようなものでした。・・(以下省略)」
※ 百姓甚兵衛の名前が志賀島村の過去帳にないので、実在した人物かの疑問があります 発見者は甚兵衛ではないという説もあるようです。
※ 発見からお届けまで3週間もの間があるの江戸時代としては期間がありすぎます。というのは十両盗めば首が飛ぶといわれた時代です。

金印が光武帝から奴国が賜ったものと考証した人物はだれ
1784年2月に福岡藩は2つの藩校(東学問所・修猷館(現県立修猷館高校)西学問所・甘棠館)を同時に開校しました。福岡藩は西学問所の館長・亀井南冥に金印の鑑定を依頼すると、亀井南冥は『後漢書』の奴国が中国後漢皇帝光武帝から授与された、と考証しました。


※ 『後漢書』(5世紀に書かれた後漢の正史)
建武中元2年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人みずから大夫(たいふ)と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬をもってす。安帝の永初元年、倭の国王帥升(すいしょう)ら、生口160人を献じ、請見(せいけん)を願う。間霊の間、倭国大いに乱れ、更々(こもごも)相攻伐(あいこうばつ)して歴年(れきねん)主(あるじ)なし。」とあります。
赤字の部分を解説します。
建武中元二年(=57年)に博多湾付近にあった「クニ」奴国の大臣が中国後漢時代初代皇帝光武帝に朝貢しました。光武帝は奴国の王に印綬を授けました。


金印はなぜ有名なの?

①日本列島に文化を育んだ私たちの祖先は文字を発明せず、日本語表記に漢字を利用するようになりました。その最古の日本語表記は5世紀の埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣・江田船山古墳出土の鉄刀銘に刻まれた文字ですが、現存されている日本語表記のまとまった史料は奈良時代にはいった712年の「古事記」、720年の「日本書紀」です。日本古代史の有名な蘇我馬子・聖徳太子・天智天皇・天武天皇・持統天皇などの業績は「日本書紀」を由来としています。「憲法十七条」(604年)や大化の改新と改新の詔などなどそのものの史料はありません。「日本書紀」の記述に符合した考古学上の発見があれば確かにその事実があったのだという証拠になりますが、物的証拠がない場合も「日本書紀」記述を信用して正しい歴史となっています。ですが、物的証拠(考古学上)がない場合は定説でもその存在を疑うことは不思議なことではありません。少々前置きが長くなってしまいましたが、この件については金印を考察するに当たって、大事なことになるようなきがします。

②日本列島の人類の歩みは世界史的に見れば旧石器時代の末期に始まり、縄文文化~弥生文化へと発展していく過程を考古学上の遺跡の発見で明らかになっていますが、文字の史料がないのが今ひとつ物足りないところです。
弥生時代に水稲耕作が広まると、集落のあいだにさまざまな対立抗争がうまれました。その抗争を通じて集落のあいだに上下関係や支配・被支配の関係がつくられより広い地域を支配する権力ができていったと考えられます。こうして1世紀前後には各地に「クニ」とよばれる小国が形成されました。この「クニ」の存在は日本各地に遺跡が発見されていますので疑う余地はありません。「クニ」の成立過程に関する史料が隣国中国の歴史書に記述されています。金印は中国の歴史書の記述の物的証拠となりました。

 ③中国の文字は殷墟(前1500年ころ)から発見された甲骨文字が最初で、これが発展して漢字が成立します。彼らは多くの史料を残しています。その中に、二十四または二十五正史といわれる歴史書があります。
その第一番目は前漢武帝時代の司馬遷(前145年頃~前86年頃)の『史記』(前97年成立)です。司馬遷は当時の史料を編纂して初代皇帝黄帝(伝説時代)から武帝の時代までの『史記』を書きました。この『史記』に日本列島の記述はないので、この段階では日本列島に隣国中国へ使者を遣わす力があったもの「クニの王」は存在しなかったと見てよいのではなかろかと思います。
二番目の歴史書は後漢光武帝時代の班固の『漢書』です。この『漢書』地理志に「それ楽浪海中に倭人あり。分れて百余国となる。歳時をもって来り献見すという」と記述されています。この内容を検討してみます。
楽浪は前漢武帝の時代に朝鮮北部を征服(前108年)しました。その時に設置した4郡のひとつを楽浪郡といいます。楽浪郡の海のかなたに倭人がいる。倭人は100余りのクニに分かれている。それらのクニは毎年貢物を持って楽浪郡にあいさつに来ます。と、解釈していいと思います。倭人は日本列島に住む人々のことというのが定説ですので、ここで初めて中国の歴史書に日本の様子が記述され、日本の考古学上の成果である紀元前後に日本列島に多くの「クニ」が存在してたことが中国の歴史書と符合したわけです。
 中国の時代順からみると次の正史は「後漢書」です。「建武中元2年(=57年)、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人みずから大夫(たいふ)と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬をもってす・・・(上に記したので以下省略)

