星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

遠き日のシバの想いに…

2024-03-15 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
前回書きました 「幻影の盾」の片山廣子さんによる現代語訳がおさめられた本はもう手元に届きました。 が、なかなか本が読めません…

先週からのはげしい寒暖差のせいなのか せっかくお天気の良い日がつづいているのに、 今週は眩暈におそわれたり 閃輝暗点の発作が起こったり、、 自分のからだがままなりません。。

加えて あちらこちら痛いところも一杯…(泣) 古傷が痛む、とよく言いますけれど、 ほんとうにそういう事なのね… と。 あちこち昔に痛めたところが沢山あるから…


2日の日記に don't waste... という言葉を書いたけれども、 それは 時間を無駄にしないで という意味ではなく、、 自分を摺り減らさないで ということ。 これからは、、 限られた時間のなかで その時間の流れを超えようと頑張るというより、 心も 肉体も、、 これ以上 擦り切れてしまわないように…(でも年々、加速度的に擦り減っていくのです せつないことにね…) 


 ***


フィオナ・マクラオド 著 松村 みね子(片山廣子)・翻訳の『かなしき女王』という本もここのところよく参照しているのですが、 巻末に アイルランド幻想文学・妖精物語の大家でいらっしゃる井村君江先生の詳しい解説があって、 それによって翻訳者としての 松村みね子さんのことをずいぶんと知る事ができました。

「松村みね子翻訳年譜一覧」というものも載っていて、 イェイツの詩「ソロモン王からシバの女王へ(Solomon To Sheba)」を片山さんが翻訳し「三田文学」に発表されていたことも知りました。

それで、 芥川龍之介が書いた「三つのなぜ 二 なぜソロモンはシバの女王とたった一度しか会わなかったか?」 についてと、

片山さんがのちに『燈火節』に載せた 「乾あんず」という随筆のなかで語っているイェイツの詩、 それからソロモンとシバの「恋」の記述について、

それぞれが書かれていった順序もわかりました(青空文庫で読むこともできます)。 いろいろと二人の間柄を詮索する気持で読んだわけではないけれども、 両者のこころの「ずれ」といったものも感じて…

イェイツが詩に込めた想い(当然 モード・ゴンというイェイツが何度も求愛しつづけては拒否された年上の女性への暗示や)、、 片山さんは当初からモード・ゴンについての知識もあったのではと想像されるけれど、

芥川の文章にはただ己の苦しい想いが吐露され、 ここではイェイツが詩に込めた想いとは違った方向に熱情がうごいている。。 それには片山さんとの微妙な相違があるような気がする。 もっと堅実な、 知的な、 純粋に文学的な、 ただし心のなかでのみ通じうる神秘的な交流を、、 片山さんはイェイツの詩に感じていたのでは と想像されるから…

それが晩年に書かれた 「乾あんず」という 少しさみしく、 遠く、 しかし決して消えない香気に満ちた回想へと繋がっている…


Said Solomon to Sheba,
And kissed her Arab eyes,
'There's not a man or woman
Born under the skies…


男もなく 女もなく…




『かなしき女王: ケルト幻想作品集』フィオナ・マクラオド著 松村みね子・訳 沖積舎 2002年
『片山廣子幻想翻訳集 ケルティック・ファンタジー』未谷おと・編 幻戯書房 2020年



 ***


ようやくすこし 体調ももどってきたかしら…



来週には 桜の花もほころびそうですね…




良い週末になりますように

おのおの 違った時間に… 或は違った時空で…:堀辰雄『菜穂子』から、片山廣子『燈火節』へ

2023-04-28 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
さて、、 ふたたび読書の生活に戻ります。。

先々週に 芥川龍之介と堀辰雄のこと、 堀辰雄が芥川との思い出を題材にした小説「聖家族」のこと などを書いた後、 自分が今まで名前だけは記憶に留めていながら何も知らずにきてしまった女性 片山廣子/松村みね子について考えるようになりました。

、、正直 わたし、このお名前の人のこと 同一人物とは思っていませんでした。。 殆んど知識は無かったですが アイルランド文学の翻訳者である松村みね子の本はうちにもあります、、 イェイツの『鷹の井戸』など。。 J.M.シングの戯曲や 『アラン島』なども大好きでしたし。。 でもそれらアイルランド文学の紹介者が芥川と同時代の女性で 芥川が心を寄せた未亡人の女性片山廣子であることなど考えたことも無かったのでした。

それでやっと、 先々週の『聖家族』の後、 堀辰雄の小説『菜穂子・楡の家』を読んでいました。 菜穂子の母親の三村夫人のモデルが片山廣子、 三村夫人と交流のあった作家 森於菟彦のモデルが芥川と言われています。。 半ばそんな現実の人間関係を思い描きつつ、 半ば芥川亡きあとの新時代の小説を味わうという読み方で、 この本を読み終えました。





読後感として、、 芥川や彼が心を寄せたという片山廣子を思い描いてこの本を読もうとすることは意味を為さないと感じました。。 さきほども書いたように私は片山廣子という人のことを何も知らないけれども、 堀さんの小説のなかの三村夫人はべつにアイルランド文学や短歌など文学者の側面はぜんぜん書かれていないし、 それに森於菟彦という大作家についても(小説を読むかぎり)どんな作家か余り書かれておらず、 北京で急死したとあり、 自殺したことにはなっていません。 モデル小説として考えるにはこの点は決定的な違いだと思うのです。 自死に至る苦悩なくして芥川を表現することは出来ないだろうし、 (想像ですが)片山廣子に惹かれたのも彼女が文学に携わっていた事が重要だと思うからです。

だから、 『菜穂子・楡の家』をモデル小説として読むことは私には出来ないと思ったけれども、 でも此処に登場する若い青年 明は 堀辰雄そのものじゃないかと…。 小説家の作品はおしなべて作者そのものであるのは当然なので それは当たり前のこととして、、 もう なんと言ったらよいか つい苦笑してしまうほどこの明青年のロマンチシズム、 悪く言えばロマン的懊悩がそのままに描かれた小説でした。。(ごめんなさいこんな言い方で)

でも、 心理状態と行動の微妙なズレや、 自分で自分のほんとうの心の裡というものがわからず苦悩するという内面の描写はとても(時代的に)新しいものだと思えて、 そういう点では20世紀のヨーロッパ文学を吸収した世代の、 しかも日本的な自然主義文学や私小説とは異なる、 理知的な堀辰雄さんらしい小説でした。

菜穂子は 明とは軽井沢の夏を隣人同士として過ごし、 年少のころには二人でサイクリングなど楽しむ活発で勝気な少女だったのが、 母から逃れるように結婚して離れていった後は 夫と姑との平凡な暮らしのなかで次第に本来の自分を見失っていく。。 その様子が描かれていくのだけど、 どうもそれさえも明から見た(想像・創造した)菜穂子像、 という感じがしてならない。。 明にとってはまず喪失することありき、 恋が叶わない事ありき、 傷つくこと、傷をかかえながら生きることありき、 のロマン派の青年そのものの明のために設定した菜穂子、 のように思えてしまうのでした。

物語は菜穂子が自分自身のために一歩を踏み出そうとする場面で終わっているのだけど、、 作者にはそこから先の人生を創出することが出来ない。。(物語のなかの三村夫人も心筋梗塞で急死してしまうし…) 堀さん自身が病を抱え、その先を生きていくということを想像しにくかったのだろうけれど… 
現実には、、 芥川亡きあとも片山廣子さんもその娘さんも70代後半まで長生きされた…

 ***

先も書いたように、 文学というものを間に置かずには芥川と片山廣子との心の交流を考えることは出来ないと私は感じるので、 結局 堀さんの小説はそのことの参考にはならないのでした。 それで片山廣子さんが晩年になって書かれたという随筆を読んでみたいと思ったのです。。

でも 随筆集『燈火節』は今では入手はほとんど不可能なのでした、、 残念に思っていたところ 青空文庫で読めると知り、、 つい昨日くらいから数編を読んでいるのです。

どこから読んだら良いのか、と思い… 筆を折っていた片山さんが晩年にどんな想いで随筆を書こうとしたのか、、 そう思って先ず「あとがき」から読むことにしました。 この随筆集の出版は1953年。 片山さんが75歳のこと。 、、芥川の死は1927年、 片山さんは49歳。。

 「燈火節」あとがき (青空文庫)>>

、、 ほんと、、 このようにして読めることを感謝します。 できたら再出版して本として読みたい。。 アイルランド文学の翻訳者、 貴重なイェイツやシング、 フィオナ・マクラウド(ウィリアム・シャープ)の紹介者としての、文学と人生に対する回顧録もこのエッセイに書かれているようですから。。

その「あとがき」の末尾に こんなくだりが…。 思わず胸をつかれました…

  ・・・この世界に生きてゐない彼が・・・

と。。 《彼》とは誰を示すのか、、 終戦の年 終戦を待たず急死された息子さんのことをそれまで念頭におきながら ここでは 《せがれ》と書かずにいる… あるいは 片山さんの《夢》とは… 。
なんだかこんな風に短く切り取ってくるのが著者に対して失礼で気がひけますので、ぜひぜひ「あとがき」を冒頭からお読みになって下さい、、 


