ちょっと時間が経ってしまったけれど、ハンセン病市民学会での分科会「今、菊池事件を問い直す」に参加したので、その時の報告。というか、菊池事件については、昨年このブログでも書いている。その後の進展を含めて報告。
菊池事件と言うのは、1952年に熊本県で起きた殺人でFさんが逮捕、起訴され、死刑が確定した事件である。Fさんはハンセン病を疑われ、療養所への入園を強要されていた。そのため菊池恵楓園に特設されたハンセン病の特別法廷で裁かれ、裁判は一般に公開されなかった。無実を訴え、再審請求を繰り返したが、第3次再審請求が却下された直後の1962年9月14日、死刑が執行された。今年はその死刑執行から50年という年に当たる。あらたに菊池事件弁護団が組織され、死刑執行後の再審請求ができないかどうか、50年目の年に改めて再検討が行われているところである。
現在、毎月のように「菊池事件連続企画」が行われている。毎月のように熊本まで行くことはちょっと難しいので、これには参加していないけれど。詳しくは画像、およびホームページ参照。その成果として、連続企画実行委員会発行で「菊池事件」というパンフも作られている。(連絡先は、菊池恵楓園入所者自治会。連続企画のホームページに、連絡先が記載されている。

今回の分科会では、国賠訴訟西日本弁護団の国宗直子弁護士がコーディネーターを務め、最初に事件概要を説明した。続いて、当時から入所していてFさんと「最後の面会」をすることになった志村康さん(自治会副会長、国賠訴訟西日本原告団副団長)、西南学院大学の平井佐和子さん、熊本日日新聞記者の本田清悟さんが貴重な体験や知見を披露し、意見を交わしあった。
ちょっとびっくりしたのは、当日配布された事件当時の地元紙、熊本日日新聞の記事。死刑執行の記事が掲載されたのは、処刑後5日目の19日、「Fは処刑されていた」という見出しである。当時は(というかつい最近まで)、死刑執行は原則的には秘密にされていて、特に社会的関心の高い死刑囚の場合を除き、法務省から特別の発表がなかった。しかし、園の中ではもちろん大きな問題になっており、当時全国ハンセン氏病患者協議会(全患協=現在の全国ハンセン病療養所入所者協議会)では抗議活動が起こっていた。マスコミとハンセン病療養所との関係が非常に遠かったため、情報が伝わるのが遅かったのである。事件当時も当然「患者の犯行」と決めつけるような記事が掲載されており、判決も極めて小さな事実のみ伝える記事である。やがて救援運動が盛んになってくると、1962年8月26日付で「現地調査」の記事も掲載されている。しかし、それはあまりにも遅かったのである。
また、この事件の背景に「戦後の無らい県運動」があることも大きな問題として指摘された。ハンセン病(らい病)は差別されていたが、特に戦時期には国家的に患者をなくす(=患者全員を療養所の隔離する)動きが強まった。「無らい県運動」と呼ばれ、各県が競うようにして患者を「発掘」し、療養所の送り込んだ。送り込む側の多くは患者に対する「人道的措置」と信じ込んでいた者も多かったが、当時としても感染力の弱い病であるのに、国家が強制していくことにより差別が厳しくなっていく結果をもたらしていったのである。これは戦時下の出来事ととらえられがちだが、戦後になっても「隔離の思想」は日本において生き続け、患者を追い立てていた。特に熊本の菊池恵楓園が大拡張され「世界一の規模」を誇る療養所となった。そのきっかけは朝鮮戦争である。戦争による難民としてハンセン病患者が韓国から大量に「密航」してきたらどうしようという、病気と民族の複合差別があったのである。しかし、もちろんそういうことは起こらなかった。大増床したのに空いていては問題なので、熊本では患者の入所への動きが強力に進められたのである。
