ラウル・ペック監督の映画「マルクス・エンゲルス」と「私はあなたのニグロではない」が相次いで公開された。ラウル・ペックって言われても、誰だろうと思うだろう。監督の知名度で客が呼べるような人じゃないから、19世紀ヨーロッパの伝記映画と20世紀アメリカの黒人問題のドキュメンタリーが同じ監督の作品だとほとんど宣伝していない。社会派映画好きでも気づいてないかもしれない。でも両方見ることで世界がよりクリアーに見えてくる。
「マルクス・エンゲルス」(2017)は原題が「Le jeune Karl Marx」(「若きカール・マルクス」)である。(上映された映画にはフランス語で題が表記されている。)しかし、カール・マルクスと同じぐらいフリードリッヒ・エンゲルスも出てくるから、両者の名前を邦題にしたのは適切だ。映画は1843年から1848年の5年間を描いている。ライン新聞が廃刊になってマルクスがパリに移った時から、1848年に「共産党宣言」を執筆するまで。1844年にエンゲルスと再会し、二人で行動を共にしながら「世界は解釈するだけではなく、変革しなければならない」と考えるようになる。
映画はマルクスの移動に伴って、ドイツ語、フランス語、英語で語られる。いつでも誰でも、皆が英語を話してるような映画じゃない。当時の状況を当時の世界に入って体験する映画だ。二人と同じぐらいマルクス夫人のイェニー(ジェニー)やエンゲルスの事実婚相手のメアリー・バーンズが印象的に描かれている。でもこの映画の作りは基本的には「バディ・ムーヴィー」だ。昔の「明日に向かって撃て!」や「スティング」みたいに、ちょっと違った二人が共に活躍する映画である。この映画も終生の仲間を見つけて、「闘い」に生きる人生を選び取るまでの物語である。
それはいいんだけど、その「闘い」は社会主義思想を純化する闘いが中心である。当時の人物として、プルードン、バクーニン、クールベなどが出てくるが、プルードンの「貧困の哲学」を批判した「哲学の貧困」が評判になる様子は興味深い。二人の闘いによって、空想的社会主義や無政府主義から「脱皮」して、闘う共産主義の団体「共産主義者同盟」が誕生する。「万国のプロレタリアよ、団結せよ」。でも、この描き方はどうなんだろう。公式的というか、正統というか、今からみれば、むしろ「友愛」や「自由」をもっと大切にする運動もありえたのではないか。そういう問いかけは感じられず、20代の若者二人の成功譚で終わるのが残念な気がする。
(ラウル・ペック監督)
監督のラウル・ペック(1953~)は、カリブ海のハイチで生まれた。ハイチ(フランス語だから、アイティと書くべきだけど、日本での慣例に従う)は、コロン(コロンブス)がたどり着いたイスパニョーラ島の西部にある国で、ここだけフランス領になった。アフリカから黒人奴隷を連れてきて農園経営が行われたが、19世紀初頭に革命が起こり、世界初の黒人国家ができた。その革命を描いた作品として、ジロ・ポンテコルボ(「アルジェの戦い」の監督)の映画「ケマダの戦い」や乙骨淑子(おつこつ・よしこ)の児童文学「八月の太陽を」などがある。
コンゴ、アメリカ、フランスで育ち、ベルリンの大学で学んだ。1996年から97年にはハイチで文化大臣を務め、2010年からパリの国立映画学校の学長になった。こういう経歴を見れば、英語、ドイツ語、フランス語が映画で自在に使われていたのも理解できる。今までに日本で一本だけ公開作品があり、それは2001年の「ルムンバの叫び」である。そういえば見たことがある。1960年のコンゴ独立で初代首相になったルムンバは、宗主国だったベルギーやアメリカが介入したコンゴ動乱で殺害された。このような経歴の監督だから、アメリカの黒人問題に関心が深いのも当然だろう。そして「闘う人々」をテーマにしているということも。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/32/58/12020d19b696c6376fc9473f76052641_s.jpg)
「私はあなたのニグロではない」(2016)はアメリカ60年代を中心にした黒人問題のドキュメンタリー映画で、2017年のアカデミー賞長編記録映画賞にノミネートされた。題名は有名な黒人作家ジェームズ・ボールドウィンの言葉からで、黒人俳優のサミュエル・L・ジャクソンがナレーターをしている。まさか本人の語ったテープがあるわけじゃないだろうと思ったけど、まるでボールドウィン本人が語り続けているかに感じられる。映画はメドガ-・エヴァンス(1963年に暗殺された黒人運動家)、マルコムX、マーティン・ルーサー・キングという60年代に暗殺された黒人運動家への回想を中心に進行する。全編を深い内省のトーンが覆っている。