他には ここで片山さんが最初に書いたエッセイだという「過去となつたアイルランド文学」や 「アラン島」なども読みました。 それから、、 「菊池さんのおもひで」や「花屋の窓」も、、

これらのどの文章のなかにも 強く胸を射す箇所がありました、、 「文学夫人でなくなつて普通の家の主婦になつた」と書く片山さんの心の一端が わたしには堀さんの書かれた『菜穂子』の文章よりも強く、深く、、 伝わってくるように思えました。

「花屋の窓」というエッセイでは芥川龍之介の作品にも触れ、、 

  ・・・静かなおちつきの世界を芥川さんも私もおのおの違つた時間に覗いて見たのであつたらう・・

と。。 これも短いこの部分だけを切り取ってくるのは良くないことだと思うので、 ぜひこれも全文を読んでみて欲しいです。。 


人生の晩年になって、、 このように書くということ… 、、どれほどの深い想いをかかえつつ 生きて来られたのだろうと、 心が抉られるように感じました。 日々、 普通の家の 普通の生活を繰り返しながら…

でも、 人生の終わりに近づいてなお、 このように書くことが出来るという事。。 その確信…。 そこには 文学という言語、、 いえ 言語というもの以上の 通じ合う者のあいだだけに理解可能な共通の世界観、、 それを共に感じとっていたという確信が片山さんにはあるからなのでしょう…

あ、 長くなってしまいました… このくらいに。。



わたしも… 片山さんのように静かに暮らしつつ、、 ひとすじの確信を持ったまま生き抜いていくことが そんなことができるかしら…



片山廣子さんの随筆、 知る事ができてよかったです。



 ***

明日からGWです。 カレンダー通りの普通の生活です(笑

ほんのすこしだけ… 朝の珈琲がゆっくり淹れられるかな…



どうぞ愉しい日々を。


お健やかにお過ごしくださいね…



 

心を揺らすもの、、

2022-08-18 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
お盆が過ぎて、 夕暮れの風がすこしだけ涼しくなりましたね。

お盆休みの間、、 わたしはまた病院とお役所に出向いていました(笑)、、 いつまでかかるの? とお友だちにも呆れられていますが、 一番呆れているのは私デス。。 もうそろそろ終わりに… したいよ~

 ***

ゆっくり小説でも読みたい夏休みなのですが、 落ち着いていられないのと これ以上 眉間に皴が増えないように、 笑顔になれる本を読んでいました。


『ダーク・ジェントリー全体論的探偵事務所』

以前 『さようなら、いままで魚をありがとう』のところで書きました、《銀河ヒッチハイクガイドシリーズ》の著者、ダグラス・アダムスさんが書いたとっても楽しい探偵小説(?)です。 探偵小説? なのかな…笑 、、探偵事務所は出てきます。

読書記はまたにして… 

出版が87年なので、 そのころに世間をにぎわせ始めたマッキントッシュや、 PC黎明期のソフトウェアの数々や、 自然界のフラクタル理論とか、 当時を思い出して懐かしかったです。 

今でこそ もう私には最新デジタル機器にはついていけなくなってますけど、 パソコンとか ゲーム機とか、 その進化の過程を最初からずっと見て来れたのは面白い経験だったなと思います。 3D画像を動かす、というだけで ものすごくワクワクしていましたものね。

音楽の世界でも、 子供の頃にはレコード、 そしてカセット、 CD、 配信へと、 成長と共にずーっと一緒に体験して来れた世代はいっぱいいろいろな発見をしてこれたと思うし、、 良さも、不便さも。。

この本は、 そういう《時》の流れもひとつのテーマになってます。 (数十年どころか それこそ地球生命の誕生の歴史にまでさかのぼる? かのような…笑) 基本、コメディなんですけどね。。

でも 『さようなら、いままで魚をありがとう』の物語もそうだったけれど、 どこかピュアでロマンチックな部分がちゃんとあって、、

こんな素敵な一文が、、

 人が感情を揺さぶられるもの――花やギリシアの壺の形状、幼子の成長、顔をなぶって吹く風、雲の動きとその形、水面に躍る光、そよ風に揺れる水仙、愛する人の頭の動き、それに連れて動く髪、音楽の最後の和音が消えていく、その減衰によって記述される曲線—― 


、、終わりのところ… 音楽の最後の和音が消えていく、、 という部分。 
音が鳴り響くときの美しさでなく 音が消えていくところに感情をゆさぶられる、 と書いてくれたことがとても嬉しかったです。 今年の初めあたりから何度か、 《音の着地点》ということを此処に書いてきて、 自分でも楽器の音色が空気を震わせて、、 静かに消えていく、、 そして 音が消えたあとに耳に(胸に)その音の名残りというか 余韻が ふわっ響いてそれから消える、、 そういう空気と心の動きのなかでしかとらえられない音の最後の《音》、、

《音の着地点》と書いてきましたけど、 この引用にあるように 点ではなくて 《曲線》と言った方がいいかもしれないですね。。 


この物語の主人公はコンピューターソフトウェアのプログラマーの青年。 いつも頭のなかでは 自然界のあらゆる現象を数字や記号に変換している人。。 でも、 彼の恋人はチェロを弾く女性なんです。  そこがポイントなんだと思う。。 

チェロを弾く人の手の動きや腕の角度なども とっても美しいと思うし、、 チェロという楽器の形状や、 表面の木材の長い年月を経た感じ、、 もちろん木を使った楽器はなんでもそうなんですけど とりわけチェロとか コントラバスなどの大きな木の楽器はその木部の美しさにじっと見入ってしまいます。。 とっても古い木なんだろうな、、と。 樹木の歴史、 言い換えれば地球環境の歴史そのものが空気をふるわせて鳴っている、 というようなそんな気さえします。 

地球の歴史のなかで生まれてきた樹木と、 地球という環境がだいじに保っているこの空気、、 そのなかでしか《音楽》は響かないんですものね。。 

このユニークな探偵小説は《音楽》もテーマのひとつです。 音楽、 そして美、 地球、 歴史、 時間、、 

そして何より素敵だったのは、、 なんと この物語を導いているのは、 イギリスのロマン派詩人 サミュエル・テイラー・コールリッジ!! このことは読み始めるまで知りませんでした。 漱石先生や英文学、そしてロマン派文学をやるには欠かせない人 コールリッジ。 その詩が下敷きになっているんなんて驚きでした。 (コールリッジを知らなくても楽しく読めると思います)


そのお話はまた… 


秋になったら 心ときめく読書、 ゆっくりしたいな~~ ☆……

美しい魂の魔法:「おしゃべりな家の精」アレクサンドル・グリーン

2022-03-08 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
ウクライナへの軍事侵攻が始まって13日目…

自分が怒り悲しんでも誰の役にも立たないとわかっていながら、 心が荒れ狂うのを止められない。。 入ってくる情報の重さにぐったりして、 もう忘れて過ごそう… いつもどおりの日常を… と思うのだけれど、 攻撃にさらされている人たちには ほっとできる日常など何処にも無いんだ… という思いが頭によぎって 結局おちつかない。。

そんなわたしの様子を、 低空飛行の天使か 見かねた妖精かが そっと手助けしてくれたみたいです・・・



『短篇コレクション 2』(池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)河出書房新社 2010年

この本、、 もともとは A.S.バイアット著の作品がこの短篇集に収載されていると知って、 ほかにも タブッキや カズオ・イシグロなどの短篇も読めるし、、 それで手に取ったのでした。 が、そのかたたちの作品ではなく、、

巻頭に載っていた アレクサンドル・グリーンの「おしゃべりな家の精」(岩本和久・訳)という小品のこと。

 ***

旅人、、(だと思う…)が 雨宿りに空き家をみつけて中に入ると、 そこに家の精がいて かれは虫歯が痛くて苦しんでいた。 痛がりながら「聞いておくれよ」と旅人に話し始める この家にかつて住んでいた若い夫婦のはなし…

ほんの7頁ほどの小品なので、 ストーリーを説明するわけにもいきません。。 この家の夫婦と、 それから夫の親友。 家の精が語るのは ある日の、 たった一日の出来事…

それは 愛の奇跡なのか 愛の悲劇なのか、、 

話し終えた家の精は、

 「…歯は痛いし、さっぱり理解できないし……」  

と、旅人に言う。。 どうやら この家の精には そのことが理解できなくて、 それをずっとずっと考えて、 もう誰も住まなくなったこの家にずっと居残りつづけているらしいのです…

家の精が語った物語、、 わかる、と言う人と 家の精と同様に さっぱり理解できないと言う人がいるかもしれません。 何がおこったのか、 いろいろな解釈ができるお話になっていて、、 わたし自身、  この物語の愛の魔法が わかるような気もするし、、 夫、 その妻、 夫の親友、、 それぞれが辿ったその後の人生について思いめぐらせてみて、 幸せなのか、 悲劇なのか、 運命なのか、 それとも理性の結果なのか、、 


 「驚くなよ、これこそが魔法なんだ。つまり美しい魂がもつ大いなる知識というものさ…」
と、 家の精が旅人に話し聞かせる場面もありますが、、 家の精はほんとうに《魔法》を見抜くことができたのかな…… 人間と人間のあいだにうまれる愛の魔法を……


