そう言えばと思うんだけど、2020年の前に東京は2016年五輪にも立候補していたことをどれだけの人が覚えているだろうか。新型コロナウイルスのパンデミックは誰にも予測出来ないことではあったけど、東京五輪の問題点は招致運動の中に潜んでいたと思う。今までに日本の都市は夏季五輪に計7回立候補している。東京も5回立候補していて、1940年は一発で招致決定。(日中戦争激化で返上、代わってヘルシンキが開催を目指したが第二次世界大戦勃発で中止。)ついで、1960年大会に立候補するも、1955年にローマに敗れた。続いて1964年大会に立候補し、1959年にデトロイト、ウィーン、ブリュッセルを破って東京に決定した。
他都市のことは後で触れるとして、東京が4回目に立候補したのは2016年大会だった。立候補に至る経過を後回しにして、決定経過を振り返る。2009年10月にコペンハーゲンで開かれたIOC総会で開催都市が決定された。最終候補はリオデジャネイロ、マドリード、東京、シカゴだった。東京都知事はその時点で石原慎太郎、首相は政権交代したばかりの民主党内閣の鳩山由紀夫。アメリカからはオバマ大統領もやってきたが、結局シカゴは第一回投票で最下位で落選した。1回目のトップはマドリードの28票、リオは26票だった。東京は22票、シカゴは18票。第2回投票で東京は20票と票を減らして落選。リオは46票でトップになった。その勢いのまま、第3回投票でリオが66票、マドリードが32票でリオデジャネイロに決定した。
(2009年総会の石原知事と鳩山首相)
2020年大会決定時(2013年)の映像は何度もニュースに出てくるが、この2009年の落選のことは忘れている人が結構多いのではないだろうか。そして東京都は2020年にも再度立候補することを決めた。何のためにオリンピックをやるのかという問題はあるが、1964年の時も2回続けて立候補して招致に成功したことを思い出せば、続けて立候補するという戦術もあるだろう。しかし、2009年と2013年の間に「2011年3月11日」があった。
僕はこの時点で2020年招致を辞退するべきだったと思っている。東日本大震災と福島第一原発事故。確かに今から見て、コロナ禍がなければ2020年の東京で開催出来たかもしれない。だが、2011年、2012年段階では先のことは見通せなかった。とにかく膨大な復興予算が必要なことは予想出来たのだから、2024年なり、2028年なりに招致を延期するのが常識ではないだろうか。現に2026年冬季五輪招致を目指していた札幌は、2015年に発生した北海道胆振東部地震の発生によって2030年大会招致への延長を決めている。それに対して東京五輪の場合は、「復興五輪」などと取って付けたようなお題目を掲げて、被災者を利用するような招致活動になった。
ところで、そもそもいつ五輪招致が始まったのか。それは2005年にJOC竹田会長が年頭に日本招致を目指すといったことにある。それに対し、東京と福岡が名乗りを上げたのである。もうみんな忘れているだろうが、初めは「東京か福岡か」問題があったのである。両都市で招致競争が行われ、日本の立候補都市を東京に絞ると決まったのは、2006年8月30日だった。この時自分は東京都の職員だったわけだが、何また石原知事が出来もしないことをぶち上げたのか、実に迷惑極まりないと思っていた。2008年五輪が北京だったのだから、間にロンドンをはさんでまた東アジアになるとは思えないじゃないか。
じゃあ、石原都知事はなんで五輪招致を言い出したのだろうか。石原知事は1999年に初当選し、2003年に圧倒的な得票で再選されていた。一番勢いがあった時代で、恐らくは「国政復帰」を見据え、「国威発揚」を目指したのだと思う。そう発言していたわけではなく、もっとタテマエ的なことも言っていたと思うけど、バブル崩壊以後長く沈滞する日本社会に対し活を入れるのは自分しかいないというような「俺様」的発想だと受けとめていた。その時点で「強権的教育行政」に多くの教員はウンザリしていた。この上東京五輪なんてなったら難題がまたまた降り積もるに決まっている。幹部教員ほど止めてくれみたいな感じだった。
このように「東京における五輪問題」は、実にもう16年も続いているのである。そして2009年には自民、公明、民主(当時)の三党を中心に、「東京五輪招致支援の国会決議」が行われた。石原知事は2003年の選挙では五輪招致を訴えていない。その後の2007年の知事選では五輪反対の候補もあったが大きな声にはならなかった。2011年の知事選では石原知事が4選されたが、1年半で辞職して衆議院選挙に出て国政に復帰した。以後の知事選は猪瀬直樹、舛添要一、小池百合子は五輪開催を前提にし、対立候補(宇都宮健児ら)は予算の見直しは訴えたが開催自体の可否は問わなかった。つまり、都民は五輪開催賛成知事を選び続けてきたので、その責任がある。
