尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ジョン・ネイスン「ニッポン放浪記」、抜群に面白い回想録

2021年07月07日 23時01分51秒 | 〃 (さまざまな本)
 ジョン・ネイスン(John Nathan、1940~)の「ニッポン放浪記」(Living carelessly in Tokyo and Elsewhere: A memoir、2008)を読んだ。こんな面白い同時代メモワールも少ないだろう。特に戦後日本の文壇裏面史として興味深い。前沢浩子訳で岩波書店から2017年に刊行されたが、2800円もするから、地元図書館にあるのを借りてきた。返す前に感想を書いておきたい。

 ジョン・ネイスンは先月見た勅使河原宏監督「サマー・ソルジャー」の脚本を書いた人である。そのことは「サマー・ソルジャー」、脱走米兵のリアルー勅使河原宏監督の映画②で書いた。この映画は前に見ているし、三島由紀夫の評伝が未亡人の怒りを買ったという話も覚えている。だから前に名前を聞いてたはずだが、どんな人だか意識したことはなかった。読んでみたら、60年代の日本文学に関する実に面白い話が満載だったけれど、それだけではなかった。ライシャワードナルド・キーンを継ぐ屈指の日本研究者になることもできたのに、様々なことにチャレンジし人生が迷走する。ある意味では「失意と断念の人生」を送った人だった。
(ジョン・ネイスン)
 例えばプリンストン大学の終身教授だったのに、映画界に進出したくて退職してしまう。日本人の妻とアメリカに暮らしていたが、幼い子どもが生まれたばかりなのに、大みそかにドラッグパーティに出かけてしまう。この本では、あの日が自分の人生の分岐点だったと後悔している。しかし、それはほとんどの人の人生に起こることだろう。顧みて一筋の道をたゆまずに歩んできた、なんて人の方が珍しい。それにそういう人生には飽き足らないのがネイスンという人である。だからこそ、ニューヨーク育ちのユダヤ人が日本語を学んだのである。漢字を見て興味を持ったのだという。そしてハーバード大学でライシャワーの講義を受けた。

 1961年に初めて来日した。津田塾大学で講師をする話が面白い。延々と電車とバスに乗って(郊外の小平市にある)、若い女子大生の真っただ中へ。当時独身の外国人講師は初めてだったそうで、大学当局は心配だった。ネイスンは英語劇でシェークスピアを指導する。彼によれば、皆熱心でヴァッサー女子大(現在は共学)と遜色ないレベルになった。もちろん彼に熱を上げる学生も出てくる。悩みも多かったが、60年代はまだ「性の解放」以前である。翌年になって、ある学生から「美人でボヘミアン」の高校時代の友人に会ってみないかと誘われた。それが東京芸大で美術を学んでいた小田まゆみだった。結婚を考えるようになるが、母親が大反対。そこで日本大使だったライシャワー夫妻に一緒に会って貰う。そして何とか結婚できたのだった。

 最初にこの結婚の行く末を書いてしまうと、ネイスンはその後東大初の外国人学士入学生になった。妻とともに青春を楽しむが、やがて徴兵を逃れるためにもアメリカの大学へ戻らなくてはならなくなる。アメリカで二人の男の子が生まれるが、60年代の疾風怒濤の中で二人に間にもすきま風が吹くようになり、やがて結婚は破綻した。小田まゆみはニューヨークで美術家として認められ、やがてハワイに移って広大な「ジンジャーヒルファーム」というアートやヒーリングの場を作り、環境運動家、平和運動家としても活躍している。「女神」をモチーフに創作を続け、「日本のマチス」とも呼ばれているという。ホームページがあって作品が見られる。
 (小田まゆみと「女神」の一作品) 
 ネイスンに戻ると、若くして三島由紀夫の「午後の曳航」の翻訳者に選ばれ、三島に気に入られた。第3章は「三島由紀夫」で交流の模様が描かれる。三島は次に「絹と明察」を翻訳して欲しい、ノーベル賞を取る手助けをして欲しいと言われる。しかし、実はその時には他に翻訳したい本があった。大江健三郎の「個人的な体験」で、第4章が「大江健三郎」。大江は当時安部公房と親しく、ネイスンも二人と会うようになり大きな影響を受けた。「個人的な体験」は大江健三郎の初の翻訳で、名訳と言われている。ノーベル賞対象作でもあり、ノーベル委員会は英語で読むわけだからネイスンの貢献は大きかった。(しかし、その後ネイスンは大江と離れてしまい、ストックホルムのノーベル賞授賞式で10年ぶりで会うことになる。)
(英訳「個人的な体験」)
 こうして書いていくと長くなるので先を急ぐ。三島に言われてネイスンが「新派」の舞台に立ったことがある。「唐人お吉」で水谷八重子(初代)を相手にハリスを演じた。ネイスンには学者や翻訳家に止まらず、自ら表現者になりたい意欲が強かった。どこも出版してくれない小説を何作か書いて自費出版したりしている。そういう中で「個人的な体験」を映画化する話が持ち上がり、ネイスンがシナリオを書いた。監督に安部公房とのつながりで知っていた勅使河原宏が選ばれる。「砂の女」の評価が高かったのである。しかし、資金が集まらず企画が迷走、残念ながら中止になった。