いろいろ考えながら3回くらい読み返しました。。  それだけ魅了されるお話だったんです。

 ***

でも、、 魔法はこの物語の内容だけではありませんでした、、(いまの私には)

作者のアレクサンドル・グリーンという人を私は知らず、、 名前とこの家の精の話からは どこの国の作家かもよくわからない感じですが、 ロシア(旧ソ連)の作家だと知ってさらに驚きました。

父はポーランド人、 母はスウェーデン系ロシア人で、、 アレクサンドル・グリーン(1880年 – 1932年)は晩年をクリミア半島で暮らし、 黒海に面した美しい街フェオドシヤにはグリーン博物館もある、とのこと。。(いま毎日のように耳にしているクリミア…)
 
短篇作品を発表したのは おもにペトログラード(サンクトペテルブルク)の新聞のようだから ロシアの作家と呼んで良いのでしょうけど、、 彼が若い時に愛読したのは、 スウィフトやホフマン、 アラン・ポーなどの幻想小説、 それからスティーヴンソンの海洋冒険小説や、 H.G.ウェルズのSF小説なども、、 それで本名のグリネフスキーという名ではなく、 欧米人のようなペンネームでファンタジックな作品を多数のこしたそうです。

なんだか、、 今、このときに、 クリミア半島で暮らしたこんなファンタジックな作品を書くロシアの作家にめぐり逢ったことが、 なんだか魔法のような気がしました。 毎日、 悲しい、 日に日に残酷さが増していくニュースを目にしていて 心が重くぎすぎすしている時に、 ロシアにもこんな夢みる世界を描いた作家さんがいたんだ、と気づけただけで 心がすこし軽くなったのです。。 もちろんロシア文学には好きな作品がたくさんあるし、 いまの軍事侵攻と文学はなんの関係もないことは判っているけれど、、 
.
もっとアレクサンドル・グリーンの作品が読んでみたくなって、 いま いろいろ集めているところです。 (すでにいくつかは読みました。 とても好きになりそうな気がしています、、 そうよね、 アラン・ポーやスティーブンソンを好きな作家さんですもの)

、、 そうしてグリーン作品を検索しているときに、 ロシア大使館のこんなツイートも見つけました、、 https://twitter.com/RusEmbassyJ/status/1429784445469425672

ほんの7カ月前には愛と夢と冒険の物語を紹介していたのに…


世界はすっかり変わってしまいました。。 でも ひとびとの心のなかの 愛や夢までは変えられないはず… なによりグリーンの作品がそういう作品だと思うから。。


これから少しずつ作品を読んでいきます。



私にアレクサンドル・グリーンをおしえてくれた家の精さん、 ありがとう…


プロムナード・デ・ザングレが結ぶ…:パトリック・モディアノからオールコットへ

2022-01-21 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
昨12月に パトリック・モディアノさんの著書を 別々のかたの翻訳でいくつかまとめて読んでみようか… と書いてその後…

この新年にかけて さらに2冊、 読みました。


『八月の日曜日』 堀江敏幸・訳 水声社 2003年
『暗いブティック通り』 平岡篤頼・訳 白水社 2005年



パトリック・モディアノさんの追憶の物語、、 記憶をたどる物語、、 それはどの作品にも共通するもので、 それぞれの作品について感想を細かく書く必要は無いように思います。
私たちは読むあいだ 失われた過去の時間へ共にさかのぼりながら、 彼らにいったい何が起きたのか、 彼らと彼らをめぐる人々はいったい何者か、 彼は(彼女は)どこへ消えたのか、、 甘美な眩暈を覚えつつページをめくり、 同じ胸の痛みを味わい、、 そうして 読み終えた時には 長い夢から目覚めたばかりのように放心して、、 結局 謎は謎のまま 私たちは置き去りにされたことに気づくのです。。 狡い作家さんですね… 笑

語り手はつねに追跡者であると同時に 記憶のなかの彼らは つねに逃亡者でもある。。 何から…? 誰から…?

『八月の日曜日』の主人公ジャンは恋人のシルヴィアを連れて逃げてきた。 ふたりで暮らせる 安らぎの地を求めて。。 彼女が胸にさげている「南十字星」という名の大きなダイアモンドとともに。

彼らが誰で、 何故、 どこから、 どうして、、 何処へ、、 なにもわからないまま読み進めるのだけれど、 彼女が肌身離さない「南十字星」の名を持つダイアモンドというだけで どこか不穏な匂いがする。。 
物語の舞台は南仏ニースの海岸。 地中海の陽光にあふれ、 街はエトランジェで賑わい、 つねに非日常の喧騒に包まれている、、 にもかかわらず、 思い出のなかの彼らはまるでフィルム・ノワールの世界にいるみたいな影につつまれている。。 眩し過ぎる海をフィルムに撮った時みたいなモノクロームの世界に。。

甘美でミステリアスな 美しい物語でした。 「南十字星」と、 物語の舞台についての 訳者・堀江敏幸さんの解説がたいへん参考になりました。

 ***

『八月の日曜日』のなかで 何度となく登場するのが、 ニースの海岸をめぐる「プロムナード・デ・ザングレ」という通り。 英国人の散歩道、 という意味なのだそうです。 

青い地中海をのぞむ 椰子の並木、、 通りを行く者はみなエトランジェ。 雑踏のなかにまぎれていこうとする逃亡者、、 雑踏のなかに目を凝らす追跡者、、

そのような、、 運命の交錯する場所でもある 「プロムナード・デ・ザングレ」の描写を読みながら、、 記憶のどこかが何かを呼び覚ましていました、、 そういえば…

、、 このブログにも何度か ルイザ・メイ・オルコットがヨーロッパ旅行をしたことについて触れましたが、、 オルコットもこの《イギリス人の散歩道》についてなにか書いていなかった…?


 ニースは気候がよくて海が美しくてとても快適。 …(略)…
 わたしは毎日湾岸沿いの広くて曲がりくねったプロムナードを馬車で楽しくドライブした。片側にはホテルやペンショ.ンが建ち並び、反対側には花の咲きみだれる遊歩道があって、派手な馬車や人の姿がいつも見られる。興味をそそられるすてきな品物のあふれる店、絵のような城、丘に聳え立つ塔や城壁、三日月形の湾の先端の灯台、海に浮かぶ小舟やわが国の艦隊、庭園、オリーブやオレンジの木々、この国では珍しくないけれど、ちょっと変わったサボテンやヤシ、修道士、司祭、兵士、農民など。

         (『ルイザ・メイ・オールコットの日記』 1865年11月の日記より)


パトリック・モディアノの物語より120年前の「プロムナード・デ・ザングレ」の風景。

そして、 ルイザもまた、 このニースを舞台に 逃亡者と追跡者の物語を書いていたのでした。
オールコットはこのヨーロッパの旅から帰国後、 家計を助けるために物語をせっせと書いては新聞社や出版社へ送ります。 そのなかには『若草物語』のような少女小説とは似ても似つかない、 (でも本当はルイザ自身はとっても書きたかった) スリルとサスペンスの冒険ロマンス小説もありました。

邦訳では 『愛の果ての物語』という題がついていますが、 原題は A Long Fatal Love Chase 
恋愛小説でありながら 今で言うならモラハラ夫から逃れて逃走と追跡のピカレスクロマン。。 捕まっては閉じこめられ、 また逃亡して、 舞台も英国、 フランス、 船でさかのぼってドイツまで、、 (だったかな?) 読んだのがかなり昔だったので忘れてしまいましたが、 今 オルコットの日記のニースの部分を抜き出して気づきました。 まさにこのプロムナードを馬車で疾走して追手(夫)から逃れるという場面もあったっけ…(記憶違いでなければ…)

「聳え立つ塔」も「城壁」も、 「修道士」も「司祭」も、、 そういえば重要な役どころで登場していました。。 ルイザがヨーロッパの旅で見たもの、体験したこと、、 それをいっぱいに盛り込んで、 思い切り楽しんで書いたのでしょうね、、 でもこの作品は《刺激が強すぎる》としてお蔵入りになってしまい、 図書館に埋蔵された原稿をもとに出版されたのは 1995年になってからでした。。


パトリック・モディアノさんの記憶の物語から ルイザ・メイ・オールコットの Love Chase の物語へ、、 連想が飛躍してしまいましたが、、 ヨーロッパの古今の風景を思い浮かべながら 『愛の果ての物語』をまたいつか読み返してみたいと思います。


モディアノ作品の読書はこれでひとまず区切り。。 せつない記憶に翻弄されるのはそろそろにして… (笑) …

いまは カミュを読んでいます。


 ***


このところ、、 夜明けの空に 美しい明星の輝きが…



昨日の朝6時ごろの風景


大寒も過ぎ、 夜明けが少しずつ早くなっていきます。 



春も少しずつ近づいてくるのですね。



よい週末を。

月のミルク… :イタロ・カルヴィーノ「月の距離」

2021-09-21 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
中秋の名月、、 東京は夕方から曇ってきて いま外を眺めてもお月さま見えません。。