先に書いたように僕は大震災を受けて五輪招致を断念、もしくは少なくとも延期するべきだったと思っているが、現実には2011年の石原知事4選以後に再度の立候補が固まっていった。その間に実は「広島・長崎共催構想」や「広島単独開催構想」もあったのだが、実現しなかった。当時の民主党内閣(野田佳彦内閣)はあまり関与せず、むしろJOC竹田会長と石原知事、森喜朗元首相ラインで東京招致が進んだ。2012年12月に第2次安倍内閣が発足すると、「安倍内閣として全力を挙げる」と表明した。そして2013年の招致に成功した。このように「東京五輪」は良くも悪くも「石原慎太郎」「安倍晋三」がキーパーソンなのである。
安倍首相がなんで東京五輪に一生懸命だったのか。それは単なる「国威発揚」に止まらず、東京五輪が開催される2020年には「憲法改正」を実現したい、それも自分の手によって、ということだろう。そのためには1期2年、2回までという「自民党総裁規定」を変えなければいけない。そこで「1期3年、3回まで、現職から適用」と党則を変えた。これで、2012年に就任した自民党総裁を2015年まで務め、引き続き2018年の総裁選にも立候補が可能になった。そこでも当選し、安倍総裁は2021年9月までとなった。これが「東京五輪の1年延期」の真因だろう。結局、東京五輪は憲法改正に向けたナショナリズム高揚の手段に位置づけられたわけである。
東京五輪には何でゴタゴタが付きまとうのか。それは「石原」「安倍」「森」などが呼んできたものに対して、人権感覚がまともな人は関わりたくないということに尽きると思う。偶然に起きたことではなく、この人脈で実施する五輪に関われば大迷惑を被るに決まってるではないか。ということで避けるべき人は避けていて、避けない人に話が行くと過去に問題があったりする。大体森喜朗氏が組織委員会会長だったのだから、関わる方がおかしい。まあ、そういうことだろう。
(名古屋五輪招致委員会) (大阪大会ポスター)
ちなみに東京以外の夏季五輪立候補都市は、1988年の名古屋と2008年の大阪である。覚えてる人は当該都市の人以外はほぼいないだろう。1988年にはソウル52対名古屋27と大敗。2008年には5都市の中で、大阪は1回目投票で最下位で落選した。北京44,トロント20、イスタンブール17、パリ15、大阪6だった。恐らくJOCとしては、この結果をみて首都東京でないと招致実現が難しいと判断したのだろう。
他都市のことは後で触れるとして、東京が4回目に立候補したのは2016年大会だった。立候補に至る経過を後回しにして、決定経過を振り返る。2009年10月にコペンハーゲンで開かれたIOC総会で開催都市が決定された。最終候補はリオデジャネイロ、マドリード、東京、シカゴだった。東京都知事はその時点で石原慎太郎、首相は政権交代したばかりの民主党内閣の鳩山由紀夫。アメリカからはオバマ大統領もやってきたが、結局シカゴは第一回投票で最下位で落選した。1回目のトップはマドリードの28票、リオは26票だった。東京は22票、シカゴは18票。第2回投票で東京は20票と票を減らして落選。リオは46票でトップになった。その勢いのまま、第3回投票でリオが66票、マドリードが32票でリオデジャネイロに決定した。
(2009年総会の石原知事と鳩山首相)
2020年大会決定時(2013年)の映像は何度もニュースに出てくるが、この2009年の落選のことは忘れている人が結構多いのではないだろうか。そして東京都は2020年にも再度立候補することを決めた。何のためにオリンピックをやるのかという問題はあるが、1964年の時も2回続けて立候補して招致に成功したことを思い出せば、続けて立候補するという戦術もあるだろう。しかし、2009年と2013年の間に「2011年3月11日」があった。
僕はこの時点で2020年招致を辞退するべきだったと思っている。東日本大震災と福島第一原発事故。確かに今から見て、コロナ禍がなければ2020年の東京で開催出来たかもしれない。だが、2011年、2012年段階では先のことは見通せなかった。とにかく膨大な復興予算が必要なことは予想出来たのだから、2024年なり、2028年なりに招致を延期するのが常識ではないだろうか。現に2026年冬季五輪招致を目指していた札幌は、2015年に発生した北海道胆振東部地震の発生によって2030年大会招致への延長を決めている。それに対して東京五輪の場合は、「復興五輪」などと取って付けたようなお題目を掲げて、被災者を利用するような招致活動になった。
