尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

京大タテカン問題と「大学の自治」

2018年05月23日 22時45分21秒 | 社会(世の中の出来事)
 京都市の京都大学で、「立て看板」(タテカン)をめぐる規制問題が起こっている。この問題に関して、いろんな人がいろんなことを言ってるようだけど、そこに「大学の自治」という言葉が聞かれない。それはおかしいと思って、簡単に書いておきたい。

 「タテカン」って言っても何だという人もいるかもしれない。京大吉田キャンパスの壁に多くの看板が立てかけられていたという。画像がいろいろと出てくるので、引用しておく。(以下の写真。)東京の大学にももちろんいっぱいあって、ある時期までは新左翼党派の政治的主張が街頭に向かって貼りだされていたものだ。(「米帝と結託する日帝〇〇を殲滅せよ」というようなもの。〇〇は日本の首相名。米帝はアメリカ帝国主義、日帝は日本帝国主義の略である。念のため。)
 
 この問題の発端は、2017年10月に京都市が立て看板が条例に違反すると京大を指導したことにある。京都は世界有数の観光都市で、世界遺産の寺社が多数ある古都だから、景観保護には前から熱心だった。「京都市景観計画」を作成し、地域ごとに景観保護の施策を決めてある。古都に無粋な広告は似合わないから、それはもちろんあっていい。だけど、その条例は大学にも適用されるべきものなのか。いや、こういう風に正面から問いを立ててしまうと、そりゃあ大学といえども京都市の一角に存在する以上、同じルールだと言われるかもしれない。

 今回のケースも条例をそのまま適用したのではない。京都大学が2017年12月に立て看板規制のルールを作り、そのルールを5月1日から適用したということである。その際、最初は通告書を貼り、その後13日に京大がタテカンを撤去した。14日にはその撤去したタテカンが保管場所から運び出されて再設置され、18日に再撤去され…という経過をたどっている。だからタテマエ上は、京大の管理当局が作ったルールを学内に適用するという問題である。

 だけど経緯を見れば判るように、これは「表現の自由」「大学の自治」に関わる問題だ。大学は社会の中で学問・研究の中心で、もちろん憲法で学問の自由が認められている。「大学の自治」は歴史的にヨーロッパの大学で国家権力からの自由が認められてきた。日本では憲法で明文では認められていないが、尊重はされてきた。最近は私立大学も多額の補助金を得ているし、研究費などの扱いも変わり、大学側も文科省などに逆らえない雰囲気が強くなってると思う。もう「大学の自治」なんて言葉も皆が忘れているんじゃないだろうか。

 学問の自由には表現の自由が不可欠である。表現の自由の中でも「集会・結社の自由」がないと実質的な意味がない。研究室の中でどんな論文を書こうがそれが自由なのは当然だ。問題は学生が自ら企画した集会、映画会、演劇公演、コンサートなどである。そういうのが自由に行われるだけでなく、それを多くの学生に周知する手段がないといけない。SNSが今は発達したと言っても、関心がない情報は最初から入ってこない。学内でフラっと歩いていて情報を得る媒体という意味で、タテカンの力は大きい。

 今は政治的なタテカンより、宣伝的な内容が多いんじゃないかと思う。それでもタテカンには存在価値があるだろう。しかし、僕が言いたいのはタテカンに価値があるということではない。タテカンに価値があろうがなかろうが、景観上問題があろうがなかろうが、「大学は別」だと言えばいいということだ。京都市から「指導」があった時に、「大学の自治」をタテに拒否するべきだった。そんなことを言うと、大学は「治外法権」なのか。もちろんそうじゃないし、国法に定められた捜査令状などは拒めない。だけど、問題はタテカンである。大学は放っておけよっていうような社会じゃないと、世界を変えるような学問芸術は生まれてこないんじゃないか。
コメント
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