蔵くら日記

人生最後の数年を田舎暮らしで。2004年4月、実現のための行動開始!それは思わぬ展開でスタート・・。今では安曇野三昧

10月の安曇野 拾ケ堰見学

2005年10月17日 | 安曇野とその周辺
ようやく秋の気配が

堀金物産センターにて
朝早く出かけないとお目当ての品がなくなる大盛況ぶり

今月の月刊誌「KURA」は道の駅特集
堀金物産センター女性群の笑顔が紹介されています
大阪では見なかった地方誌ですが、信州のことならお任せである
(一部の紀伊国屋書店にはあるそうです)

シールに「甘柿」○○作とある
すぐ隣の婦人に
「これはどうして食べますか?」
「このままかじって!農薬かかってないよ」
「ん?」
「これ私が作ったの。もう一袋あげます」と私の手提げ布袋にいれてくれたが、
二人家族には多いし、レジで困るよなあ。
結局その農婦人は私が1袋分の支払いが済むまでじっと見守ってくれました

直径5センチ、長さ5.5センチ。艶よし。
可愛い柿は小さいだけに種が邪魔ではありますが
おつまみのように、美味しくいただいていま~す。



10月11日
拾ケ堰見学&レクチャーバスに、押しかけ便乗しました
堀金物産センターから14:30発車を待ち構えて見学バス便乗を交渉する
アジア(カンボジア他)からの研修生一行約20名のプログラムのひとつを
JAあづみがサポートした研修ツアである。
講師は中島博昭氏

先生が日本語で説明すると、通訳二人がアジア言語と英語で伝えるのだが、
時々二重奏になる
    写真:表情豊かなアジアの若者達


(1)安曇野の豊かな水はどこからくるのか?
北アルプスの山から幾筋もあるが、扇状地に地下浸水してしまうので、
農業には不毛の土地だった。
江戸時代後期(1816年)農民達の手で治水事業が始められ、拾ケ堰ができたという。
北アルプスは曇天で全く見えず、研修生は想像で聞いていたことになる。

(2)戦争の頃、山の木を伐採したため大雨が降ると拾ケ堰は氾濫した。
10年前に川の幅を広げてコンクリートで護岸工事をし、ミニダムをつくった

写真左:堀金の取水制限システム  写真右:緑豊かな農作物をバックに写真撮影する研修生

以前写真でみたような緑豊かな川ではなく、想像とは違っていた
おまけに下車した時、プ~ンと臭い、流れに草やゴミが浮かぶ。
すでに稲の刈り取りが済んでおり、流水を制限しているためだった。
田に水を送る時期はもっときれいだと・・・・説明があった
せっかくの見学に時期が悪かったなあ、残念
全長15キロでしょうか、全域がコンクリートになっているのか?
一部でも緑地帯の箇所があるのか?いつか探しに行きたいと思います

(3)奈良井川の取水制限システム
「南安曇郡(現安曇野市)拾ケ堰土地改良区」なる看板のある建物で
コントロールされているダムである。
山から流れる水が不足した場合、ここから安曇野へ水がおくられる。
約1000ヘクタールをまかなえるという。
写真左:取水制限ダム  写真右:熱心に説明を聞く研修生たち

(4)ポイントは標高570メートル!
拾ケ堰は南から北へ流れています、つまり安曇野を横断して水を供給している。
奈良井川の取水制限ダムから平行に、つまり標高570メートルを横断している。
そこで研修生の一人が「ん?」と疑問顔。
そうです、ある地点(地名がわかりませんでした)を境に標高570メートル以下にできているのです。
先人の知恵と技術もすごいが、あの時間内の説明でこの疑問をぶつける研修生もすごい!
こうしておいしい安曇野米は、県下でも優秀な量と品質を誇っています。
西山から東へ、温泉観光 りんごや米 わさび栽培と今の安曇野を形成したのです。

バスの中では中島先生が「安曇節」を熱唱しやんやの喝采を浴びる。
細い道にバスが通りきれずバックするやら、見学地へ行く時間が不足したりで、
ちょっとマネジメントに難はありましたが、無事終了となりました。

研修生達からお別れの「バイバイ」を頂いたり、堀金物産センターの
ライスクラッカーをプレゼント(ほんの少し)したりで、3時間の押しかけ研修がおわり、
夕暮れの中を家路につきました。
JAあづみさん、コーディネーターのHさんどうもありがとうございました
アジアの人々が、自国でこの経験を活かし活躍されることを願っています。

後記
北野 進著「安曇野と拾ケ堰」(平成5年4月発行)の写真には護岸工事前の緑豊かな水べりを
見ることができます(分厚過ぎて完読は無理かもしれない



拾ケ堰の拾は当時の安曇平10ケ村を表し、工期は3ケ月の突貫工事であったという。
当時の土木技術から察するにその意気込みと努力がうかがえます。

最後に、著者の「あとがき」より転載します
=====================================
安曇平のルネサンスの原点には「拾ケ堰」があったといってよい。中略・・・ 
安曇平に今も点在する道祖神には江戸時代後期以降に造立されたものが多い。
これは、産業技術史的にみて、「拾ケ堰」が開墾と農業生産拡大という
発展段階に無関係でないと考えている。
このような視点に立てば、安曇平の道祖神も芸術も文化も「拾ケ堰」の
水の流れとともに四季折々に育ってきた。
若き日の荻原碌山や山本安曇などの心をはぐくんだ安曇の自然と風土の中には、
万水川、乳川、中房川、烏川の自然の流れのほかに「拾ケ堰」が、豊かな水量と
緩やかな流速をもって美しい田園を潤していた。
=====================================
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする