尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

菊池事件-ハンセン病と無実の死刑囚

2012年05月23日 23時57分34秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 ちょっと時間が経ってしまったけれど、ハンセン病市民学会での分科会「今、菊池事件を問い直す」に参加したので、その時の報告。というか、菊池事件については、昨年このブログでも書いている。その後の進展を含めて報告。

 菊池事件と言うのは、1952年に熊本県で起きた殺人でFさんが逮捕、起訴され、死刑が確定した事件である。Fさんはハンセン病を疑われ、療養所への入園を強要されていた。そのため菊池恵楓園に特設されたハンセン病の特別法廷で裁かれ、裁判は一般に公開されなかった。無実を訴え、再審請求を繰り返したが、第3次再審請求が却下された直後の1962年9月14日、死刑が執行された。今年はその死刑執行から50年という年に当たる。あらたに菊池事件弁護団が組織され、死刑執行後の再審請求ができないかどうか、50年目の年に改めて再検討が行われているところである。

 現在、毎月のように「菊池事件連続企画」が行われている。毎月のように熊本まで行くことはちょっと難しいので、これには参加していないけれど。詳しくは画像、およびホームページ参照。その成果として、連続企画実行委員会発行で「菊池事件」というパンフも作られている。(連絡先は、菊池恵楓園入所者自治会。連続企画のホームページに、連絡先が記載されている。
 

 今回の分科会では、国賠訴訟西日本弁護団の国宗直子弁護士がコーディネーターを務め、最初に事件概要を説明した。続いて、当時から入所していてFさんと「最後の面会」をすることになった志村康さん(自治会副会長、国賠訴訟西日本原告団副団長)、西南学院大学の平井佐和子さん、熊本日日新聞記者の本田清悟さんが貴重な体験や知見を披露し、意見を交わしあった。

 ちょっとびっくりしたのは、当日配布された事件当時の地元紙、熊本日日新聞の記事死刑執行の記事が掲載されたのは、処刑後5日目の19日、「Fは処刑されていた」という見出しである。当時は(というかつい最近まで)、死刑執行は原則的には秘密にされていて、特に社会的関心の高い死刑囚の場合を除き、法務省から特別の発表がなかった。しかし、園の中ではもちろん大きな問題になっており、当時全国ハンセン氏病患者協議会(全患協=現在の全国ハンセン病療養所入所者協議会)では抗議活動が起こっていた。マスコミとハンセン病療養所との関係が非常に遠かったため、情報が伝わるのが遅かったのである。事件当時も当然「患者の犯行」と決めつけるような記事が掲載されており、判決も極めて小さな事実のみ伝える記事である。やがて救援運動が盛んになってくると、1962年8月26日付で「現地調査」の記事も掲載されている。しかし、それはあまりにも遅かったのである。

 また、この事件の背景に「戦後の無らい県運動」があることも大きな問題として指摘された。ハンセン病(らい病)は差別されていたが、特に戦時期には国家的に患者をなくす(=患者全員を療養所の隔離する)動きが強まった。「無らい県運動」と呼ばれ、各県が競うようにして患者を「発掘」し、療養所の送り込んだ。送り込む側の多くは患者に対する「人道的措置」と信じ込んでいた者も多かったが、当時としても感染力の弱い病であるのに、国家が強制していくことにより差別が厳しくなっていく結果をもたらしていったのである。これは戦時下の出来事ととらえられがちだが、戦後になっても「隔離の思想」は日本において生き続け、患者を追い立てていた。特に熊本の菊池恵楓園が大拡張され「世界一の規模」を誇る療養所となった。そのきっかけは朝鮮戦争である。戦争による難民としてハンセン病患者が韓国から大量に「密航」してきたらどうしようという、病気と民族の複合差別があったのである。しかし、もちろんそういうことは起こらなかった。大増床したのに空いていては問題なので、熊本では患者の入所への動きが強力に進められたのである。

 こうした中で、けっして重症ではなかった(ハンセン病ではなかったのではないかという説もあるし、自然治癒していたのではないかとも言われる)Fさんに入所の勧めがあった。1951年8月1日、役場の衛生課に勤めていた経験がある被害者宅にダイナマイトが投げ込まれて、ケガをした。Fさんが「被害者が(自分が病気だと県に)密告した」と被害者をうらんだ犯行とされ、特別法廷で懲役10年を言い渡された。この「ダイナマイト事件」がまずあり、その控訴中の1952年6月16日、Fさんは脱走した。その捜索中の7月7日に、先の事件の被害者が刺殺されているのが発見されたのである。この殺人もFさんの犯行とされ、ハンセン病のための特別法廷で死刑が言い渡されたわけである。ハンセン病患者のための特別法廷は、1972年までに95件の刑事裁判が行われたという。死刑の事件はもちろんこの事件だけである。この事件の裁判は、弁護士も含めて、「病気への恐れ」のためだろうが、きちんとした証拠調べが行われなかった点が指摘されている。小さな村落での事件で、様々な疑わしい点がいっぱいあるようだ。