 そして代わりにベトナム戦争からの脱走米兵を描く映画製作の話が持ち上がった。それが「サマー・ソルジャー」だったのである。シナリオも映画製作も苦労するが、何とか製作されたものの日米ともにあまり大きな評価を得られなかった。シナリオに協力した鶴見良行を「最左翼の歴史家」などと書いてある。(鶴見良行が「最左翼」なら、大江健三郎は何というべきか。)勅使河原は安部公房原作の映画のように「アイデンティティを失った現代人」を描きたかったが、ネイスンはもっとドキュメンタリー的に作りたかったらしい。この作品のネイスンは事実上の「共同監督」だったという。この映画で日本の映画人と親しくなって、それが後の仕事につながった。
(「サマー・ソルジャー」関係者と岩国錦帯橋で)
 「サマー・ソルジャー」撮影終了後にソウル・ベロー(1976年ノーベル文学賞受賞)が来日し、ネイスンは米大使館からガイドを頼まれた。ベローの日本滞在時の行動は感心しないが、それでも何とか過ごしていた。そしてベローはネイスンを「最良のスコーの夫」だと評した。「スコー」が判らなかったので尋ねたところ、「裕福だが自信を持てない東部の御曹司が、自分が特別な人間だと思うためにインディアンの女性と結婚して保留地で暮らす」、そんな男のことだという。ベローがそんな差別的人間だとは思わなかった。ベローも余計なことを言ったものだ。これがネイスンの心に刺さった。つまり「異国情緒」ではない仕事をして認められたいと思って、ネイスンは日本を離れるのである。日本文学だってもちろん「世界」につながっていたというのに。
(「他人の顔」撮影中に安部公房と)
 以後映画会社を作って、一時は「金まみれ」のバブルを経験する。映画と言っても結局ハリウッドで脚本家になれず(それでもカリフォルニアに住んでコッポラやルーカスにも会ってる)、ビジネス用のビデオやテレビ向けのドキュメンタリーを作ったのである。ケンタッキーフライドチキンの日本進出を追った映画はエミー賞を得た。また朝倉彫塑館前にあって朝倉文夫に弁当を毎日届けていた仕出し屋を描く「フルムーン・ランチ」(満月弁当の英語題)も賞を取った。勝新太郎のドキュメントも作って、「シナトラ一家」みたいな勝の取り巻きが興味深い。そしてソニーの歴史を撮ることになった。(後に本もまとめている。)なかなか活躍しているけれど、結局は皆日本絡みではないか。日本企業の世界進出があって、ネイスンの出番もあった。そして会社はやがて破綻し、再婚して二人の子があったので、カリフォルニア大学サンタバーバラ校に職を得たのである。
(勝新太郎と)
 ネイスンが望んだ穏やかな人生は現実には実現しなかった。むしろ別れた妻がハワイで心の平安を見つけたのかもしれない。若くして三島、安部、大江ら世界文学の巨匠と知己となったのだから、彼らの翻訳と研究だけでも世界トップの研究者となれたと思う。しかし、もしそういう「日本学者」として高く評価されても、自分は作家や映画脚本家として世界に知られたかもしれないのに、一生を翻訳と研究で費やしてしまったとネイスンは思ったに違いない。人間の気質的な部分は変えられず、ネイスンは苦い人生を送ったに違いない。途中から「この人の人生は楽しいけれど、苦い」と判ってくる。前半の青春の輝きが失せていく。でも一緒にお酒を飲むと楽しそうだし、実にたくさんの人物が綺羅星のごとく点描される。実に面白い読書体験だった。
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