尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「巨大イベント」時代の終わりー東京五輪④

2021年07月24日 22時01分10秒 | 社会(世の中の出来事)
 1964年の東京五輪開会式(10月10日)は本当に良く晴れていた。その日空に作られた「五輪の輪」は本当にキレイだった。小学生だった自分が今でも覚えているぐらいだ。2021年も自衛隊機が空に五輪を描くということだったけど、それはどうなったのか? 町へ出たけれど、誰も上を見上げてないから忘れていた。何しろ暑いのである。最近は日傘(というか、スノーピークの折りたたみ傘なんだけど)をしてるから、空が目に入らないのである。後でニュースを見たら、雲や風という気象条件から、結局はキレイな輪にならなかったという話だった。それは偶然だけど、何だか今回の五輪を象徴している気がする。
 (空の五輪、最初が2021年、後が1964年)
 「巨大イベント」というのは生活者にとっては迷惑なものである。それは1964年の五輪だって同じで、当時の人たちも五輪ばかり見て熱狂していたわけではない。まだ若かった小林信彦は東京を逃げ出したし、和田誠はオランダ選手団を乗せてきた飛行機の帰国便を利用してヨーロッパに出掛けた。若いアーティストをオランダに安価に招待するプログラムがあったのである。何も国民全員がテレビで女子バレーボール決勝を見ていたわけではなかった。あの時の「東洋の魔女」対ソ連戦の視聴率は66.8%である。つまり、国民の3人に1人は見てなかったのである。それでもこれが歴代視聴率の2位で、1位はその前年の1963年大みそかの紅白歌合戦81.4%になっている。

 紅白歌合戦の視聴率が高かった時代というのは、つまり「国民誰も知っている歌があった時代」である。レコード大賞受賞曲を見ても、大体70年代頃までは「皆が歌える歌」で、次第に判らなくなってくる。例外はあるけれど、21世紀になるとそもそも歌が皆で歌うものじゃなくなくなってくる感じだ。こうして「紅白歌合戦」の視聴率もガタッと落ちていく。それは下に示すグラフを見れば一目瞭然である。それはつまり、「国民が同じ目標を持っていた時代」=「高度成長期」が終わったということだ。
(紅白歌合戦の視聴率推移)
 そんなことは多くの人は判っていて、経済界は「多品種少量生産」、教育界も「個性化」などと20世紀のうちから言っていた。それなのに今でも「巨大イベント」をやりたがる政治家がいるのは何故だろうか。政治家側の事情は後で考えるが、それに賛同する経済界、官界の事情を先に考えてみたい。80年代後半の「バブル」と呼ばれた過熱景気の時代に、日本では各地方に多くの工場団地やリゾート建設が進められた。それが90年代後の「バブル崩壊」で一気に破綻して「塩漬け」されたままになっている。

 今回の東京五輪で新たに会場が建設されたベイエリア(湾岸)は広大な埋め立て地だが、なかなか開発が進まなかった。今回の五輪招致とは、要するにその土地を何とかしたいという都庁官僚と経済界の思惑ではないか。2025年に開催予定の大阪万博の主会場となる「夢洲」(ゆめしま)も同様である。国民こぞって熱狂する時代ではないことは判っているだろうが、国費を投入して「負の遺産」をなんとかしたいのだろう。中央区晴海の選手村は五輪後はマンションとなるが、大地震の時には液状化しないのだろうか。もっと遠くの埋め立て地に作ったスポーツ施設は今後「負の遺産」として長く残り続けるのではないか。

 そして巨大イベントを利用してナショナリズムをあおりたい政治家が出て来る。文化では国の威信というよりも「個人の名誉」が大きいので、特にスポーツが利用されやすい。スポーツ界は巨大ビジネスでもあり、政治、経済、マスコミなどとも深い関係を持っている。「スポーツで町おこし」というのは、芸術祭や音楽祭より地域住民に受け入れられやすい。今後も折に触れ、スポーツを利用した巨大イベントを仕掛ける人が出て来る。「気をつけよう 甘い言葉と暗い道」と言うしかない。それが日本人の身に沁みれば、東京五輪にも歴史的価値があるわけだが、まあ恐らく日本人は変わらないだろう。
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