 僕が前からこの事件に関して思っていることは、そもそも「特別法廷」で裁くということが、憲法違反なのではないかということだ。憲法第76条に「特別裁判所は、これを設置することができない」と定められている。76条の規定は、現行の司法権の外に「軍法裁判所」などを置くことの禁止規定で、ハンセン病特別法廷で裁かれたFさんも、最終的には最高裁判所で死刑が確定している。だからこの裁判も憲法違反ではないというのが、通常の理解だろう。しかし、「らい予防法」はそもそも違憲の法律だとも考えられ、その法律で隔離された療養所内におかれた「特別法廷」は「本来はあってはならないもの」だった。もし隔離しなければならないような病気なんだったら、精神疾患や他の出廷できない病気にかかった場合と同じく、病気が治癒するまで裁判は停止されるべきものなのではないか。また憲法第82条には「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」とある。Fさんの裁判は明らかにこの条項に違反している。

 また死刑執行に関する疑問もある。法務大臣の執行命令は1962年9月11日。第3次再審却下決定は13日。つまり再審請求中に執行命令が出ている。(法律に違反するわけではないが、現在は原則的に行われない。)この却下決定がピタリと執行直前になっているのも怪しく、裁判所と法務省が連絡を取り合っていたのではないかとさえ思わずにいられない。再審却下決定は熊本地裁のもので、福岡高裁に即時抗告する余裕を与えずに死刑執行してしまったのも、「みんなハンセン病死刑囚を葬ろうとグルになっていた」という印象を持たざるを得ない。
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「再審」とは何か

2012年05月23日 01時25分03秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 最近、「再審」のニュースが続いている。というか、このブログでもいっぱい書いている。だから「再審」=「裁判のやり直し」ということは、大体みんな知ってるんだろうけど、くわしいことはよく知らない人も多いと思うので解説しておきたい。実は22日の朝日新聞2面にある「ニュースがわからん!」という解説コーナーで、再審が取り上げられている。これが間違いではないものの、ちょっと不十分なのである。そこには、「刑事訴訟法は『無罪を言い渡すべき明らかな証拠が見つかった』という理由があれば、刑の確定後でも『再審が請求できる』としている。」と書いてある。

 この解説のどこが不十分かを書く前に、再審に関する原則的な話。再審は確定した裁判結果を変えてくれと言う話だから、本来は例外中の例外の話である。しかし、人間界の出来事にはいろんなことがありうるから、やり直しの例外規定を決めておかなくてはならない。例えば、裁判を決定づけた「物的証拠」が実は偽造されたものだったことが証明されたとしたら、どうだろうか。その場合は、確定した裁判の基盤が崩れてしまうから、その裁判結果を維持することは許されない。今の例の場合、その証拠は刑事裁判に使われたとは限らない。民事裁判で使われた証拠が偽造である場合もありうる。だから、再審は刑事裁判だけでなく、民事裁判にもある仕組みなのである。

 以後、民事はおいといて刑事裁判に限るが、例外規定だから、刑事被告人だった側に有利な方向の再審しか請求できない
 「刑訴法435条 再審の請求は、左の場合において、有罪の言渡をした確定判決に対して、その言渡を受けた者の利益のために、これをすることができる。」(なお、具体的に請求できる人は、確定囚本人、本人が死亡か心神喪失の場合は配偶者、直系親族、兄弟姉妹、及び検察官である。)
 これを知らない人がいる。古い話だが、黒澤清監督「地獄の警備員」(1992)というホラー映画があった。裁判で一度無罪になった犯人が新証拠が見つかり…という展開になっていたが、そういうことは法的にはない。では被告の側が証拠偽造をして無罪になったことが後でわかったらどうなるのか。実はそういう珍しいケースもあったのである。その事件ではビデオ映像の日付を後で書き換えてアリバイを主張したのである。一回はみなだまされて無罪になったけれど、後で発覚した。その場合でも、検察側から再審を請求することはできない。それでは偽造した犯人に都合がいいではないかと思うかもしれないけれど、それでいいのである。国家権力の側が再審を請求できたら無罪になった人は、おちおち安心して暮らせない。ところで証拠を偽造した犯人の方は、証拠隠滅、文書偽造などの罪でちゃんと裁かれ今度は有罪になったのは言うまでもない。

 では先ほどの新聞の解説で不十分な点はどこか。実は刑事訴訟法には再審を請求できる理由が7つも決められている。例えば、今あげた「証拠偽造が確定判決で認められた場合」とか、裁判官や検察官や警察官なんかがその事件で不正をしたことが証明されたときとか。そういうケースはほとんどないわけだから、今問題になっているケースは、ほとんどすべて「刑事訴訟法第435条の6項」に関係している。
 「有罪の言渡を受けた者に対して無罪若しくは免訴を言い渡し、刑の言渡を受けた者に対して刑の免除を言い渡し、又は原判決において認めた罪より軽い罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき。」