代わりにおとといの月を。 昇ったばかりの柔らかい感じのする十三・五夜くらいの月。





 ***



『レ・コスミコミケ』 イタロ・カルヴィーノ著. 米川良夫・訳


今は ハヤカワepi文庫で出ているそうです。 これは70年代の古い本。

このなかに 「月の距離」という短編があって、 昔、 月と地球はもっとずっと距離が近くて、 満月の夜には海も膨張して海面があがるので 舟からはしごをつたって月にのぼれるくらいだったんですって。。

それで満月になると月にのぼって 月のでこぼこした表面の岩かげにへばりついている「月のミルク」を集めてくる漁師たちがいたんですって。

月のミルク、、、 その採り方の描写を読むと、 ちょっと磯の岩ノリなんかを集めてくるみたいな感じで不思議だけどクスっと笑ってしまう感じもあって、、


だけど これは恋の物語です。。


月と 女と 猟師の

三角関係・・・ いえ、、 もうちょっと複雑かも知れない


そんな  むつかしい愛のお話です。




   ***


なんて 言っていたら…


きれいなお月さま  昇ってきました。







どうぞ  素敵な夜を…


A+B>∞ かも…:ジュリアン・バーンズ著『人生の段階』

2020-10-07 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)

『人生の段階』ジュリアン・バーンズ 土屋政雄・訳 新潮クレストブックス 2017年



ジュリアン・バーンズが66歳で書いたこの本は 次のように始まります

  組み合わせたことのないものを二つ、組み合わせてみる。それで世界が変わる。…

このフレーズですぐに思い出すのが シュルレアリスムの定義のように取り上げられるロートレアモンの詩集『マルドロールの歌』の中の名文句、、

  解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい

、、ジュリアン・バーンズさんは別に『マルドロールの歌』に触れているわけではないので この詩句のことが念頭にあったかどうかはわかりませんけれど、 《組み合わせたことのないものを》《組み合わせてみる》… それが詩であり 芸術であり 創作となって そうして生まれた《世界》が作品として私たちにもたらされる。。 創造の可能性ってそういうもの。。 本を読む歓びも其処にあるのだと常々思っています…

《組み合わせたことのないもの》同士の結びつき、の 最も身近な例で、 しかも時間的には極めて長いものになり、 状態的には常に変化して一瞬も同じ形ではないながらも続いていく、 そんな究極の《組み合わせ》が《結婚》というものなのでしょう。。

この本には、 ジュリアン・バーンズさんの《結婚》というパーソナルな事例が書かれています。 第三部から…

  …三十二歳で出会い、三十年間一緒にいて、六十二歳で亡くした…

たったひと言で言えばこのひと言になる、奥さんとの結婚、そして死別、、 というきわめて私的な思い出、悲しみ、、 それを 作家ならではの《組み合わせたことのないもの同士を組み合わせる手法》で書いた本。 パーソナルな愛と悲しみが、 誰もが大空に浮かび上がる熱気球を見るように一緒に胸をときめかせ、目を見張る感動として伝わってくる、、 ジュリアン・バーンズさん さすがに凄い作家、、 『101/2章で書かれた世界の歴史』を書いた作家さんだものな、、と感動しました。。

その《組み合わせたことのないもの同士を組み合わせる手法》 というのが 三部構成になっているこの本の構成で、、

 第一部「高さの罪」は 気球乗りにまつわる歴史上のエピソード
 第二部「地表で」は  第一部に出てきた歴史上の二人が恋におちる、という架空の物語

そうして 第三部「深さの喪失」でようやく、 ジュリアン・バーンズさんの奥さまの話が語られ始める。。 でも、 でも、、 読んでいくと、 この方法でしか書き得なかった本、 この手法でしか伝えられない感情、 だというのがわかる。。 それはこういうこと、とは説明できない… でも、 何度も泣き笑いしつつ 胸いっぱいになりました。。
、、 とても愛していたんだなとも思うし、、 奥さまを亡くした後のどうしようもなさに、 困ったちゃんだなぁ、、と苦笑してしまう。。 でもその怒り、 その悲しみ、、 ぶつけるのも仕方ないよ、と思える…

さきほど引用しましたが、、 《三十年間一緒にいて、六十二歳で亡くした…》 、、それは短すぎるもの。。 
愛する時間や人生の時間は《長さ》では決められない、と言う。。 でも、 積み重ねてゆく時間というのは、 誰にもそしる権利は無いし その積み重ねの中に他者が入る余地は無い。。 誰にもわからないし 二人にしか築けなかった世界がその時間のなかにある。。 だから結婚というものが 《組み合わせたことのないものを二つ、組み合わせてみる。それで世界が変わる》という究極で最高の事例になる…

見知らぬ人と人とが出会い、 ともに生きることが 無限大の世界へ舞い上がる可能性につながる…


よい本でした。 素敵な読書でした。



だからこそ、、



この本、  ほんとうにたいせつな人には勧められない。。 今は…



わたしが死んだら読んでみて


としか、、  今は言えません…


 ***


昨日、 インフルエンザの予防接種をしてきました。 心疾患の優先枠で受けられると先生に言われて…。


オフィス街にあるクリニックまでの道、、 ようやく背筋を伸ばしてしゃんと歩けるようになったみたい。。 今年の春、 三月~四月と安静の生活で筋力がすっかり衰えてしまって、 腹部の術後もへっぴり腰でしか歩けなくて、、 ほんの少しずつ お家の中でできるトレーニングをちょっとずつちょこっとずつ続けて、、
やっと5カ月近くかかって まともに歩けるようになってきたみたい。。

何度も 何度も、 年を重ねるごとに身体が元に戻るのは大変になっていくけれど


まだなんとか頑張ってる

 

 ***

、、 わたしたちの 70~80年代を彩ってくれた二人の訃報がありました。。  KENZOさん、 お花をありがとう。。 エディ、 笑顔をありがとう。。 みんなが君を真似したよ…

裏返しの世界… :レオニード・アンドレーエフ『悪魔の日記』

2020-07-23 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
4連休のはじまりです。。
読書記はまたあらためて書くつもり、、 なので 今日はほんの少しだけ、、


前回の終わりに書きました レオニード・アンドレーエフの 『悪魔の日記』




1972年に白水社から出ている本で、 古書も少なくてなかなか読むことが出来ないのですけれど、、 

読んでいて だんだんに気づいていったんですが、、 この作品は ゲーテの『ファウスト』の 《裏返し》になっているんですね…

『ファウスト』、、 25年前くらいに少しかじっただけで、 しっかり読んだ事がありませんでした。。 それでまた引っ張り出してみています。



悪魔メフィストフェレスと契約を結んで、 この人間世界のあらゆる楽しみを味わってみようとするのが『ファウスト』でしたが、、 『悪魔の日記』は 人間の姿を借りてこの人間世界の中で面白そうな芝居を一緒に繰り広げてみたい、、と 悪魔が人間界の一員となってさまざまな体験をする、、 という 『ファウスト』を裏返しにしたような物語。。

…だと 気づいたのですが、 本の解説にも何も書いてないし、 そういうコメントとか検索してもどこにも『ファウスト』との繋がりの事が書いてないので、、 合っているのかどうか分かりません。。

人間に混じって暮らし始めた《悪魔》、、 自分以上に悪に通じた存在は無いと思っているし、 人間たちの間で自由に立ち回れると思って来てみたものの、 欲にまみれ 神をも畏れない人間たちにうんざりし、 だんだん鬱になっていく なんだか人間以上に人間ぽい《悪魔》…

しかも、 悪魔が一目惚れをしてしまい、、 その恋心のピュアな事…!!  初めて恋という気持ちに目覚め、 そのひとを想っただけで世界に光が、 星が、 歌が、、 溢れ出るのを感じてしまう、、 恋を知った《悪魔》さんが 詩人になってしまう……


絶版なので ほんの少しだけ 引用させてもらいます⤵




この《悪魔》のピュアなつぶやきを読んで、、  人はなぜ「音楽」を愛し、 歌をうたい、 もの思いにひたるのか、、 私も考えさせられました。。 

人間だけが 歌い、 奏で、、 

そして、 音が 楽が 消え去ったあとまでも、  想い出すことが出来る。。  余韻というものを、 聴くことが出来る。。  人間だけが…


でも、 この物語では 悪魔だけが物思いにひたり、 苦しく恋心に揺れているのです。。

人間たちは 世俗の欲にまみれ 金銭や名声や眼前の物事しか見えない…  《裏返しの世界》


そして 可哀想な悪魔は 人間界でさんざんな目に遭うのです。。

 ***


『悪魔の日記』は もう先週以前に読み終えているので いつかちゃんと読書記を書きたいと思います。。 いまはまた 面白いミステリ小説にひたっています。


四連休のはじまり。。


世界は気懸りなことがいっぱい。。 考えると苦しいことがいっぱい。。


何が正しくて、 何がいちばん大事なことなのか、、  わからないことがいっぱいで。。



明るい日々が待っててくれますように…


元気でいてください

宇宙に電話したい人に…:『さようなら、いままで魚をありがとう』 ダグラス・アダムス著

2020-07-08 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
昨日は七夕でした。

夕方 空を眺めたけれど、 お星さまは望めそうになかったので 心の中でそっと宇宙に電話してみました…

この本に依れば、 何百光年も離れた宇宙でも 地球と電話つうじるみたいですし…⤵


『さようなら、いままで魚をありがとう』 ダグラス・アダムス著 安原和見・訳 河出文庫 2006年
(原著は So Long, and Thanks for all the Fish  1984)

