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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

今井正監督生誕百年②-リアリズムの力と限界

2012年05月03日 23時53分04秒 |  〃  (日本の映画監督)
 フィルムセンターの今井正監督特集上映。普通の映画館では上映が難しい戦時中の作品が5本上映される。昇進作の「沼津兵学校」、第3作の井伏鱒二原作「多甚古村」など。7作目の「望楼の決死隊」(1943)が好評を得て出世作となる。この作品は、朝鮮、満州国境警備の重要性を描く「時局映画」だ。岩波新書和田春樹「北朝鮮現代史」では金日成らの「満州抗日武装闘争」の実情が叙述されている。それを先住民の「攻撃」を描くアメリカ西部劇のような活劇として描いて「成功」したとされる。45年の「愛と誓ひ」は、「朝鮮半島の人々に特攻隊参加への機運を高める」ための映画である。

 その翌年の46年には「民衆の敵」を作った。「占領軍の民間情報教育局から撮るように会社が命じられていた民主主義映画の一本。」と解説にある。「ある軍需化学工場を舞台に、支配層であった財閥や軍閥の悪を、一人の徴用工の戦いを通して描き」という映画である。幾らなんでも朝鮮人に特攻隊をすすめるのは、今からすれば「犯罪的」だ。その翌年に財閥や軍閥の悪を追及する映画を作るとは。その振幅の激しさはいかがなものか。今の時点で考えると、どうしてもそう思う。

 しかし、それは二つの意味で間違っているのだろう。まず監督といっても東宝という会社のサラリーマンで、若手監督としては会社の命じるままに戦時も占領下も「時局映画」を作るしかないだろうという点。巨匠と呼ばれてワガママを通せるようになる監督は数少ない。もう一点、戦時中に軍部に一心に協力するマジメな国民と、戦後になって民主主義のために戦う主人公は、主義主張の面で比べれば正反対に見えるけれど、自分の役割を誠実に果たそうと頑張るという人間像では同じなのである。どちらも陰影の少ない人物像で、丁寧なリアリズム演技指導で心を打つシーンを演出できる。

 今井映画の感動的な主人公、「青い山脈」の原節子の教師、「山びこ学校」の村の教員木村功、「ひめゆりの塔」の女学校の教師群などは皆同じ類型で、感動的だけど一本調子の人物像だと思う。そもそも反戦映画の傑作とされる「ひめゆりの塔」は「反戦映画」なんだろうか。僕たちは沖縄戦の行く末を判って見ている。この苦難の末に敗北し占領され、今も基地問題が解決していないことを知っている。公開された53年は、52年に発効した講和条約で沖縄の占領が長期化することが避けられなくなった時点だ。だから戦時下の女学生の苦しみを見れば、「戦争は悲劇である」と強く印象づけられる。
(「ひめゆりの塔」)
 しかし、日本の代表的な国策戦争映画だった「麦と兵隊」「五人の斥候兵」なども、兵の苦労をしみじみ描くという意味でほとんど同じ構造である。外国人映画研究家が今戦時下の日本映画を見ると、なんでこの暗い映画が軍部に好評だったのか疑問に感じる。しかし、日本では「主人公の苦しみに共感共苦する」ことが大切なのである。

 50年代は国民のほとんどが戦争の影を背負い、貧しい中を苦労していた。だから主人公が戦争で無残な犠牲を強いられる無念の思い、あるいは民主主義のために古い体制と闘う主人公への応援、それらを観客のほとんどが自分のものとして共感できた。それが50年代日本映画が「今井正の時代」だった理由だろう。しかし「もはや戦後ではない」時代になると、人々の気持ちは分裂し始める。

 経済優先で発展する中、公害問題も起こり経済的価値への疑問が起こる。左翼陣営も中ソ対立や新左翼の台頭で、何が正しいのか判らなくなってくる。戦後生まれの新しい「団塊世代」(ベビーブーマー)が世界各国で新しい時代を切り開き、体制を問わず権威主義的なシステムへの異議申し立てを始める。何が正しいのか皆が疑問を持つ時代なのだから、当然従来のリアリズム描写では描き切れない。文学、美術、音楽、演劇などで新しい表現が模索される。映画でもフランスのヌーヴェルヴァーグが始まる。こうして64年を最後に今井監督はしばらく作品がなくなる。

 それでも以後の作品は14本ある。ベストテン入選は「橋のない川第1部」(1969、5位)、「橋のない川第2部(1970、9位)、「婉という女」(1971、3位)、「海軍特別年少兵」(1972、7位)、「あにいもうと」(1976、6位)である。「婉という女」は大原富枝原作の歴史映画で、土佐藩で罪を得て幽閉された野中兼山の娘の物語。岩下志麻主演の壮絶な映画で、今見ると優れた技量に関心するが、激動の同時代とは離れている。「海軍特別年少兵」も感動的だけど、軍隊をリアルに再現することが反戦の思いに直結するというよりも、やはり「一種の歴史映画」になっていた。(地井武男が名演。)
(「海軍特別年少兵」)
 「橋のない川」は問題を描く住井すゑ原作の映画化だが、解放同盟から「差別映画」と批判を受けた。解同と共産党との対立が厳しくなっていた当時、共産党の立場に立つ今井正も批判された。だから長らく、特に2部は上映の機会が少なく、僕が見たのはずっと後になってからである。「差別映画」とは思わなかったけれど、反差別の感情が熱く燃え上がる映画と言うよりは「歴史映画」だったと思う。そういう作りは今井監督の他の映画にも見られる。そこが激動の時代には「差別」に思われた部分もあるのではないか。

 今井映画に描かれないのは「性」と「暴力」である。背景にはもちろんあるのだが、時代的な表現の限界もある。50年代には「肉体」が大きな問題ではなかったのだ。でもその点が60年代以降には物足りない。時代が大きく変わり、日本映画の中心は今村昌平や大島渚に移った。僕も同時代的には見てない作品の方が多い。微温的な「良心作」を作る監督という印象がぬぐえなかった。でも「リアリズム」が不要になったわけではない。それを一番証明するのは「あにいもうと」。室生犀星原作で3回映画化されたが、3回目の今井正は東宝に頼まれ秋吉久美子、草刈正雄の演技指導を担当した。若手人気俳優にはそういう映画と監督が必要なのである。民藝の大滝秀治が助演賞を取る名演をしたことも忘れがたい。映画の内容は古いとしか思えなかったけれど、演出で見せる映画というものが存在する。
(「あにいもうと」)
 日本の戦後民主主義を再認識するため、「50年代」日本の再発見のため、「良心作」の安定した感動を味わえた時代のなつかしさを発見するため、日本の戦時下と占領時代の連続と不連続を考えるために、高度成長以前の日本の風景を見つめ直すために、今井正作品は再評価を待っていると思う。(オムニバス映画「愛すればこそ」を最近見たが、佃島の渡し船、勝鬨橋の開閉、昔の川崎駅、拘置所での面会のようすや東武線小菅駅など貴重な風景がロケで記録されていた。そういうのを発見するのも、昔の映画を見る大きな楽しみだろう。)
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