日本語表記の史料がない時期の中国の歴史書の文と符合する考古学上の発見は歴史の上で大発見です。このことが金印を有名にした理由です。ですので中学歴史・高校日本史の教科書に必ず記載されています。

卑弥呼も印綬を賜っています
中国の正史の『三国志』の「魏志倭人伝」(著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年-290年間)に書かれた)に「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ」とあるので、赤字部分は「親魏倭王となし、金印紫綬を与える。包装してから帯方太守に託し、授けるとしよう」といわけで、卑弥呼も金印を賜ったようですが、この金印は発見されていません。

中国で印章はどのような意味をもっていたのだろうか
①ちょっと、今回のテーマから横道にそれますが、世界史上の印章のはじまりについてかきます。「歴史はシュメールに始まる」という言葉がある通りチグリス・ユーフラテス両河のメソポタミア文化は黄河文明より古く、古代エジプト文化とどちらが先ともいえないほど文化の始まりは古いです。メソポタミア地方は周辺から人々が流入しやすい土地柄だったので、多数の民族が混在していました。メソポタミア南部に住んでいたシュメール人は文字を発明し法律を作り、他の民族に先駆けて歴史時代にはいりました。この地は多民族が混在するということから商業が盛んでした。人々は首から印章をぶら下げ、売り買いが成立すると、土の塊を紙のように伸ばして(粘土板)、売買の内容を引っかくように文字(楔形文字)を書き、印章を押し、別の土を平らに伸ばし粘土板を包み込むように封筒を作り封をしました。売買に疑問が生ずると土の封をカンと割り、取引の内容を確認します。メソポタミアの人々が首からぶら下げていた円筒形の印章は東西に伝わり、中国では戦国時代に使われるようになったとのことです。

②印章は漢時代に皇帝を頂点とする制度として整備され、外交政策としても利用しました。先ず、材質として金印・銀印・銅印がありました。つまみの部分を鈕(ちゅう)といって、皇帝は虎鈕(こちゅう)、皇太子は亀鈕(きちゅう)などです。鈕に通す紐を綬(じゅ)といって皇帝は朱綬です。
漢の皇帝は朝貢する周辺の国王へ印綬を授けました。北方遊牧民の鈕はらくだや羊の形の金印とのことです。日本で出土した金印は蛇の鈕です。蛇は他に例がなかったので、この金印は偽であるとその真偽が疑われていましたが、1956年雲南省から蛇鈕が出土したので、疑いは晴れたとのことです。
印綬はその後、唐時代に大きくなったとのことで、この金印は小さいけれど、漢時代の普通サイズのようです。

さいごに

博物館で金印を最初に見た時、小さいは漢の時代の普通サイズということで私の疑問は解消しました。
次にピカピカきれい、これが本物なの、という疑問はまだ解消されません。
その1 金印が志賀島で発見された頃の日本の学者は中国の歴史書を熟読していたので『後漢書』『魏志倭人伝』の印綬を探していたと考えてもいいと思います。そこで、研究熱心なあまり鋳造してしまい、ポイと志賀島の田んぼに埋めたではないかしらという疑問をもちました。しかし、、1997年の蛍光X線分析の結果、金の産地は中国ということが判明しているので、疑問はほぼ解消ですが、やや疑問も残ります。
その2『後漢書』そのものの記述についての疑問です。
中国の正史を次代順に並べると、史記→漢書→後漢書→三国志・・・となりますが、書かれた順番は史記→漢書→三国志→後漢書・・・となります。
史記・漢書・三国志は著者が自分が生きている時代を書いています。
しかし、後漢書はほぼ400年前のことを書いているので『三国志魏志倭人』の卑弥呼が印綬を授かったことを手本に創作したということも考えられます。というのは、中国の歴史書も前時代の正史を手本に書く傾向があります。

この金印が確かに光武帝から奴国に賜ったことを証明するにはこの金印に語らせる必要があるのではないでしょうか。金印の鋳造所を突き止められれば、さまざまな疑問も解消できると思います。


『謎とミステリーだらけの志賀島の金印」編集発行わらび社
『日本史資料集』東京書籍
『新詳日本史』浜島書店
福岡市博物館HPなどを参考にしました。

スタンプの金印(実物大)をコッコーへのお土産にしました、、、仕事にも役に立つし
大きさが分かるように携帯を置きました。
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