 ***

この本のことは前回少し書きましたが、 この『さようなら~~』は、 『銀河ヒッチハイクガイド』という大人気SFコメディ三部作の、続きになっている第4作目だということで、 本当なら第一作の『銀河ヒッチハイク・ガイド』(The HitchHiker's Guide to the Galaxy 1979)から読んだほうがよいのでしょうけれど、 今回はこの『さようなら~』だけを読むことにしてしまって、、 (その理由も前回書きましたね)

この本のタイトル 『さようなら、いままで魚をありがとう』So Long, and Thanks for all the Fish は、 a perfect circle というバンドが2018年に出した曲のタイトルにもなっていて、 イルカがひたすら泳いでいくMVを見て、 そして歌の中に デヴィッド・ボウイが創り出したキャラクターで有名な《トム少佐》Major Tom という言葉が出てくるのを聴いて、(ボウイは2016年に亡くなっているので) ボウイへの追悼の意味も込めてこの曲を創ったとしたら、 この歌のタイトルってどんな意味なのかな…、、と 調べようとしたのがきっかけなのです。。 その頃はこの歌のWikiもまだ書かれていなかったので、 ダグラス・アダムス著の 『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズのことだったんだ、、と分かるまでには 少し時間がかかりました。。

(ゴメンなさい、 これ読書記になってませんね、、 (^^;

 ***

『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズの 第4作目の 『さようなら、いままで魚をありがとう』 、、読んでいる間、 ずっと幸せな気分でたくさん笑いました。 (と言ってもほんの二日半くらいで読んでしまいましたが…)

英語のSFコメディを翻訳するのって きっととても難しいと思うのですが、 訳者さんの言葉づかいがキュートで 愛に溢れてて、 主役の青年 アーサー・デントの気弱そうな、 でも打たれ強いというのか動じないというか、、 読み始めてすぐにキャラクターも大好きになったし、、 (キャラに感情移入できるかどうかというは読むのにとっても重要ですよね) それもこれも著者の愛情や訳者さんの素晴らしさゆえ、だと思います。

銀河をめぐるヒッチハイクの旅から地球へ戻って来たアーサー・デント君の、 この第4作は《愛》の物語。。 ひたすら《愛》の物語・・・笑 
、、だから その前の三部作の『銀河ヒッチハイク・ガイド』シリーズで 宇宙をめぐっていた物語とはおもむきはちょっと違うのでしょう、、 でも 今 世界中が新型ウイルスの脅威にさらされていて、 3月以来 すっかり日常が変化させられてしまって、、 会いたい人にも簡単には会えない暮らしになってしまっている、、 そんな時間を過ごして この本を読めて本当に良かったし、 嬉しかったです。。 
『銀河ヒッチハイク・ガイド』にも 地球の危機はおおきく関係しているのですものね、、

なんだか 日頃の感情が抑え込まれ続けていたせいか、 ちょっとした幸せオーラの漂う場面でも涙腺がこわれ気味になってしまって、、 読んでいてきゅんきゅんしっぱなし、でした。

 ***

それで、、 (すみません ここからは音楽ネタに…)

最初ナゾだった 歌の中に出てくる《トム少佐》のことも、 《イルカ》がひたすら泳いでいるのも、 『さようなら、いままで魚をありがとう』というタイトルの意味も、、 読んでいていろいろわかりました。。 (書きませんので詳しくは興味があればウィキなどで)

  「デヴィッド・ボウイをふたり用意して、 いっぽうのデヴィッド・ボウイを……」
            (212ページ)


著者のダグラス・アダムスさんは 音楽がすごくお好きだそうなので、 『さようなら~』の中にもいっぱい音楽ネタが出てきて 60年代以降のUKロックが懐かしい世代には楽しい部分がいっぱいでした。 、、あ これはピンクフロイド…? とか思った部分も、 たぶん著者さんはフロイド大好きだそうですし、、 ケンブリッジ出身ですものね。。

それで、 すご~~っく ロマンティックな場面で登場する ダイアーストレイツの曲、(およびマーク・ノップラーさんのギターに対する著者さんのご意見はまったく同感です、私も…) 、、その曲名が書かれていなくて、 アルバム『Dire Straits』のなかの曲のことかな… 何だろう… 、、って思っていたのも ウィキに書いてありました。

さっき上に引用した 「デヴィッド・ボウイをふたり用意して…」の部分、、
、、 ボウイは言うまでもなく変幻自在の人なので、 どの時代のボウイを想像するのが良いんだろう… と思って、、 書かれたのが84年だから そのちょっと前くらい? 『レッツ・ダンス』期? いえ、 《トム少佐》が再登場する 『スケアリー・モンスターズ(Scary Monsters....and Super Creeps』80年 を想像すれば良いのですね きっと、、 ベルリン期を経て、 再びアメリカへ行ったボウイ、、 

《トム少佐》はただのジャンキー… と歌った 「Ashes to Ashes」の入っている 『スケアリー・モンスターズ』を聴きながら読むのが良いのかもしれません、、 そして 「キングダム・カム」Kingdom Come が流れてくるのを聴いて(この言葉の意味も…)、、 とか、、 (あぁ そうか、、 それでここでボウイが登場するのかな)とか、、 気づきました。

昨日は七夕。。 お空を想いながら、 そして 大好きな人のことを想いながら、 この本を読めたこと、、 とても良かったです。 (前々回の日記の 夕陽の街にもちょっと繋がっていて、 ほんと今この本に呼ばれていたんだなぁ、、って思いました)

 ***

すごくすごく楽しくて 愛に溢れた物語なんだけれど、、 いまのこの世界の大変さ、、 この惑星《地球》の状況、、 いつも頭のなかにはそのことが離れないから、、 楽しくて笑いながら 泣きそうになってしまって、、


この第4作目の終わりに出てくる 《世界の創造主》についての部分、、 


そこを読んだ時も、  笑っちゃうんだけど、、 やっぱり泣きそうになってしまった。。


、、 そして 終わりはあまりにあっけなくて、、


このあとの 第5作目も (そしてこれまでの『銀河ヒッチハイク・ガイド』3部作も)、、 いつかまたいっぱい笑いたくなったら 読むことにします。 (すぐに読んでもいいのだけど、また泣きそうになっちゃうからね、、甘えちゃうから… 別のいろいろ控えてる本に挑むことにします)


ダグラス・アダムスさん、、 素敵な物語を ありがとう。。


それから 大好きなAPCのビリー・ハワーデルさん、、 素敵な曲と素敵な物語との出会いを ありがとう。。



この惑星の...

2020-07-04 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)

7月になりました

外出自粛も解除になっていろんなお店やイベントも動き始めて、ひとびとが街をそぞろ歩く笑顔が戻ってきたのもつかの間、、

わたしたちの次の行動を まるで試すかのようにウイルスがまた触手を拡げはじめて、、

つらいですね。。


お天気も心配な地方がいっぱいです💧


***


そのせいか 少し体調も不安定なので フォトだけを、、。



イタリアはヴェネチアを舞台にしたミステリー三部作『カルニヴィア』 は読み終えて、


今は SFコメディ 『さようなら、いままで魚をありがとう』 ダグラス・アダムス著 を読み始めています。
ずっと読みたかったの、これ。




この本は、ほんとは『銀河ヒッチハイクガイド』という大人気SFコメディ三部作の、続きになっている第4作目なのだそうですが、 私は三部作読まずにこの『さようなら~~』だけを読んでいるのです。
、、 この作品だけでもストーリーは楽しめるらしいので。。 (ヒッチハイクガイドファンの方には叱られそう、、ゴメンなさい)


あのね、この『さようなら、いままで魚をありがとう』というタイトルは、 a perfect circle の曲のタイトルにもなっていて、 イルカがひたすら泳いでいくMVを最初見たとき、 このタイトルってどういう意味だろう、って思って

SO LONG, AND THANKS FOR ALL THE FISH って。。


それで今やっと 読んでいます。 『カルニヴィア』三部作の、世界を巻き込む陰謀やサイバーテロの物語でとっても疲れた頭を やさしく和ませてくれるキュートな文章です。 訳者さんがすばらしいのね。

この『さようなら、いままで魚をありがとう』はラブストーリーだそうですし、、。


今わたしたちの暮らす、 傷つき 苦しんでるこの惑星の上で、 それでも今日を笑顔でいられるかな...?