 法律の条文を見ればわかるように、再審が認められるには「二つの条件」がある。新聞解説では「明らかな証拠が見つかった」と書いてあるが、それは不十分で「明らかな証拠が新しく見つかった」と書かなくてはいけない。これは法律実務の言葉では「明白性」「新規性」と呼んでいる。証拠が少ない事件では、もともとの裁判で無罪主張を言いつくしてしまったような場合がある。死刑事件では執行されては大変なので早めに再審請求することもあるが、裁判所からは「新規性がない」という理由で認められないことも多い。

 もう一つ、再審の対象について。「無罪を言い渡すべき」というだけでは不十分なのである。「より軽い罪」というケースが書いてあるのである。もっと細かく言えば、「無罪、免訴、刑の免除、より軽い罪」を言い渡すべき「明白性」「新規性」のある証拠がある場合、ということになる。で、「より軽い罪」とは何か。例えば「殺人罪」を例にとれば、「ただの殺人」にとどまらず、「何か」が付いている場合も多い。「強盗」「強姦」「放火」とかである。被害者が持っていたカバンが死体になかった。強盗目的だろうと思われたけど、被告は取ってないと主張するが認められなかった。裁判終了後、他の誰かが死体からカバンを取っていったことが証明された、というような場合である。「強盗殺人」から「強盗」が取れれば「殺人」。これは「より軽い罪」にあたる

 ただの殺人罪でも最高刑は死刑である。しかし強盗殺人の方が刑が重いことが多い。だから強盗殺人で死刑だったが、強盗がとれれば無期懲役になっていたという可能性がある。こういう場合、再審の理由になるわけである。これも「強盗に関しては無罪」ということだから、「無罪を言い渡すべき」ケースに入ると言えばそうも言えるんだけど、全面無罪ではない。また「殺人罪」で有罪になったけれど、「殺意」に関して争っていて、新しい証拠が見つかったという場合もある。「殺意」がなかったことが証明されれば、過失致死とか傷害致死になるわけである。これも「より軽い罪」である。

 間違えてはならないのは「より軽い罪」であって、「より軽い刑」ではないということである。「罪刑法定主義」という言葉があるが、「罪」と「刑」というのは混同しやすい。宗教や道徳で罪を考えるなら別だが、今の社会では「法律で罪と決められている行為」が罪である。よって、「○○法第○○条違反」と必ず特定できる事柄だけが「罪」である。一方、その罪にふさわしい刑罰の幅も法律に書いてある。二つ以上違反していれば罪が重くなるとか、自首すれば罪が軽くなることもある、とかも全部法律に書いてある。法律に書いてないことは「罪」にならず、法律にない「刑」は課されない。「強盗傷害罪」の事件で、「強盗」が事実ではない証拠があれば、再審を開く理由になる。でも裁判では被害者が「重く罰してくれ」と証言して重い実刑判決になった。でも、時間が経って今は少し許す気持ちも出てきて、新しく証言してもいいと言っているなどというケースは、裁判段階だったら「軽い刑」になる理由となったかもしれないが、裁判終了後では再審の理由にはならない。「より軽い刑を言い渡すべき証拠」では再審にならないのである

 どうしてこのことを書いたのかと言えば、けっこう「部分冤罪」を訴えている死刑囚が多いのである。しかし、ほとんど知られず支援運動もない。全面無罪を主張する人を支援する運動はあるけど、殺人は事実だけど少し違うとか、殺した人もいるけど殺してない人もいる、なんて死刑囚を支援する運動はなかなかない。60年代に起きた事件で、今でも執行されていない死刑囚は3人いる。(それ以前の事件の死刑囚は、執行されたか、再審で無罪になったか、獄中で死亡している。)その3人のうち2人は、名張毒ぶどう酒事件と袴田事件であるから、全面無罪を主張して有名だし、再審に近づいている。でも、もう一人は知らない人が多いと思う。「マルヨ無線事件」という事件名で呼ばれる、1966年に福岡で起こった事件で、強盗放火殺人でO死刑囚の死刑が1970年に確定した。現在の確定死刑囚では一番古い。放火に関して争って再審請求を続けているが、実っていない。あるいは4人殺害で死刑が1986年に確定したW死刑囚の場合は、4人のうち2人の殺害を否認している。一審の大阪地裁では無期懲役だったのは、裁判官に一部の冤罪主張が認められたからだと言われている。最高裁でも調査官は一部無罪の調査報告だったという話があるが、結局は4人殺害が確定している。しかし、ずっと再審請求を続けている。そういうケースは他にもあり、再審は本来はこういうケースでもありうるということをみんな知っておく必要があるのではないかと思う。
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