大江健三郎初期の長編小説「遅れてきた青年」(1962)は、1971年に出た新潮文庫本(第2刷、1970年刊行)を持っていた。つまりピッタリ半世紀読まずに持っていたことになるが、この機会に読んでみた。6月に「万延元年のフットボール」「洪水はわが魂に及び」という大長編を読んだので、今月はもう少し判りやすいものを読みたかった。「遅れてきた青年」は大江作品初の「大長編」というべき作品だが、判りにくい点は少ない。時間が経ってしまって、政治的、風俗的に理解しづらいところもあるけれど、内容的にはまあまあ読みやすかった。もっとも半世紀前の文庫本は字が小さくて目がショボショボするという難点はあったけれど。
(カバー=山下菊二)
大江健三郎は東大在学中に芥川賞を受賞したから、学生からすぐに職業作家になったわけである。だから初期作品は東大(と思われる)の学生生活や、自分の出身地(四国の山奥の村)を舞台にした短編ばかりである。1958年の「芽むしり仔撃ち」も戦時中の故郷の村で起こった出来事である。それでは作品世界が狭まるから、現代の青春を三人称で描く「われらの時代」(1959)を書いた。これはアルジェリア独立運動家や天皇「暗殺」を目論む青年たちが出て来る興味深い小説だけど、小説としては成功作と言えない。
次の長編「夜よゆるやかに歩め」(1959)は「婦人公論」に連載された作品だが、単行本が出た後は文庫化もされず、今まで何度か出た大江健三郎作品集に一回も掲載されていない。図書館にも余りないと思うが、古本では売っている。5千円から1万円はするから、本職の研究者しか読まないだろう。その次の「青年の汚名」(1960)はニシンの到来を待ち望む北海道(礼文島がモデルという)の青年を描いている。これは昔文春文庫に入っていて読んだことがある。この2作品は最近の「大江健三郎全小説」に収録されていない。若い時期の未熟な「失敗作」ということなんだろう。
次の長編が「遅れてきた青年」(1962)で、それまでにない2部構成の大長編になっている。「われらの時代」と「遅れてきた青年」も、収録されなかった作品集があったという。しかし、これらの4長編は大江健三郎の「もう一つの可能性」を示していると思う。戦後の作家たちの多くは、「純文学」と「大衆文学」を書き分けていた。三島由紀夫や遠藤周作などが代表だが、大江文学は「純文学」に特化して「難解」という評価が定着していく。しかし、それは大江光が生まれ「個人的な体験」を書いた後の話である。その後はほとんどの作品で「障がい児と生きる」というマジメなテーマが追求される。
(1960年の結婚式)
しかし、もし最初の子どもが障がいを持って生まれなかったら、どうだっただろうか。「四国の森」を舞台にした神話的作品群は書かれただろうが、それとは別にもっと通俗的で判りやすく面白い、そして映画やテレビの原作に採用されるような作品も書いていたのかもしれない。そう思ったのは「遅れてきた青年」にピカレスク・ロマン(悪漢小説)としての面白さを感じたからだ。今までこの小説はそんなに読まれなかったし、読まれたときは「政治的」に解釈されることが多かったのではないか。
題名の「遅れてきた青年」とはまず第一に「戦争に遅れてきた」こと、もっと言えば「天皇のために死ぬはずなのに遅れてしまった」ことを意味するだろう。子どもながら「わたし」という一人称である語り手は、教師たちとうまく行ってない。戦争に敗れ占領軍がやって来ると、中国戦線を経験した男たちが「女は強姦され子どもは虐殺される」と言って山に隠れさせる。村より奥にある「原四国人」の集落は村人たちによって破壊される。「わたし」はそんな大人たちに従うことなく、地域の中心都市に集まれという戦争継続の呼びかけに応えて、朝鮮人の友人「康」とともに杉丘市へ向かう。この杉丘は「松山」ということだろう。
そこまでが第一部で、結局大人たちに捕まって家からも見放されて教護院に送られた「わたし」は、その後受験勉強を始めて東大に合格した。久方ぶりに教護院を訪れた「わたし」は、書類の隠ぺいを求める。今は東京で有力保守政治家の娘の家庭教師をしている。東京に戻ると、その沢田育子が待っていて妊娠したという。父親は彼ではないが、中絶の金がない。親からせびり取って欲しいと言う。それに失敗して、仕方なくモグリの手術をしてくれる医者を学生運動をしている知人に紹介して貰う。その代わりにエジプトへ向かうという彼の代理で、左翼運動への参加を求められる。
参加してみたら案外本気になっていくが、下宿に保守政治家からの大金が届いたことを知られ、スパイの疑惑を掛けられる。監禁され自白を求められるが、拒否すると拷問にあう。最後には「浮浪者」による「性的拷問」さえ行われる。逃れた後で復讐のため育子の父に従って国会で証言する。この後も波瀾万丈というべき「転落」を繰り返した挙げ句、「わたし」は神戸で康と再会する。朝鮮戦争で金日成将軍のために戦いたかった彼は、仕方なくアメリカ軍について韓国へ渡り戦争の実態を見ていた。
保守政治家の走狗となっていく「わたし」と、育子、育子の子どもの父である「偽ジェリー・ルイス」と呼ばれる年下の少年。その新しい風俗とともに、左翼運動(これは安保闘争時の全学連主流派、つまり反日共系だと思われる)の暗部、朝鮮と日本、犯罪と性、問題となるようなテーマがごった煮のように投げ込まれている。確かに必ずしも上出来とは言えないが、学生運動やテレビなど当時の社会状況が興味深い。主人公の生き方に疑問が多いが、もちろん肯定的に描かれているわけではない。現代青年の「内面の空虚」を描くのが眼目だろう。でも「風俗小説」的な面白さがあって再評価されるべきだ。「朝鮮」「自殺」「同性愛」などが初期大江作品によく出てくる意味も考えるべきテーマだろう。