2017年のカンヌ映画祭パルムドール受賞、スウェーデンのリューベン・オストルンド監督の「ザ・スクエア 思いやりの聖域」が上映されている。余りにも観客の居心地を悪くさせる映画だと思うけど、問題作には違いない。近年のパルムドール作品は「愛、アムール」「アデル、ブルーは熱い色」「雪の轍」「ディーパンの闘い」「私は、ダニエル・ブレイク」と傑作、力作が続いていた。しかし「ザ・スクエア」は風刺のきいたエピソードで構成された映画で、先に挙げた映画を見た後のような圧倒的な触感とはかなり違っている。

主人公は現代美術館のチーフ・キュレーターのクリスティアン。キュレーターというのは美術館や博物館で専門知識をもって企画、運営をする人で、日本では「学芸員」だけどもっと大きな責任を持っている。今度「ザ・スクエア」という地面を四角く区切っただけの「作品」を展示することになっている。その四角形の中は「思いやりの聖域」で、すべての人が同じ権利を持つ平等の領域だということになっている。それが美術なのかと思うけど、まあ今では何でもアートになるということだ。
しかし、冒頭で通勤途上のクリスティアンは「助けて」と叫ぶ女性を見殺しにできず、近くにいた男性とともに手助けする。しかし追っていた男は単に走ってただけと言って去ってしまう。何だったんだろうと思いつつ、とりあえず良かったと二人で喜ぶが…。気づいてみれば、いつの間にか財布とスマホを盗まれてるじゃないか。こんなように、善意で行動しようとした人間だけが損してしまって、助けを呼ぶ声を黙殺した人の方が賢いことになってしまう。これは監督の実体験だそうだが、ある種「現代の象徴」みたいな話だと思ってこの映画を作った。
その後、スマホの位置情報である高層住宅にあるらしいと部下とともに、全戸に「脅迫状」をまきに行く。またインタビュ-で会った女性と偶然再会し、ついセックスまでするようになるが、その後…。一方、スクエア展示を成功させようと意気込むスタッフは広告代理店と組んで、「炎上」ねらいの動画をYouTubeに投稿して、予想を超えた大炎上になってしまう。有力者を集めたパーティでは、会場をジャングルに見立てて「猿男」が現れる。一体、これは何なんだ的なエピソードが連続するが、どれも映画の内外で「居心地の悪さ」をあえて突き付けてくる。
(カンヌのオストルンド監督)
リューベン・オストルンド(1974~)は、数年前に公開された「フレンチアルプスで起きたこと」を作った人である。その映画も大雪崩でつい自分だけ逃げようとして妻と気まずくなるという話だった。というか、見てないんだけど、予告編を何度も見て、銅も見る前から居心地悪そうだと敬遠した。他にも数作あるようだけど、日本で正式に公開されたのはそれだけ。こうなると、どうもこの人の特徴として、あえて観客が見たくないような設定をするらしい。オーストリアのウルリヒ・ザイドルなんかも似たような感じだ。
善が善として存在できず、偽善も偽悪も昔のようにストレートには存在できない。善と悪がはっきりしていた時代は大昔のことで、文化によって違ったり、階層や性差によって事態の解釈が違ってくる。そんな現代を丸ごと描こうという試みなんだろうが、どうもエピソードがうまくつながってない感じがする。どうも意図が空回りしている感じもあるが、ヨーロッパ映画賞で作品賞、監督賞を受けたほか、アメリカでもボストンやシカゴの映画批評家協会賞を受けている。海外の批評家には大受けする要素があるわけで、それは何だろうと確認する野も面白いと思う。

主人公は現代美術館のチーフ・キュレーターのクリスティアン。キュレーターというのは美術館や博物館で専門知識をもって企画、運営をする人で、日本では「学芸員」だけどもっと大きな責任を持っている。今度「ザ・スクエア」という地面を四角く区切っただけの「作品」を展示することになっている。その四角形の中は「思いやりの聖域」で、すべての人が同じ権利を持つ平等の領域だということになっている。それが美術なのかと思うけど、まあ今では何でもアートになるということだ。
しかし、冒頭で通勤途上のクリスティアンは「助けて」と叫ぶ女性を見殺しにできず、近くにいた男性とともに手助けする。しかし追っていた男は単に走ってただけと言って去ってしまう。何だったんだろうと思いつつ、とりあえず良かったと二人で喜ぶが…。気づいてみれば、いつの間にか財布とスマホを盗まれてるじゃないか。こんなように、善意で行動しようとした人間だけが損してしまって、助けを呼ぶ声を黙殺した人の方が賢いことになってしまう。これは監督の実体験だそうだが、ある種「現代の象徴」みたいな話だと思ってこの映画を作った。
その後、スマホの位置情報である高層住宅にあるらしいと部下とともに、全戸に「脅迫状」をまきに行く。またインタビュ-で会った女性と偶然再会し、ついセックスまでするようになるが、その後…。一方、スクエア展示を成功させようと意気込むスタッフは広告代理店と組んで、「炎上」ねらいの動画をYouTubeに投稿して、予想を超えた大炎上になってしまう。有力者を集めたパーティでは、会場をジャングルに見立てて「猿男」が現れる。一体、これは何なんだ的なエピソードが連続するが、どれも映画の内外で「居心地の悪さ」をあえて突き付けてくる。

リューベン・オストルンド(1974~)は、数年前に公開された「フレンチアルプスで起きたこと」を作った人である。その映画も大雪崩でつい自分だけ逃げようとして妻と気まずくなるという話だった。というか、見てないんだけど、予告編を何度も見て、銅も見る前から居心地悪そうだと敬遠した。他にも数作あるようだけど、日本で正式に公開されたのはそれだけ。こうなると、どうもこの人の特徴として、あえて観客が見たくないような設定をするらしい。オーストリアのウルリヒ・ザイドルなんかも似たような感じだ。
善が善として存在できず、偽善も偽悪も昔のようにストレートには存在できない。善と悪がはっきりしていた時代は大昔のことで、文化によって違ったり、階層や性差によって事態の解釈が違ってくる。そんな現代を丸ごと描こうという試みなんだろうが、どうもエピソードがうまくつながってない感じがする。どうも意図が空回りしている感じもあるが、ヨーロッパ映画賞で作品賞、監督賞を受けたほか、アメリカでもボストンやシカゴの映画批評家協会賞を受けている。海外の批評家には大受けする要素があるわけで、それは何だろうと確認する野も面白いと思う。