こうした中で、けっして重症ではなかった(ハンセン病ではなかったのではないかという説もあるし、自然治癒していたのではないかとも言われる)Fさんに入所の勧めがあった。1951年8月1日、役場の衛生課に勤めていた経験がある被害者宅にダイナマイトが投げ込まれて、ケガをした。Fさんが「被害者が(自分が病気だと県に)密告した」と被害者をうらんだ犯行とされ、特別法廷で懲役10年を言い渡された。この「ダイナマイト事件」がまずあり、その控訴中の1952年6月16日、Fさんは脱走した。その捜索中の7月7日に、先の事件の被害者が刺殺されているのが発見されたのである。この殺人もFさんの犯行とされ、ハンセン病のための特別法廷で死刑が言い渡されたわけである。ハンセン病患者のための特別法廷は、1972年までに95件の刑事裁判が行われたという。死刑の事件はもちろんこの事件だけである。この事件の裁判は、弁護士も含めて、「病気への恐れ」のためだろうが、きちんとした証拠調べが行われなかった点が指摘されている。小さな村落での事件で、様々な疑わしい点がいっぱいあるようだ。
僕が前からこの事件に関して思っていることは、そもそも「特別法廷」で裁くということが、憲法違反なのではないかということだ。憲法第76条に「特別裁判所は、これを設置することができない」と定められている。76条の規定は、現行の司法権の外に「軍法裁判所」などを置くことの禁止規定で、ハンセン病特別法廷で裁かれたFさんも、最終的には最高裁判所で死刑が確定している。だからこの裁判も憲法違反ではないというのが、通常の理解だろう。しかし、「らい予防法」はそもそも違憲の法律だとも考えられ、その法律で隔離された療養所内におかれた「特別法廷」は「本来はあってはならないもの」だった。もし隔離しなければならないような病気なんだったら、精神疾患や他の出廷できない病気にかかった場合と同じく、病気が治癒するまで裁判は停止されるべきものなのではないか。また憲法第82条には「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」とある。Fさんの裁判は明らかにこの条項に違反している。
また死刑執行に関する疑問もある。法務大臣の執行命令は1962年9月11日。第3次再審却下決定は13日。つまり再審請求中に執行命令が出ている。(法律に違反するわけではないが、現在は原則的に行われない。)この却下決定がピタリと執行直前になっているのも怪しく、裁判所と法務省が連絡を取り合っていたのではないかとさえ思わずにいられない。再審却下決定は熊本地裁のもので、福岡高裁に即時抗告する余裕を与えずに死刑執行してしまったのも、「みんなハンセン病死刑囚を葬ろうとグルになっていた」という印象を持たざるを得ない。
菊池事件と言うのは、1952年に熊本県で起きた殺人でFさんが逮捕、起訴され、死刑が確定した事件である。Fさんはハンセン病を疑われ、療養所への入園を強要されていた。そのため菊池恵楓園に特設されたハンセン病の特別法廷で裁かれ、裁判は一般に公開されなかった。無実を訴え、再審請求を繰り返したが、第3次再審請求が却下された直後の1962年9月14日、死刑が執行された。今年はその死刑執行から50年という年に当たる。あらたに菊池事件弁護団が組織され、死刑執行後の再審請求ができないかどうか、50年目の年に改めて再検討が行われているところである。
現在、毎月のように「菊池事件連続企画」が行われている。毎月のように熊本まで行くことはちょっと難しいので、これには参加していないけれど。詳しくは画像、およびホームページ参照。その成果として、連続企画実行委員会発行で「菊池事件」というパンフも作られている。(連絡先は、菊池恵楓園入所者自治会。連続企画のホームページに、連絡先が記載されている。


今回の分科会では、国賠訴訟西日本弁護団の国宗直子弁護士がコーディネーターを務め、最初に事件概要を説明した。続いて、当時から入所していてFさんと「最後の面会」をすることになった志村康さん(自治会副会長、国賠訴訟西日本原告団副団長)、西南学院大学の平井佐和子さん、熊本日日新聞記者の本田清悟さんが貴重な体験や知見を披露し、意見を交わしあった。
ちょっとびっくりしたのは、当日配布された事件当時の地元紙、熊本日日新聞の記事。死刑執行の記事が掲載されたのは、処刑後5日目の19日、「Fは処刑されていた」という見出しである。当時は(というかつい最近まで)、死刑執行は原則的には秘密にされていて、特に社会的関心の高い死刑囚の場合を除き、法務省から特別の発表がなかった。しかし、園の中ではもちろん大きな問題になっており、当時全国ハンセン氏病患者協議会(全患協=現在の全国ハンセン病療養所入所者協議会)では抗議活動が起こっていた。マスコミとハンセン病療養所との関係が非常に遠かったため、情報が伝わるのが遅かったのである。事件当時も当然「患者の犯行」と決めつけるような記事が掲載されており、判決も極めて小さな事実のみ伝える記事である。やがて救援運動が盛んになってくると、1962年8月26日付で「現地調査」の記事も掲載されている。しかし、それはあまりにも遅かったのである。
