2018年3月の訃報特集は書かなかったので、4月と合わせて書くことにする。映画人や学者などの訃報は別に書きたいので、まずその他から。新聞1面で取り上げられたのは、衣笠祥雄とホーキングと竹本住太夫だった。鉄人と博士と人間国宝である。
僕の若いころ、プロ野球では広島カープだけが優勝経験がなかった。その広島が初優勝を決めたのは、1975年10月15日、デイゲームの後楽園球場。その日、僕は球場の付近に行っていた。大学の友人と一緒だったから、多分急な休講で時間が空いて、じゃあ皆で見に行くかということだったんじゃないか。でもチケットは売り切れで周辺で歓声を聞いて優勝を知った。東京ドームができるのは1988年だから、その頃は外でも音が聞こえたわけだ。その年は初の外国人監督ルーツを迎え、一塁手衣笠は監督によって三塁手にコンバートされた。ルーツは早々に辞任し古葉監督に代わったが、山本浩二、衣笠祥雄を中心にして「赤ヘル旋風」と呼ばれ優勝した。
(2011年、リプケンと被災地を訪れた時)
衣笠祥雄(1947~2018.4.23、71歳)は、1964年に京都・平安高校で甲子園春夏ともベスト8。この頃の注目選手だったら、大体高校から知っていた。1965年にカープに入団し、68年からレギュラー。衣笠と言えば、なんといっても連続出場試合記録。1970年10月19日の巨人戦から、1987年10月22日の大洋戦まで、2215試合の連続出場を果たした。ゲーリッグの大リーグ記録(2130)を超えたとして、国民栄誉賞も受けた。通算安打2543本は歴代5位、通算ホームラン504本は歴代7位。タイトルは84年の打点王しかなく、どうしても打撃は山本浩二に及ばないイメージが強い。しかし、通算安打は山本浩二は2339本、14位で、衣笠が大きく上回っている。
そういう「鉄人」が71歳で亡くなったのは早すぎる感じだが、やはり現役時代の無理が重なっていたんだろう。死球を受けても次の日に出場するなど、ニュースで何度もやってた。星野仙一も同様で、プロスポーツ選手の大変さなんだと思う。その後大リーグの連続試合出場記録は、カル・リプケンの2632試合という凄い人が出た。リプケンは東日本大震災の時に、衣笠とともに被災地も訪れた。訃報を聞いて思い出したが、二人に友情が生まれたのも素晴らしいと思う。
「鉄人」で長くなってしまった。スティーヴン・ホーキング(1942~2018.3.14,76歳)は、「車いすの天才学者」として知られ、多くの著作とともに世界で有名になった。21歳の頃、「筋萎縮性側索硬化症」(ALS)と診断されたが、研究を続けて32歳で史上最年少の英国学士院会員となった。若い時期のことは映画「博士と彼女のセオリー」になったが、うっかり見逃してしまった。相対性理論と量子力学を駆使して新しい分野を切り開いたというけど、もうそこまでの話はよく判らない。85年以後、常時看護が必要になり、一般向けの本を書き始めた。指が使えなくなると、顔の筋肉の動きをコンピュータが人工音声に変換して講演活動も続けた。博士も鉄人だった。
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文楽の人間国宝、7代目竹本住太夫(たけもと・すみだゆう、1924~2018.3.28、93歳)もまた「鉄人」である。2014年5月の引退まで、芸歴68年に及んだ。文楽は人形遣いと浄瑠璃語りと三味線伴奏がいるわけだが、住太夫は語りとして最高峰と言われた。人間国宝、文化勲章だけでなく、フランス芸術文化勲章なんかも受けている。稽古に厳しいことで知られ、自分にも厳しいが弟子にも厳しい。1日に浅草で桂吉坊と玉川奈々福の会を見たんだけど、上方落語の桂吉坊は葬儀のあとで東京に来たと語っていた。昔から住太夫を聞いていて、大阪の国立文楽劇場の公演を聞くと楽屋の行こうとすると、厳しい叱責の声が響いてきて近づけなかったと言っていた。多分、僕も一回ぐらいは聞いているんだと思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6b/bd/9f1a26040f751a925177dbb8ef23061b_s.jpg)
能楽一噌流の笛方、一噌仙幸(いっそう・ひさゆき、4月24日没、77歳)、琉球古典音楽の島袋正雄(4月24日没、95歳)も人間国宝(重要無形文化財保持者)だった人。