ボールドウィンはハーレムに生まれ、同性愛者というもう一つのマイノリティでもあった。その人生はかつて「ハーレム135丁目 ジェイムズ・ボールドウィン抄」というドキュメント映画になった。その映画はとても面白かったので、僕は2回見に行った。声をあげると命に関わる場所で黒人は生きてきたんだということがよく判る。だから彼は文章を書くためにパリに行かなければならなかった。しかし、パリで見た新聞で南部の高校に黒人として初めて入学した少女の写真を見て、アメリカに帰るときだと決意した。そしてアメリカで見て考えた言葉を再構成して作られた力強い映画である。
2018年はマルクス生誕200年だけど、キング牧師暗殺50年の年でもある。現代に生きている意味で考えるならば、「私はあなたのニグロではない」の方が重要なんじゃないだろうか。僕は見るならば是非両方見るべきだと思う。ところで、東京新聞のコラムに「レディ・プレイヤー1」が「おっさんホイホイ」の映画だと出ていた。そんな言葉があるんだ。「おっさん」を吸い寄せる懐古臭があるという意味である。「マルクス・エンゲルス」も相当強烈な「おっさん(じいさん?)ホイホイ」じゃないかと思う。最近は閑散としていた岩波ホールが、平日だというのに「ジーサンズ」で混んでいる。でも「バーサンズ」が連れだって来るのに対し、「ジーサンズ」は友だちがいないから、昔の「八月の鯨」の時のような長蛇の列ができるほどにはならない。まあ、ちょっとビックリした。
ところで、「マルクス・エンゲルス」と「・」(ナカグロ)でつなげるのはどうなんだろうか。ドナルド・トランプのように、今の日本ではファーストネームとラストネームの区別のためにナカグロを使うのが普通だ。昔、マルクス・エンゲルスとかマルクス・レーニンという人物がいると思い込んでいる人がいるという笑い話があった。ローマ皇帝マルクス・アウレリウスとかサッカー選手の田中マルクス闘莉王という人もいるんだから、一人の人物と思いこむ若い人が出ないだろうか。もっとも、もうマルクスという人物自体を若い人は知らないのかもしれないが。(両作の共通点は、ボブ・ディラン。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/48/37/f367c42a4a79c426390b086575976f9c_s.jpg)
「マルクス・エンゲルス」(2017)は原題が「Le jeune Karl Marx」(「若きカール・マルクス」)である。(上映された映画にはフランス語で題が表記されている。)しかし、カール・マルクスと同じぐらいフリードリッヒ・エンゲルスも出てくるから、両者の名前を邦題にしたのは適切だ。映画は1843年から1848年の5年間を描いている。ライン新聞が廃刊になってマルクスがパリに移った時から、1848年に「共産党宣言」を執筆するまで。1844年にエンゲルスと再会し、二人で行動を共にしながら「世界は解釈するだけではなく、変革しなければならない」と考えるようになる。
映画はマルクスの移動に伴って、ドイツ語、フランス語、英語で語られる。いつでも誰でも、皆が英語を話してるような映画じゃない。当時の状況を当時の世界に入って体験する映画だ。二人と同じぐらいマルクス夫人のイェニー(ジェニー)やエンゲルスの事実婚相手のメアリー・バーンズが印象的に描かれている。でもこの映画の作りは基本的には「バディ・ムーヴィー」だ。昔の「明日に向かって撃て!」や「スティング」みたいに、ちょっと違った二人が共に活躍する映画である。この映画も終生の仲間を見つけて、「闘い」に生きる人生を選び取るまでの物語である。
それはいいんだけど、その「闘い」は社会主義思想を純化する闘いが中心である。当時の人物として、プルードン、バクーニン、クールベなどが出てくるが、プルードンの「貧困の哲学」を批判した「哲学の貧困」が評判になる様子は興味深い。二人の闘いによって、空想的社会主義や無政府主義から「脱皮」して、闘う共産主義の団体「共産主義者同盟」が誕生する。「万国のプロレタリアよ、団結せよ」。でも、この描き方はどうなんだろう。公式的というか、正統というか、今からみれば、むしろ「友愛」や「自由」をもっと大切にする運動もありえたのではないか。そういう問いかけは感じられず、20代の若者二人の成功譚で終わるのが残念な気がする。