ところで、そもそもいつ五輪招致が始まったのか。それは2005年にJOC竹田会長が年頭に日本招致を目指すといったことにある。それに対し、東京と福岡が名乗りを上げたのである。もうみんな忘れているだろうが、初めは「東京か福岡か」問題があったのである。両都市で招致競争が行われ、日本の立候補都市を東京に絞ると決まったのは、2006年8月30日だった。この時自分は東京都の職員だったわけだが、何また石原知事が出来もしないことをぶち上げたのか、実に迷惑極まりないと思っていた。2008年五輪が北京だったのだから、間にロンドンをはさんでまた東アジアになるとは思えないじゃないか。
じゃあ、石原都知事はなんで五輪招致を言い出したのだろうか。石原知事は1999年に初当選し、2003年に圧倒的な得票で再選されていた。一番勢いがあった時代で、恐らくは「国政復帰」を見据え、「国威発揚」を目指したのだと思う。そう発言していたわけではなく、もっとタテマエ的なことも言っていたと思うけど、バブル崩壊以後長く沈滞する日本社会に対し活を入れるのは自分しかいないというような「俺様」的発想だと受けとめていた。その時点で「強権的教育行政」に多くの教員はウンザリしていた。この上東京五輪なんてなったら難題がまたまた降り積もるに決まっている。幹部教員ほど止めてくれみたいな感じだった。
このように「東京における五輪問題」は、実にもう16年も続いているのである。そして2009年には自民、公明、民主(当時)の三党を中心に、「東京五輪招致支援の国会決議」が行われた。石原知事は2003年の選挙では五輪招致を訴えていない。その後の2007年の知事選では五輪反対の候補もあったが大きな声にはならなかった。2011年の知事選では石原知事が4選されたが、1年半で辞職して衆議院選挙に出て国政に復帰した。以後の知事選は猪瀬直樹、舛添要一、小池百合子は五輪開催を前提にし、対立候補(宇都宮健児ら)は予算の見直しは訴えたが開催自体の可否は問わなかった。つまり、都民は五輪開催賛成知事を選び続けてきたので、その責任がある。
先に書いたように僕は大震災を受けて五輪招致を断念、もしくは少なくとも延期するべきだったと思っているが、現実には2011年の石原知事4選以後に再度の立候補が固まっていった。その間に実は「広島・長崎共催構想」や「広島単独開催構想」もあったのだが、実現しなかった。当時の民主党内閣(野田佳彦内閣)はあまり関与せず、むしろJOC竹田会長と石原知事、森喜朗元首相ラインで東京招致が進んだ。2012年12月に第2次安倍内閣が発足すると、「安倍内閣として全力を挙げる」と表明した。そして2013年の招致に成功した。このように「東京五輪」は良くも悪くも「石原慎太郎」「安倍晋三」がキーパーソンなのである。
安倍首相がなんで東京五輪に一生懸命だったのか。それは単なる「国威発揚」に止まらず、東京五輪が開催される2020年には「憲法改正」を実現したい、それも自分の手によって、ということだろう。そのためには1期2年、2回までという「自民党総裁規定」を変えなければいけない。そこで「1期3年、3回まで、現職から適用」と党則を変えた。これで、2012年に就任した自民党総裁を2015年まで務め、引き続き2018年の総裁選にも立候補が可能になった。そこでも当選し、安倍総裁は2021年9月までとなった。これが「東京五輪の1年延期」の真因だろう。結局、東京五輪は憲法改正に向けたナショナリズム高揚の手段に位置づけられたわけである。
東京五輪には何でゴタゴタが付きまとうのか。それは「石原」「安倍」「森」などが呼んできたものに対して、人権感覚がまともな人は関わりたくないということに尽きると思う。偶然に起きたことではなく、この人脈で実施する五輪に関われば大迷惑を被るに決まってるではないか。ということで避けるべき人は避けていて、避けない人に話が行くと過去に問題があったりする。大体森喜朗氏が組織委員会会長だったのだから、関わる方がおかしい。まあ、そういうことだろう。
(名古屋五輪招致委員会) (大阪大会ポスター)
ちなみに東京以外の夏季五輪立候補都市は、1988年の名古屋と2008年の大阪である。覚えてる人は当該都市の人以外はほぼいないだろう。1988年にはソウル52対名古屋27と大敗。2008年には5都市の中で、大阪は1回目投票で最下位で落選した。北京44,トロント20、イスタンブール17、パリ15、大阪6だった。恐らくJOCとしては、この結果をみて首都東京でないと招致実現が難しいと判断したのだろう。