また、この事件の背景に「戦後の無らい県運動」があることも大きな問題として指摘された。ハンセン病(らい病)は差別されていたが、特に戦時期には国家的に患者をなくす(=患者全員を療養所の隔離する)動きが強まった。「無らい県運動」と呼ばれ、各県が競うようにして患者を「発掘」し、療養所の送り込んだ。送り込む側の多くは患者に対する「人道的措置」と信じ込んでいた者も多かったが、当時としても感染力の弱い病であるのに、国家が強制していくことにより差別が厳しくなっていく結果をもたらしていったのである。これは戦時下の出来事ととらえられがちだが、戦後になっても「隔離の思想」は日本において生き続け、患者を追い立てていた。特に熊本の菊池恵楓園が大拡張され「世界一の規模」を誇る療養所となった。そのきっかけは朝鮮戦争である。戦争による難民としてハンセン病患者が韓国から大量に「密航」してきたらどうしようという、病気と民族の複合差別があったのである。しかし、もちろんそういうことは起こらなかった。大増床したのに空いていては問題なので、熊本では患者の入所への動きが強力に進められたのである。
こうした中で、けっして重症ではなかった(ハンセン病ではなかったのではないかという説もあるし、自然治癒していたのではないかとも言われる)Fさんに入所の勧めがあった。1951年8月1日、役場の衛生課に勤めていた経験がある被害者宅にダイナマイトが投げ込まれて、ケガをした。Fさんが「被害者が(自分が病気だと県に)密告した」と被害者をうらんだ犯行とされ、特別法廷で懲役10年を言い渡された。この「ダイナマイト事件」がまずあり、その控訴中の1952年6月16日、Fさんは脱走した。その捜索中の7月7日に、先の事件の被害者が刺殺されているのが発見されたのである。この殺人もFさんの犯行とされ、ハンセン病のための特別法廷で死刑が言い渡されたわけである。ハンセン病患者のための特別法廷は、1972年までに95件の刑事裁判が行われたという。死刑の事件はもちろんこの事件だけである。この事件の裁判は、弁護士も含めて、「病気への恐れ」のためだろうが、きちんとした証拠調べが行われなかった点が指摘されている。小さな村落での事件で、様々な疑わしい点がいっぱいあるようだ。
僕が前からこの事件に関して思っていることは、そもそも「特別法廷」で裁くということが、憲法違反なのではないかということだ。憲法第76条に「特別裁判所は、これを設置することができない」と定められている。76条の規定は、現行の司法権の外に「軍法裁判所」などを置くことの禁止規定で、ハンセン病特別法廷で裁かれたFさんも、最終的には最高裁判所で死刑が確定している。だからこの裁判も憲法違反ではないというのが、通常の理解だろう。しかし、「らい予防法」はそもそも違憲の法律だとも考えられ、その法律で隔離された療養所内におかれた「特別法廷」は「本来はあってはならないもの」だった。もし隔離しなければならないような病気なんだったら、精神疾患や他の出廷できない病気にかかった場合と同じく、病気が治癒するまで裁判は停止されるべきものなのではないか。また憲法第82条には「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」とある。Fさんの裁判は明らかにこの条項に違反している。
また死刑執行に関する疑問もある。法務大臣の執行命令は1962年9月11日。第3次再審却下決定は13日。つまり再審請求中に執行命令が出ている。(法律に違反するわけではないが、現在は原則的に行われない。)この却下決定がピタリと執行直前になっているのも怪しく、裁判所と法務省が連絡を取り合っていたのではないかとさえ思わずにいられない。再審却下決定は熊本地裁のもので、福岡高裁に即時抗告する余裕を与えずに死刑執行してしまったのも、「みんなハンセン病死刑囚を葬ろうとグルになっていた」という印象を持たざるを得ない。