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監督のラウル・ペック(1953~)は、カリブ海のハイチで生まれた。ハイチ(フランス語だから、アイティと書くべきだけど、日本での慣例に従う)は、コロン(コロンブス)がたどり着いたイスパニョーラ島の西部にある国で、ここだけフランス領になった。アフリカから黒人奴隷を連れてきて農園経営が行われたが、19世紀初頭に革命が起こり、世界初の黒人国家ができた。その革命を描いた作品として、ジロ・ポンテコルボ(「アルジェの戦い」の監督)の映画「ケマダの戦い」や乙骨淑子(おつこつ・よしこ)の児童文学「八月の太陽を」などがある。
コンゴ、アメリカ、フランスで育ち、ベルリンの大学で学んだ。1996年から97年にはハイチで文化大臣を務め、2010年からパリの国立映画学校の学長になった。こういう経歴を見れば、英語、ドイツ語、フランス語が映画で自在に使われていたのも理解できる。今までに日本で一本だけ公開作品があり、それは2001年の「ルムンバの叫び」である。そういえば見たことがある。1960年のコンゴ独立で初代首相になったルムンバは、宗主国だったベルギーやアメリカが介入したコンゴ動乱で殺害された。このような経歴の監督だから、アメリカの黒人問題に関心が深いのも当然だろう。そして「闘う人々」をテーマにしているということも。
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「私はあなたのニグロではない」(2016)はアメリカ60年代を中心にした黒人問題のドキュメンタリー映画で、2017年のアカデミー賞長編記録映画賞にノミネートされた。題名は有名な黒人作家ジェームズ・ボールドウィンの言葉からで、黒人俳優のサミュエル・L・ジャクソンがナレーターをしている。まさか本人の語ったテープがあるわけじゃないだろうと思ったけど、まるでボールドウィン本人が語り続けているかに感じられる。映画はメドガ-・エヴァンス(1963年に暗殺された黒人運動家)、マルコムX、マーティン・ルーサー・キングという60年代に暗殺された黒人運動家への回想を中心に進行する。全編を深い内省のトーンが覆っている。
ボールドウィンはハーレムに生まれ、同性愛者というもう一つのマイノリティでもあった。その人生はかつて「ハーレム135丁目 ジェイムズ・ボールドウィン抄」というドキュメント映画になった。その映画はとても面白かったので、僕は2回見に行った。声をあげると命に関わる場所で黒人は生きてきたんだということがよく判る。だから彼は文章を書くためにパリに行かなければならなかった。しかし、パリで見た新聞で南部の高校に黒人として初めて入学した少女の写真を見て、アメリカに帰るときだと決意した。そしてアメリカで見て考えた言葉を再構成して作られた力強い映画である。
2018年はマルクス生誕200年だけど、キング牧師暗殺50年の年でもある。現代に生きている意味で考えるならば、「私はあなたのニグロではない」の方が重要なんじゃないだろうか。僕は見るならば是非両方見るべきだと思う。ところで、東京新聞のコラムに「レディ・プレイヤー1」が「おっさんホイホイ」の映画だと出ていた。そんな言葉があるんだ。「おっさん」を吸い寄せる懐古臭があるという意味である。「マルクス・エンゲルス」も相当強烈な「おっさん(じいさん?)ホイホイ」じゃないかと思う。最近は閑散としていた岩波ホールが、平日だというのに「ジーサンズ」で混んでいる。でも「バーサンズ」が連れだって来るのに対し、「ジーサンズ」は友だちがいないから、昔の「八月の鯨」の時のような長蛇の列ができるほどにはならない。まあ、ちょっとビックリした。
ところで、「マルクス・エンゲルス」と「・」(ナカグロ)でつなげるのはどうなんだろうか。ドナルド・トランプのように、今の日本ではファーストネームとラストネームの区別のためにナカグロを使うのが普通だ。昔、マルクス・エンゲルスとかマルクス・レーニンという人物がいると思い込んでいる人がいるという笑い話があった。ローマ皇帝マルクス・アウレリウスとかサッカー選手の田中マルクス闘莉王という人もいるんだから、一人の人物と思いこむ若い人が出ないだろうか。もっとも、もうマルクスという人物自体を若い人は知らないのかもしれないが。(両作の共通点は、ボブ・ディラン。)