って思えるような


まだ読みはじめだけれど、 そんな気がする物語。

例えば愛という絶対空間:『スミラの雪の感覚』ペーター・ホゥ著

2019-06-04 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
昨日 読み終わりました。

デンマークの作家 ペーター・ホゥ著『スミラの雪の感覚』 染田屋茂・訳 新潮社 1996年


本国での出版は1992年だそうですから、27年も前になります。 著書は欧米でベストセラーになり、97年に映画化もされているとのこと。 でも全くこのタイトルには記憶がありませんでした。 
デンマークのハードボイルドミステリー 『凍てつく街角』ミケール・カッツ・クレフェルト著(>>)や、 先ごろ載せた ドイツのフォルカー・クッチャーによる警察小説シリーズ(>>) につづいて、 北欧あるいは東欧あたりのミステリ小説をなにか読みたいな、と思って 検索していて この『スミラの雪の感覚』に行き当たったんです。

またお馬鹿をさらしてしまいますが、、 グリーンランドがデンマーク領だということを 私ぜんぜん知りませんでした。。グリーンランドは国ではない、とは知ってはいても 一番近くのカナダ辺りに属するものと勝手に… デンマークとは考えたことも無かったです。

…なので 物語を読み始めたとき、 いきなり グリーンランド人の墓地、、 という場面から始まっても意味がわかっていませんでした。 しばらく読み進めて、、(グリーンランドって デンマークだったんだ…)と。。

 ***

この本は絶版なんですね、、(勿体ない…) 簡単な内容紹介は Amazon にリンクしておきます。 このくらいの前知識で余り詳しく書かれていない方が良いと思うので、、(>>) 

物語の冒頭がグリーンランド人の墓地、、 と先に書きましたが、 亡くなったのはイヌイットの血を引く少年。
そして、 主人公の女性スミラは グリーンランドのイヌイットの集落で生まれ、そこで狩猟生活をしながら幼少期を過ごし、、 しかし 現在はデンマークのコペンハーゲンに住んでいる。 

グリーンランド出身のスミラには 雪や氷に対する特別な知覚があり、 スミラは少年が亡くなった現場の雪の跡から、 彼の死に疑問を感じる。。 それがすべての発端になるのですが、 スミラがどんな女性なのか、 スミラと少年がどんな関係なのか、、 なぜスミラの知識は特別なのか、、 なぜスミラは少年の死の謎を解こうとするのか、、 物語はスミラの思考(心の動き)を少しずつ語りながら進むので 簡単には事件の背景がつかめません。。

読んでいくうちにようやく、 すべての鍵は グリーンランドとデンマークとの、 旧植民地であった(現在は自治領)その関係性にあると気づくのです。。

スミラは イヌイットの母と、 デンマークからやってきた科学者としての父との両方の血を受け継ぎ、 幼少期に極北の氷の平原で培われた自然に対する特別な知覚と、 デンマークで受けた高等教育の知識と、 両方を兼ね備えた非常に高度な才能を持っていますが、 その代わりに、 プリミティヴな知覚と文明科学との間で引き裂かれてもいる。。

ミステリーとしての謎解きは、 スミラが少年の死の謎を追っていくうち、 過去のデンマークによるグリーンランドの資源開発をめぐる 30年以上にもわたる組織的な策謀にもつながっていき、、 後半はグリーンランドへ向かう船内と極北の海が舞台になっていきます。 その船舶の構造や、 海洋の自然や氷の現象の描写もきわめて詳細で専門的で…

訳者さんのあとがきに メルヴィルの『白鯨』や コンラッドの『ロード・ジム』の名が出ていましたけれど、、 確かに。。
加えて、 医学や生物学にも関連してくると、 マイクル・クライトンやロビン・クックにもちょっと近いかな… とか。(90年代にはたくさんそういう小説や映画がありましたね)

 ***

謎解き、、 というミステリの要素では上にあげた、 資源開発、極地探索、自然と文明そして科学、、などの壮大な舞台背景があるのですが、 一方で、、 イヌイットとデンマーク人の両方のアイデンティティに裂かれたスミラという女性の物語があり、 そちらのほうにより強く私は惹かれました。 スミラが苦しんでいるもの、、 自分は何? どう生きたら、、 人との関係性は、、 愛は、、 家族は、、、

そのようなスミラの自己分析や 世界認識の言葉が アフォリズムのようにしばしば語られるのですが、、 自然科学や地質学や数学や物理学などの言葉を使って表現をするので、 理系に弱い私にはそこがなかなか難しいところでもあり、、 とても読むのに大変だったのですが、 でも 頑張って理解しようとしてみると 言い得て妙、、と思える部分も多く、、

例えば…

 「なぜなら、数の構造は人の一生に似ているからよ。まず最初にあるのが自然数。正の整数のことよ。小さな子供の数というところね。でも、人間の意識というものは拡大していく。子供は憧れを発見する。憧れを数学的に表現すると何になるか知っている? … 略 …

 「負の数よ。何かになかなか手が届かない気持ちを形にしたものだわ。それから、人間の意識はもっと広がり、成長して、子供はさまざまの空間を発見する。石と石のあいだ、石に生えた苔と苔のあいだ、人と人のあいだを。それに数と数のあいだ。その先に何が来ると思う? 分数が登場するのよ。整数プラス分数が有理数を創りだす。それでも、人間の意識は留まることを知らない… 略 …


、、 こんな感じ。。

このスミラ独特の 哲学的な思索、 自分と世界に対する認識の方法に馴染めないと思うかたは 映画で観るほうがたぶん良いと思います。。 なんたって 二段組で430頁、、 読むの大変でしたもの。。
Smilla's Sense of Snow (1997) ←予告編も見られます。 ガブリエル・バーンやリチャード・ハリスなど配役も素敵。


この『スミラの雪の感覚』を読んでいて、 昔(この本が書かれた頃と同じ時期) イヌイットの映画を観たことを想い出しました。 『ニキータ』の女性暗殺者を演じた アンヌ・パリローが好きで観た映画 邦題は『心の地図』
Map of the Human Heart (1992)
細部はあまりおぼえていないけれど、 美しい映画だったと。。 DVD化されていないのですって、、 残念です。


それから、 グリーンランドとこの本に関連する記事を参考までに、、
温暖化のおかげで「独立」が買える!?
グリーンランドが抱える「究極のジレンマ」
 https://diamond.jp/articles

グリーンランド、凍らぬ海の下に眠る宝 進む資源開発、迫る中国の影
 https://globe.asahi.com


 ***

(最後に、、 ちょっとネタばれになりますが)

スミラには グリーンランドの雪原へ狩りに出ていた子供の頃、 霧や雪につつまれて周囲がまったく見えず 路も分からない時でも、 本能的に方向を認識できる能力がありました。 それをスミラは大人になってニュートンの「絶対空間」を引き合いに出しながら 自分と宇宙とが直接に繋がっている感覚として語るのですが、、

スミラが少年の死の真実を追い求めるのも、 自分が自分でありたいと願うのも(またそれによって何かを拒絶するのも)、 孤独に対しても、 神に対しても、、 あるいは愛に対しても、、 (上に書いたように数学を人生の喩えに用いるのも) 、、 スミラの根源には 自分が雪原の中で感じることの出来た絶対的な位置感覚、、 ニュートンの言う「絶対空間」への希求というものがあって、、

そのようなものを求めたい(信じたい) それがスミラの苦しみでもあり、 希望でもあるのではないのかな…  と。


誰かほかの人という比較対象や、 ランドマークや、 そういう物によって相対化を図るものではないもの。。 そんなスミラの想いは、、 なんとなくだけれど 共感できました。



都市文明には比較対照を強いるものが多すぎますものね。。



(上のフォトのお菓子は本には関係ないんだけど、、 紫陽花という名の和菓子。
 読了のご褒美に今日頂きました… 紫陽花 見にいきたいな…)


 +++

今朝の空 till dawn...:『エイルヰン物語』と「黄金の夜明け団」

2019-01-20 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
今朝、、 夜明け前の東の空に とても素敵な光を見ました…


見て、、  みて!!



加工もなにも施してない そのままの画像ですよん♡



少し引きにして写すとこんなかんじ
海上から街まで全部の画像だともっと美しいんだけど、、 建物とか色々写ってしまうのでここまでで。。



海上の雲間から太陽が顔を出し始めると、 薔薇色の光線はゆっくりと消えていきました

 ***

ね? 素敵でしょ…? まさに 薔薇十字の夜明け。

このブログでも過去に漱石がらみで幾度か書いた事のある 19世紀末英国の ヲッツ=ダントンによる小説『エイルヰン物語』(過去ログ>>

その中にも こうした 光と雲がつくりだす《薔薇十字》の事が何度か出て来ます。 それは、、 ウェールズの山スノードンの山頂から見る太陽の光の十字架として描かれていて、 それを見ることはなんらかの《予兆》でもあるのです。。
、、なんだか、、 イェイツなども係わった事のある「薔薇十字団」 そののちの「黄金の夜明け団」The Hermetic Order of the Golden Dawn が言いそうな事にも思えますが、、 物語の中では ウェールズ地方のロマ(ジプシー)の人々の教え、なのです。


『エイルヰン物語』戸川秋骨譯 大正4年

物語のほんとの結末部分です。(私が眼にしたのとひとつ異なるのは、 私が見たのは夜明け、 エイルヰン物語では夕暮れ、、。 でもスノードン山から海を見る方角は西なので夕暮れしかこの薔薇色の十字架は現れないし、 東京では東しか海は無いから、 薔薇色の十字架が見られるのはきっと夜明けでいいんだと、、 勝手に解釈しています… 笑) 

ここに出てくる「十字架の前兆(しらせ)」 は、原語では "the Dukkeripen of the Trushul."

