尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「静かな生活」と「二百年の子供」ー大江健三郎を読む⑥

2021年07月28日 21時05分29秒 | 本 (日本文学)
 大江健三郎の小説は難しいと思っている人は、まず「静かな生活」(講談社文芸文庫)を読むべきだろう。これは1990年にいくつかの雑誌に連載された連作短編集で、1990年に講談社から出版された。1994年にノーベル文学賞を受賞した記念として、義兄の伊丹十三監督によって映画化されたことでも知られる。僕は当時は読まなかったので、こんな読みやすい小説があったのかと驚いた。でも小説の設定を実際の大江一家と混同してはいけない。これは純然たるフィクションなのだと思って読まないといけない。
(「静かな生活」)
 というのも語り手は「マーちゃん」と呼ばれる女子大学生。「イーヨー」と呼ばれる兄は障がい者で、地域の作業所に通っている。弟の「オーチャン」は浪人中の受験生である。父親は周りの人から「健ちゃん」と呼ばれる作家で、今カリフォルニアの大学に「居住作家」として招かれている。ところが父は精神的に「ピンチ」にあって、一人で行かせられないと考えた母も付いていく。そこで障がい児を抱えた一家が子どもたちだけで暮らしていくのである。一家の設定はほぼ大江一家と同じで、イーヨーが作曲を習っていたり、水泳に行くのも現実を反映している。(「新しい人よ眼ざめよ」の最後で「イーヨー」と呼ばないことになったが、その後また呼んでいる。)

 これじゃあ、まるで大江一家だと思って読んでもやむを得ない気がするが、そもそもの「父母がカリフォルニアに半年以上も行く」というのがフィクションらしい。しかも、その状況を娘の視点で描くのが不思議。小説ではピンチに立つ父親が遠慮なく語られるが、それは自分自身のことである。子どもが父を批判的に書く小説を当の父親が書くのである。こんな変な設定の家族小説は世界で初めてだろう。読みやすく出来てるけど、この小説の仕掛けはなかなか複雑なのである。

 単に家族の日常を描くだけでなく、「案内人(ストーカー)」という章ではタルコフスキー監督のロシア(ソ連)映画「ストーカー」(1979)をめぐって、登場人物が議論する。「ストーカー」という言葉はこの映画で初めて知ったわけで、この小説の中でもどういう意味か皆で議論している。チェルノブイリ原発事故直後で、ソ連崩壊直前の時期に書かれた小説である。ポーランドの大統領が来日して抗議活動をする話も出てきて、1990年という時代を表わしている。

 「妹の力」のように物語が進行し、最後になって「イーヨーが戦う」というのが、この小説の真髄である。だからずっと「マーちゃん」の語りで描かれることに意味がある。彼女は仏文科の学生でセリーヌを専攻している。そんな専門的な話が挟まりながら、水泳クラブでイーヨーに危機が訪れる。実はそれは父親の関係なのだが、とにかく留守を守るマーちゃんは一生懸命である。だが実はイーヨーは単に守られているだけの存在じゃなかった。それを妹の視点で物語る「ナラティブ」(語り方)がこの小説の読み所で、作家も一作書いて面白かったので連作になったという。
(映画「静かな生活」)
 映画はあまり評価されなかったが、僕は面白かった。伊丹十三監督は現実の社会問題をコミカルに描くことで人気を得ていた。基本的なマジメな大江文学は、伊丹作品のイメージに合わなかったのか、商業的にもヒットしなかった。父を山崎努、イーヨーを渡部篤郎、マーチャンを佐伯日菜子が演じていた。もう一回見直して見たい気がする。大江作品は60年代初期に何作か(「われらの時代」「飼育」「偽大学生」など)映画化されているが、だんだん難しくなって映画化が企画されても頓挫することが多くなった。ノーベル賞記念という名目で映画化出来たが、当時伊丹作品は全国一斉公開されていた。それには向かなかったということだろう。

 「二百年の子供」は「静かな生活」を越えて、間違いなく大江作品の中で一番読みやすい。2003年1月から10月に読売新聞に連載され、中央公論新社から刊行された。中公文庫にも入ったが現在は入手できないようなので、図書館で借りて読んだ。この本は「ヤング・アダルト」向けの「ファンタジー」として書かれたSFである。タイムマシンが四国の谷間の村にある大きなシイの木のうろだというのが発明である。そこで寝ると時間を越えるというか、それは夢を見るだけのような気もするけど、過去にも未来にも行けるという設定である。
(「二百年の子供」、舟越桂画)
 そんなバカなと言ったら話はおしまいで、ここに描かれる村の過去と未来の姿を考えるきっかけにすればいいんだろう。ここに登場するのは、「真木」「あかり」「」という三人組の子どもたちである。そして長男の真木には障がいがあるというから、つまりは大江一家と同じである。子どもたちをずいぶんフィクション化して作品に登場させてきた大江健三郎だが、これはそういう子どもたちへのプレゼントみたいな作品だろう。

 過去では村に起きた「逃散」(ちょうさん)の時期にタイムトラベルする。それって「万延元年のフットボール」などで描かれてきた時代じゃないか。その通りで、言ってみれば自分の子どもたちが自分の小説世界に入っていくという、ちょっと超絶的な発想である。そこではリーダーのメイスケさんが皆を連れて逃げるところだが、長老とは対立もある。子どもたちは傷ついていて、あかりは包帯を持って行って介抱する。

 それがタイムトラベル的に許されるのかなど議論しながらも、何とか可能になる。そしてメイスケには犬がいて、真木は「ベーコン」と名付ける。ベーコンを持って行くと大好物で食べるから。それから103年前のアメリカに行って、津田梅の留学の様子を垣間見る。今度は未来へ行こうとなって、2064年に行くことにする。なお、小説内の時間では現在が1984年になっている。それが「二百年の子供」という題名の理由。
 
 その未来はやはり「ディストピア」になっている。管理社会が完成している感じだが、一方ではそれに反抗する「根拠地」もあるらしい。そして、そもそも三人組が四国の森に来たのは、両親が外国へ行っているからだ。父親は精神的危機にあるらしく、果たして一家はちゃんと現実世界で再会できるんだろうか。そこでラストに弟があるものを見つけて解決する。ジュニア向け新聞小説だから、こんなに読みやすくていいのかと思いながら読むと、案外深い意味と小説的仕掛けがやはりあったのだった。
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