尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

オウム死刑囚、執行してはならない4つの理由②

2018年05月29日 22時51分02秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 前回が途中で終わってしまったので続き。麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚は、刑事訴訟法が執行を禁じる「心神喪失」の状態にあるのか。麻原彰晃は一審途中から不可解な言動が多くなり、やがて弁護士や家族ともコミュニケーションが取れなくなった。一審の死刑判決後、控訴審では弁護団の問いかけに答えず、控訴趣意書が提出できなかった。弁護側は公判停止を求め、精神鑑定が行われた。裁判所が依頼した鑑定では訴訟能力が認められ、控訴棄却となった。それを最高裁も認め、2006年9月には死刑判決が確定した。その状態をどうとらえるか。

 一審で弟子たちの離反が相次ぎ、厳しい判決が予想された。その頃から不可解になったので、麻原は「詐病」だという考えがある。「詐病」(さびょう)とは「病気のふりをする」ことで、精神状態は正常だという判断になる。「都合が悪い現実から自己逃避して精神が崩壊する」というのは、まさに病気なのだから「詐病」とは言わない。当初は「詐病」的な部分がなかったとは言えないかもしれないが、ここまで長く「詐病」を続けることが人間には可能なのだろうか

 「詐病」そのものが可能なのかどうか僕には判らないが、今では「詐病」説はむしろ麻原彰晃の「偉大さ」を主張するものじゃないだろうか。食事はしているんだから病気じゃないなどと言う意見も見たことがあるが、重い精神疾患の患者は餓死してしまうのか。「摂食障害」じゃないんだから、そりゃあ食事は取るだろう。「詐病」説の人の多くは、「統合失調症」などの精神疾患は「こんな症状」があるはずだと自分なりのイメージを持ち、そうじゃないから詐病だいうことが多いように思う。病態には様々のヴァリエーションがあって当然で、あまり簡単に判断できないものだと思う。

 長い拘束があると「拘禁反応」が起きるのは間違いない。およそどんな人にも起こり得るだろうが、近年まざまざと見ることになったのが袴田事件の袴田巌さんである。無実を訴え続けていた袴田さんが、いつしか姉の面会にも応じなくなり、不可解な言動をするようになった。再審請求が認められ、確定前だけれど釈放が認められた。釈放後の様子は映像で伝えられているが、釈放されたあとになっても不可解な言動はすぐには無くならない。紛れもなく無実である(と考える)袴田さんでさえそうなんだから、麻原彰晃に異常な「拘禁反応」が起こっても不思議はないだろう。

 いや、もちろん精神医学の専門家でもなく、本人に面会したわけでもない僕には正確な判断はできない。もっと重い精神疾患(統合失調症など)であるかもしれず、また「詐病」なのかもしれないが、それにしても何らかの拘禁反応は生じていると推測するのが常識的な判断ではないだろうか。問題はそれが「心神喪失」とまで言えるかどうかである。その場合、刑事裁判なら罪の軽減をしなくてはならない「心神耗弱」状態に止まっているとしたならば、どう判断すべきか。

 刑事訴訟法にきちんと規定されている以上、「心神喪失」者の死刑を執行したら、それは「殺人」だろう。問われている罪の大きさから、麻原彰晃は単なる死刑囚の一人とは言えない。執行には一点の曇りがあってもいけない。それは死刑制度の存廃などの議論とは関係ない。むしろ死刑賛成者こそが論じるべき問題だろう。少なくとも法務省が誰の意見も聞かず、急いで執行してしまうようなことはあってはならない。麻原彰晃の精神状態をどう考えるか、多くの人が関わる議論が必要だ。多くの報道機関がこの問題をスルーしているのはおかしいのではないか。

 「第一」の論点で長くなってしまった。第二の論点はオウム真理教事件の特異な性格である。オウム真理教にはあまりにも多数の犯罪行為があり、多数の人が複数の事件に関わった。そのため「統一的なオウム真理教法廷」などはなく、個々バラバラに裁かれたが事実認定と量刑は同じ構造を持っている。教祖である麻原彰晃が自ら実行した事件はないわけだが、主要な事件、坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件などは麻原彰晃が主犯とされた。すべては教祖の命令によるものという認定になっている。だから、「主犯」が「心神喪失」で死刑執行ができないとしたら、命じられて従った実行犯だけを死刑にしていいのかという問題が起きる。

 地下鉄サリン事件を例にとると、サリン製造と散布は死刑、運転手は無期懲役である。一般的に言って、実行犯は重く、運転手だけなら軽い。銀行強盗なんかの映画では、そこから分け前をめぐって争いが起きるのが通例である。でも、この事件では運転手になるか、車内で散布するかの違いは本質的なものではない。運転手でも坂本弁護士、松本サリンの実行犯である新実智光は死刑だが、彼の車に乗っていた林郁夫は霞ヶ関駅で2人の死者が出たにもかかわらず自首が認められ無期懲役になっている。

 それは理解できるのだが、丸の内線荻窪発池袋行列車の実行犯横山真人の場合、唯一死者が出なかった。もしこの事件だけだったら、殺人未遂や傷害では死刑判決にはならない。死者が出るか出ないかは偶然であって、刑事責任に変わりがないとも考えられるが、それを言えば、散布役か運転手かも本人が決めたことではない。地下鉄サリン事件では、実行犯の広瀬健一横山真人豊田亨林泰男の4人が死刑判決だが、それぞれの車内での死者数には違いがある。しかし、総体として地下鉄サリン事件という一体の犯罪として裁いた。刑法上問題はないけれど、なんだか裁判官が事前に打ち合わせしたかとさえ思えるほど同じ判断をしている。

 この特異な事件と裁判結果を見ると、決まった以上は死刑を執行しなくてはいけないと考えるのもどうなんだろう。世界的に注目された事件だけに、世界でテロ実行犯に関する死刑論議が起きるだろう。だからと言って、この事件だけ新しい仕組みを作るのも確かにおかしい。じゃあどうするべきか。とりあえず「主犯」である麻原彰晃の精神状態に関する判断をどうするかを法務省が考えるべきだ。そして「恩赦」制度がある以上、可能性を考えるべきではないかと思う。無罪であるとは到底考えられないので、もし「終身禁錮」という刑があれば、比較的にはふさわしいかと思う。
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