Dukkeripen は fortune-telling

Trushul は ロマの言葉で cross


 ***

きょうは 大寒です。 

その朝にもたらされた 《fortune-telling》 、、なにを教えてくれているのかしら…



だいじょうぶ…  どんな未来でも 素直に受けとめます。。


『それゆえに愛はもどる』ロバート・ネイサン著

2018-10-29 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
一昨年、 ロバート・ネイサン著の『ジェニーの肖像』という本について書きました。
(ジェニーの肖像 過去ログ>>

あのとき、 創元推理文庫版の『ジェニーの肖像』には もう一作品『それゆえに愛は戻る』(大友香奈子 訳)も収録されていて… と書きましたが、 その作品については何も触れませんでしたね。

今回、 『それゆえに愛はもどる』を昭和51年 文化出版局版 矢野徹 訳のもので読むことができ、、 二年前の印象とはまた違った新鮮さと、 今の気持ちやたまたま今の状況と繋がりあう何かがあったのか、、 心につよく感じるものがありました。 翻訳のせいもあるのか、、 それとも、、 いまが10月のせいなのか、、 あるいは このところ頭の中にずっとずっと フレディの歌声が入れ替わり立ち代わり脳内再生されつづけているせいなのか…

Can anybody find me somebody to love... ♪ って…

 ***

『それゆえに愛はもどる』は ロバート・ネイサンによる一篇の詩から始まっています。 「いまは青い十月」と 矢野さんは翻訳されている詩。

原文は、、「Now Blue October Robert Nathan」で検索すれば どこかのサイトで読めると思います。 、、矢野さんの訳から、、 詩の最後の部分だけすこし…



最後の二行は…

 And love, before the cold November rain,
 Will make its summer in the heart again.

、、 だから、、 この十月のおわりに、、 どうしても読みたかった(書きたかった)のです。。

 ***

ストーリーは 少し『ジェニーの肖像』と似ています。 『ジェニー…』の主人公は若い貧しい画家の青年でしたけど、、 こちらは 妻を失った(4歳と5歳かな?)子供のいる売れない作家、、 暮らしているのは 「海を見はるかす岩棚のうえに立っていた… 砂漠かと見まちがう色をしたカリフォルニアの丘陵地帯」

トゥリシャとクリスという姉と弟の子供たちは 母を喪ったあとも天使たちのように愛らしく 貧しいながらも楽しそうにけなげにパパとの暮らしをおくっています。 作家は いつか自分の作品が有名に… 何かの賞を… そんな日をかすかに夢見ながらも 子供向けの物語を毎月出版社に送ってその小切手が届くのを待つ生活をしています。。 可愛らしい子供たち、、 裕福にはほど遠いけれども生活はしていける日々、、 目の前にひろがる美しい海岸、、 つつましくも穏やかな暮らしには違いないのだけれど、、 



 「…だが、喜びは分けられる。 愛もそうだ。」


、、 ロバート・ネイサンは詩人です、、 だから こういう 短いけれども心に突き刺さる一文が ところどころに出てきて、 はっと胸が疼くのです、、。

ストーリーだけを追っていったら 海の妖精を想像させる、 『ジェニーの肖像』を読んでいればなおさら想像されうる 大人のおとぎ話、、。 喪った愛の洞穴に 幻像のようにあらわれる不思議な女性… 

、、だから その物語の筋というか、 結末のあり方とかに 大きな意味を求めるのがこの書の読み方ではないような気がします。

 
 「男の人生には、 ひとつ以上の愛をうけ入れる余地があるんだ」


… こんな 台詞もでてきます。。 身勝手…? 本音…? 真理…? 嘘…?  、、笑


先に挙げた クイーンの歌と同様…

  Find me somebody to love
  Somebody somebody somebody somebody
  ・・・
  Can anybody find me somebody to love?


誰かを失っても、、 ふたたび 希わざるを得ない心 求めることのやまない愛…

そういう心の物語、、 なのでした。。


『それゆえに愛はもどる』 So Love Returns 1958年の本ですので、 「男は…」 「女は…」 「男の子は…」 「女の子は…」 というような記述が多くでてきて、 現代にはちょっとそぐわない価値観もあるかもしれないけど、、 「人は…」 「少年の心をもった人は…」 「少女の心をもった人は…」 というように読み替えることはできるかもしれない、、 人が人を求めること、、 少年の心が求める冒険、、 少女の心が求める優しさや夢、、 そこの普遍性は時代が変わっても変わらないものもあるように思う。。

ロバート・ネイサンの愛の物語、、 矢野徹さんの訳書でふたたび読めたらいいのに、、 

 ***



Now Blue October


今朝のカーテン越しの夜明けです…

『夏の涯ての島』と『リオノーラの肖像』

2018-07-18 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
『夏の涯ての島』イアン・R・マクラウド著 
The Summer Isles and other stories 早川書房 2008年

七つの短篇・中篇から成る作品集ですが、 その中の一番長い表題作「夏の涯ての島」(1999年)について、を。



この本は、 ほとんど内容も知らずただ英国の作家と、本のタイトルと、短篇集、ということだけでなんとなく手にした本ですが、、 不思議と最近の読書と通じ合う部分があり、 関心事というのは何かを呼び寄せるのだなぁ…と手前勝手に思ってしまいました。。

著者イアン・R・マクラウドは、 SFや歴史改変ファンタジーを主に書く作家だそうです。 でも「夏の涯ての島」はサイエンスフィクションでもないし、 幻想小説、とも言えない、、 言うなら〈歴史改変ロマンス〉とでも言えばいいのかな。

物語の語り手は オックスフォードの歴史学の老教授。 彼の人生の回想という形で語られる物語。 その中心部分にあるのが1940年の英国で、 そこではまるでナチスドイツのように一人のカリスマ指導者が台頭し、 ファシズムと恐怖政治が浸透しつつある。 ユダヤ人家族は強制的に連行されていく。 監視や密告の社会では、 同性愛者も排斥の対象になっている。。 語り手の老歴史学者は 同性愛者であることを隠しつつ オックスフォード学寮の一室で暮らし教鞭をとっていた…

語られるのは 老歴史学者が若き日に愛したフランシスという年下の恋人のこと、、 そして、 現在の英国のカリスマ指導者ジョン・アーサー。。

、、本の解説によれば、 この「夏の涯ての島」という小説は、 もともと長篇の構想だったものを 雑誌掲載のために短縮して掲載したものだそうで、、 この翻訳された短い方の作品もそれなりに味わいのある中篇作品なのですが、 改変された歴史の部分、 連れ去られたユダヤ人家族がどうなったのか、とか カリスマ指導者ジョン・アーサーに対する市民の熱狂や、 彼がいかにしてここまで昇りつめたかという過去の部分とか、 政府内の黒幕とか、、 書こうと思えばもっともっと深い物語になった筈なのに… と感じて、 私としては、 2005年に長篇作品として出版されたほうの「The Summer Isles」を読んでみたいなぁ、、と。。 翻訳が出ないかしら…

この中篇小説としての「夏の涯ての島」のほうは、 老歴史学者… 歴史という史実を自分の学問とし、 事実を明らかにする仕事であるはずの学者が、 自らの愛も含め 事実を隠して生きなければならず、 歴史に翻弄されながら皮肉にも生き長らえ名声も得てしまった人生を、 哀切をこめてとてもノスタルジックに抒情的に描いていて それは美しいロマンスになっています。 若き日の恋人、フランシスとの思い出もとてもロマンチックに描かれているし…

 ***

ところで、、
今日のタイトルにどうして 『リオノーラの肖像』を挙げてあるのかと言うと、、 「夏の涯ての島」のカリスマ指導者ジョン・アーサーが、 そのような政治家に生まれ変わる転機となった場が、 第一次大戦における「ソンムの戦い」という英国側の膨大な死者を出した激戦で、、 小説の中には「ソンム」ってたった一言くらいしか書かれていないのだけれど、 『リオノーラの肖像』を読んでいたお陰で それがどのような戦闘だったのか、  ジョン・アーサーにどのような変化をもたらしたのか、 想像する事が出来たのです。

『リオノーラの肖像』(ロバート・ゴダード著 1993年)、、 さきほどのは老歴史学者の回想でしたが、 こちらは年老いたリオノーラという女性が 娘と共にかつての激戦地=父が亡くなった場所、を訪れる場面から始まります。 ソンムの戦いで行方不明になったまま還らなかった父の謎、、 父の戦場での死亡推定日より一年後に自分が生まれているという謎、、 自分の父はいったい誰なのか、、 誰もが口を閉ざしていた父と母の人生はどのようなものだったのか、、
こちらは本当に壮大で、 ゴダードならではの緻密さで、、 ミステリ小説ではあるけれど、 愛の物語としても ゴダード作品の中での最高傑作かなと思うのです。。