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僕の若いころ、プロ野球では広島カープだけが優勝経験がなかった。その広島が初優勝を決めたのは、1975年10月15日、デイゲームの後楽園球場。その日、僕は球場の付近に行っていた。大学の友人と一緒だったから、多分急な休講で時間が空いて、じゃあ皆で見に行くかということだったんじゃないか。でもチケットは売り切れで周辺で歓声を聞いて優勝を知った。東京ドームができるのは1988年だから、その頃は外でも音が聞こえたわけだ。その年は初の外国人監督ルーツを迎え、一塁手衣笠は監督によって三塁手にコンバートされた。ルーツは早々に辞任し古葉監督に代わったが、山本浩二、衣笠祥雄を中心にして「赤ヘル旋風」と呼ばれ優勝した。
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衣笠祥雄(1947~2018.4.23、71歳)は、1964年に京都・平安高校で甲子園春夏ともベスト8。この頃の注目選手だったら、大体高校から知っていた。1965年にカープに入団し、68年からレギュラー。衣笠と言えば、なんといっても連続出場試合記録。1970年10月19日の巨人戦から、1987年10月22日の大洋戦まで、2215試合の連続出場を果たした。ゲーリッグの大リーグ記録(2130)を超えたとして、国民栄誉賞も受けた。通算安打2543本は歴代5位、通算ホームラン504本は歴代7位。タイトルは84年の打点王しかなく、どうしても打撃は山本浩二に及ばないイメージが強い。しかし、通算安打は山本浩二は2339本、14位で、衣笠が大きく上回っている。
そういう「鉄人」が71歳で亡くなったのは早すぎる感じだが、やはり現役時代の無理が重なっていたんだろう。死球を受けても次の日に出場するなど、ニュースで何度もやってた。星野仙一も同様で、プロスポーツ選手の大変さなんだと思う。その後大リーグの連続試合出場記録は、カル・リプケンの2632試合という凄い人が出た。リプケンは東日本大震災の時に、衣笠とともに被災地も訪れた。訃報を聞いて思い出したが、二人に友情が生まれたのも素晴らしいと思う。
「鉄人」で長くなってしまった。スティーヴン・ホーキング(1942~2018.3.14,76歳)は、「車いすの天才学者」として知られ、多くの著作とともに世界で有名になった。21歳の頃、「筋萎縮性側索硬化症」(ALS)と診断されたが、研究を続けて32歳で史上最年少の英国学士院会員となった。若い時期のことは映画「博士と彼女のセオリー」になったが、うっかり見逃してしまった。相対性理論と量子力学を駆使して新しい分野を切り開いたというけど、もうそこまでの話はよく判らない。85年以後、常時看護が必要になり、一般向けの本を書き始めた。指が使えなくなると、顔の筋肉の動きをコンピュータが人工音声に変換して講演活動も続けた。博士も鉄人だった。
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文楽の人間国宝、7代目竹本住太夫(たけもと・すみだゆう、1924~2018.3.28、93歳)もまた「鉄人」である。2014年5月の引退まで、芸歴68年に及んだ。文楽は人形遣いと浄瑠璃語りと三味線伴奏がいるわけだが、住太夫は語りとして最高峰と言われた。人間国宝、文化勲章だけでなく、フランス芸術文化勲章なんかも受けている。稽古に厳しいことで知られ、自分にも厳しいが弟子にも厳しい。1日に浅草で桂吉坊と玉川奈々福の会を見たんだけど、上方落語の桂吉坊は葬儀のあとで東京に来たと語っていた。昔から住太夫を聞いていて、大阪の国立文楽劇場の公演を聞くと楽屋の行こうとすると、厳しい叱責の声が響いてきて近づけなかったと言っていた。多分、僕も一回ぐらいは聞いているんだと思う。
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能楽一噌流の笛方、一噌仙幸(いっそう・ひさゆき、4月24日没、77歳)、琉球古典音楽の島袋正雄(4月24日没、95歳)も人間国宝(重要無形文化財保持者)だった人。