オウム真理教事件の死刑囚の執行が近いという観測がなされている。2018年1月18日付で、最後まで続いた高橋克也被告の無期懲役判決が最高裁で確定した。これで1995年に摘発されたオウム真理教事件の裁判が、逃亡していた人も含めてすべて終わった。3月14日には、12人いる死刑囚のうち7人が東京拘置所から他の拘置所に移送された。(死刑囚は「懲役刑」ではないので、死刑確定後も刑務所ではなく拘置所で拘束され執行される。)死刑執行とは直接関係ないと法務省は言ってるようだけど、やはり執行の準備なんじゃないかと言われている。
この問題は一度ちゃんと書いておきたいと思っていた。国会会期末も近づいてきたから、そろそろ書かないと。(年によって違うが、近年は国会終了後の6,7月頃に死刑執行が多い。)僕はそもそもが死刑廃止論者なので、原則的には世界各国のすべての死刑に反対なんだけど、ここで書くのは死刑廃止論の理由ではない。オウム真理教事件の特別な事情を考えたいのである。
4つの理由と書いたけど、それらは別々のものではなく関係している。第一の理由は主犯とされる麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚の現状が不明で、「心神喪失」の可能性があることである。第二の理由は、オウム真理教裁判の独特な事情である。第一と第二は書きだすと長くなるから後に回す。第三は「再審や恩赦の検討が不十分である」ということだ。
死刑に関しては様々な考えがあっても、現に死刑という制度が厳然とあるのは間違いない。だから法に決まっている執行をしないわけにはいかないというような発想の人が時々いるけど、そんなことを言うなら死刑囚にも再審や恩赦という制度が厳然とある。そっちも尊重しないといけない。再審請求をしている死刑囚もいるんだから、その決着がつかないままでは執行できないはずじゃないのか。仮に本人に再審や恩赦の意向がなくても、今や再犯可能性がゼロというべき死刑囚に対して恩赦は十分考えていいのではないか。
第四はオウム真理教事件が「大量破壊兵器」を使った「宗教テロ」だったことだ。21世紀を迎えると、毎日のように宗教テロや大量破壊兵器(核兵器や化学兵器)に関するニュースを見聞きしている。世界が最初に衝撃を受けたのが、1995年の地下鉄サリン事件だった。そういう事件は完全な解決が難しい。指導者(教祖)を死刑にすれば、かえって伝説的なカリスマとして語り伝えられないか。また、オウム死刑囚はある意味で世界的に非常に重要な存在かもしれない。なぜ易々と「マインド・コントロール」されたのか。なぜ「サリンの製造」というすごい技術が可能だったのか。人類史的には「生かしてその体験を全人類で検証する」ということがあっていいのではないか。
さて第一に戻って、麻原彰晃はどうなっているのか。言うまでもなく、刑事訴訟法では「死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によつて執行を停止する」(479条)と規定している。刑法39条でも、犯行時に心神喪失者は罰しない、心神耗弱者は罪を軽減するとある。この規定に関して一番大きな問題は精神医学的に「心神喪失」「心神耗弱」の定義が難しいことだと思う。確かに昔は精神疾患は「難治」だった。ほとんど「不治の病」と思われていた。でも今では適切な薬物療法でかなり抑えられる。一方、人格障害など薬では治せないケースばかり重い刑事責任が科せられている。
そういう大きな問題はこれ以上書く余裕がないけれど、近代の刑事裁判は「理性が身体性に優先する」という大原則がある。どんなに貧しくて腹が減っていても、コンビニで万引きしてはいけない。社会福祉制度を利用するなど、自分で対策を講じなくてはいけない。それを逆に考えると、自分を抑えられる理性が働かない人間には罪を問えない。同じことが死刑の執行にも規定されているわけで、本人が自分の行為が判らないようになってしまっては、「刑罰」を科す意味がないと考えるわけである。とにかくそういう規定が法にある以上、それはきちんと遵守されないといけない。では麻原彰晃は今どのような状態にあるのか。大分長くなってしまったので、ここでいったん切って2回に分けたいと思う。
この問題は一度ちゃんと書いておきたいと思っていた。国会会期末も近づいてきたから、そろそろ書かないと。(年によって違うが、近年は国会終了後の6,7月頃に死刑執行が多い。)僕はそもそもが死刑廃止論者なので、原則的には世界各国のすべての死刑に反対なんだけど、ここで書くのは死刑廃止論の理由ではない。オウム真理教事件の特別な事情を考えたいのである。
4つの理由と書いたけど、それらは別々のものではなく関係している。第一の理由は主犯とされる麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚の現状が不明で、「心神喪失」の可能性があることである。第二の理由は、オウム真理教裁判の独特な事情である。第一と第二は書きだすと長くなるから後に回す。第三は「再審や恩赦の検討が不十分である」ということだ。
死刑に関しては様々な考えがあっても、現に死刑という制度が厳然とあるのは間違いない。だから法に決まっている執行をしないわけにはいかないというような発想の人が時々いるけど、そんなことを言うなら死刑囚にも再審や恩赦という制度が厳然とある。そっちも尊重しないといけない。再審請求をしている死刑囚もいるんだから、その決着がつかないままでは執行できないはずじゃないのか。仮に本人に再審や恩赦の意向がなくても、今や再犯可能性がゼロというべき死刑囚に対して恩赦は十分考えていいのではないか。
第四はオウム真理教事件が「大量破壊兵器」を使った「宗教テロ」だったことだ。21世紀を迎えると、毎日のように宗教テロや大量破壊兵器(核兵器や化学兵器)に関するニュースを見聞きしている。世界が最初に衝撃を受けたのが、1995年の地下鉄サリン事件だった。そういう事件は完全な解決が難しい。指導者(教祖)を死刑にすれば、かえって伝説的なカリスマとして語り伝えられないか。また、オウム死刑囚はある意味で世界的に非常に重要な存在かもしれない。なぜ易々と「マインド・コントロール」されたのか。なぜ「サリンの製造」というすごい技術が可能だったのか。人類史的には「生かしてその体験を全人類で検証する」ということがあっていいのではないか。
さて第一に戻って、麻原彰晃はどうなっているのか。言うまでもなく、刑事訴訟法では「死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によつて執行を停止する」(479条)と規定している。刑法39条でも、犯行時に心神喪失者は罰しない、心神耗弱者は罪を軽減するとある。この規定に関して一番大きな問題は精神医学的に「心神喪失」「心神耗弱」の定義が難しいことだと思う。確かに昔は精神疾患は「難治」だった。ほとんど「不治の病」と思われていた。でも今では適切な薬物療法でかなり抑えられる。一方、人格障害など薬では治せないケースばかり重い刑事責任が科せられている。
そういう大きな問題はこれ以上書く余裕がないけれど、近代の刑事裁判は「理性が身体性に優先する」という大原則がある。どんなに貧しくて腹が減っていても、コンビニで万引きしてはいけない。社会福祉制度を利用するなど、自分で対策を講じなくてはいけない。それを逆に考えると、自分を抑えられる理性が働かない人間には罪を問えない。同じことが死刑の執行にも規定されているわけで、本人が自分の行為が判らないようになってしまっては、「刑罰」を科す意味がないと考えるわけである。とにかくそういう規定が法にある以上、それはきちんと遵守されないといけない。では麻原彰晃は今どのような状態にあるのか。大分長くなってしまったので、ここでいったん切って2回に分けたいと思う。