 ***

隠された過去、、 語られなかった真実、、 そして 運命を変えた戦争。

昨年末に書いた M. L. ステッドマン『海を照らす光』も、 第一次大戦で心に大きな傷を負った者たちが主人公でした(>>)。

、、 なぜそのような物語に心惹かれるのか… 偶然、、 ということもあるし、 自分が求めているということも確かにあるかもしれない。。 歴史に翻弄され、 戦争に人生を変えられ、、 語られることのなかった記憶、、 そういう物語は決して小説の中だけではないから。。

そういう物語を私自身も知っている、、 けれども やはり語る事は出来ない。。 語り継ぐ戦争、、とか言うけれど、 小さな個人の周りにもやはり子孫も 親しい者もいて、、 誰かが傷つく怖れのある限りは言葉に出来ない事もある。 だけど、 決して忘れ去られてはならないはず… 
歴史に翻弄された「命」や 「愛」を… 

 ***


 …彼はコテージのドアを開いて裸で立ち、暗い海と、星のきらめく夜を見つめていた。
 「あれが見えるかい……?」
 …
  わたしは起き上がり、彼の視線を追って、白いこけら板と、低い壁と、輝く波間へと続く砂丘の先に目を向けた。 なるほど、確かに何かあるのかもしれない。島々の浅瀬の灰色に輝く背中は、日中はまぶしすぎて、見ることはできない。
 「あそこへ行くべきだと思うんだ、グリフ」…

     「夏の涯ての島」より (嶋田洋一訳)


 


上の写真に載せた本、、 『奥のほそ道』…こちらは新刊。 第二次大戦中 日本軍の捕虜となったオーストラリア軍医の物語(だと思う… まだ読んでない)
『戦場のメリークリスマス』古~い本(1983年 『影の獄にて』が最初の訳書のタイトル) 舞台はジャワ島の捕虜収容所。 こちらは映画でも見たし、本も昔に読んだ、けどもう一度。。


8月にかけてこれらを読んでいこうと思います(でも探偵ミステリも同時に読んでいるけど…)


酷暑の日々、、 どうぞお健やかに。

命の危険のある暑さ、、 って。。 

(わたしはこれ以上体重が減らないように気をつけます)

「死のかげの谷」…雪、風、、そして落葉…:堀辰雄『風立ちぬ』

2017-12-02 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
12月になりました。。 (なってしまいました…)

すべてを放り出して走り出す12月の始まり、、、 のはずだったんですけど、 頭の中にずっともやもやしている翳にけりをつけておかないと先に進めない気がして、、 それで今回の本と、 もうひとつ本の事をまず先に書いておこうと思います。
(…何の事かさっぱりわからないですよね、ごめんなさい。。 自分の内面だけの問題…
 どうぞスルーして読書記のほうへ ↓)

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先月、 堀辰雄の初期ファンタジー傑作集『羽ばたき』について書きました(>>)。 そのとき 「fantasy は、phantasy」 が元の言葉だと、、 それを考えたとき、 堀辰雄の 『風立ちぬ』の最終章、「死のかげの谷」のことが頭に浮かんできたのです。 、 はるか昔に読んだきりだったので 細かい描写は記憶していなかったけれど、 リルケの詩が引用されていたのは覚えていて、、 死者へ語りかける詩…

 帰っていらっしゃるな。そうしてもしお前に我慢ができたら、
 死者たちの間に死んでお出(いで)。死者にもたんと仕事はある。
 けれども私に助力はしておくれ、お前の気を散らさない程度で、
 しばしば遠くのものが私に助力をしてくれるように――私の裡(うち)で。



、、この詩は深く心に残っていて、、 「私」が感じる「お前」の存在…  それは「死者」なのだけれど、 在りし日のお前の「像・影」として感じ、その影と対話をすることによって次第に気持ちの整理をしていく… そういう終章だったと、、 そう記憶していたのです。  phantom につながる意味でのファンタジー(phantasy)、、 あぁ、、そういうことだったのか、、 とヒントを貰った気がして、 もう一度 「死のかげの谷」を読みたくなって、、

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以下、 堀辰雄『風立ちぬ』の終章「死のかげの谷」から少し引用します。



 一九三六年十二月一日 K…村にて

 「ほとんど三年半ぶりで見るこの村は、もうすっかり雪に埋まっていた。 … その木皮葺きの小屋のまわりには、それを取囲んだ雪の上になんだか得体の知れない足跡が一ぱい残っている。…私はその小さな弟からこれは兎これは栗鼠、それからこれは雉子、それらの異様な足跡を一々教えてもらっていた。」


、、K村のひと気の無い別荘地、雪に包まれた12月、「私」は独り籠って ここで年末を迎えようとしています。


 一九三六年十二月十日

  「この数日、どういうものか、お前がちっとも生き生きと私に蘇って来ない。 …暖炉に一度組み立てた薪がなかなか燃えつかず、しまいに私は焦れったくなって、それを荒あらしく引っ掻きまわそうとする。そんなときだけ、ふいと自分の傍に気づかわしそうにしているお前を感じる。」


、、「気づかわしそうにしているお前」、、 それは在りし日の「お前」の姿、ぬくもり、表情、、 ここでは「お前」はそのような「在りし日の姿」を感じさせる存在として傍らに現れます。 そして、 雪のやんだ日、「私」は林の奥へ奥へと入っていきます。




 一九三六年十二月十八日

  「…そのうちにいつからともなく私は自分の背後に確かに自分のではないもう一つの足音がするような気がし出していた。」

  
、、ここで 「お前」は在りし日の「像」ではなく 「足音」として現れます。
「… 私はそれを一度も振り向こうとはしないで… 」 、、確かな「足音」に気づきながらも振り向かずに「私」は、 最初に引用した リルケのレクイエムを口ずさむのです 「帰っていらっしゃるな」と。




 一九三六年十二月二十四日

  「…どこからともなく、小さな光が幽かにぽつんと落ちているのに気がついた。
  … 「御覧… ほらあっちにもこっちにも、ほとんどこの谷じゅうを掩(おお)うように、雪の上に点々と小さな光の散らばっているのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな。…」

、、クリスマスイヴの夜、 村人の家の晩餐に呼ばれた「私」は その帰り道、 住む人もいないはずの別荘地の谷に たくさんの「光」を見ます。 それは「おれの小屋の明り」があちこちまで照らしているのだと、 上記ではそう思っていますが、 実際に自分の小屋へ戻ってみると、、

 「…その明りは小屋のまわりにほんの僅かな光を投げているに過ぎなかった」

、、谷じゅうをおおっていた「光」は幻だったのでしょうか、、




そして、 十二月三十日の晩、 「私」は小屋の外のヴェランダに立ち、 雪明りの林を見ています。 谷の向こうで 風がざわめいているのを「私」は聞いています。 その文末のあたり…


  「…また、どうかするとそんな風の余りらしいものが、私の足もとでも二つ三つの落葉を他の落葉の上にさらさらと弱い音を立てながら… 」

、、雪明りの林はみな裸木になっています。もし木の葉が枝に残っていたとしても、 小屋の周りは雪に包まれているはず、、 「二つ三つの落葉を他の落葉の上にさらさらと弱い音を立てながら… 」、、「さらさらと」…? 

、、ここで「私」が見ている「落葉」、 耳にしている「さらさら」という音、 それから クリスマスイヴの晩に谷じゅうをおおった「光」、、、

「帰っていらっしゃるな」というリルケの詩を境にして、 「お前」というかつての形ある存在で描かれていたものは、 それ以降、 谷の「光」へ、 「風」へ、、 そして実際にそこに有ったのかわからない「落葉」をうごかす「さらさら」という音へ、、と 「お前」はこの世界の万物と同化して、 「私」のもとへ現れているのだと理解できます。。 


… fantasy が、phantasy であることに気づいて、 やっと 「死のかげの谷」の終章の幻想について、 それは外部的には「幻想」なのかもしれないけれど、 「私」には実在であり、 リアリズムと言って一向に構わない知覚なのだと、 あらためて納得することができました。

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「死のかげの谷」を思い出してこうして読み返していたら、、 2016年の6月に読んでいた ヨハン・テオリンのエーランド島四部作、、 その『冬の灯台が語るとき』のことが思い出されました。 やはり、 12月、雪に閉ざされた北欧の孤島の物語。 死者と生者、 現在と過去の人々が交差しながら、 深い喪失の心をゆっくりと埋めていく物語、、(>>

 「民間伝承では、その年に亡くなった人たちは、クリスマスにもどってくると言われています」

…と、『冬の灯台が語るとき』の解説の中でテオリン自身の言葉が書かれています。 この作品はそういう物語でした。 、、そして、 『風立ちぬ』の「死のかげの谷」の前の章は、 一年前の12月で終わっています。。 堀辰雄がテオリンの言うような民間伝承を知っていたわけではないでしょうけれど、、 なにか通じるものを想ったのです。。

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、、 私自身には今年そのような出来事があったわけではありません。 ただ、、クリスマスは以前にも書いたことがありますが、 あまりにも幼く旅立っていったおおぜいの天使たちを思い出す季節です。 何十年経とうと、 決して忘れることのない 無辜の魂、、 透き通る肌と、 痛々しい針の刺さった手で触れ合った命。。


、、この12月


、、 よいクリスマスシーズンにしましょう…