前回の読書記と特段 関係はないのですけれど、、
およそ百年前のパリに漫遊していた若いアメリカ人女性のことから ふと思い出して、、 『若草物語』の作者 ルイザ・メイ・オルコットもパリやロンドンや、 欧州を一年くらい周遊していたこと、、 前回読書のパリが1929年だとしたら、 ルイザが行ったパリはそれよりさらに50年前、、 今から150年も前の19世紀半ばのこと。。 日本で言うなら幕末(!)
そんな時代に 独身女性が一人で(たった独りで、ではなくて 確か裕福な家庭の子女の付き添いとして一緒に行くことになったのでしたね) 、、ヨーロッパ各地を一年ものあいだ見て歩くことができたなんて、、 日本ではまだ考えられない時代だわ… と思って
そうしたら 以前、 図書館で借りたことのある ルイーザ・メイ・オールコットの日記をもう一度読んでみたくてたまらなくなって、、 図書館本ではなかなか読み切れないから 手元に置く為に取り寄せてしまいました。
『ルイーザ・メイ・オールコットの日記 ―もうひとつの若草物語―』 宮木陽子・訳 西村書店 2008年
(右は 『若草物語』 掛川恭子・訳 学習研究社 1974年)
ルイーザがヨーロッパに旅立ったのは 1865年(日本では慶応元年、 新選組が結成された年、だとな) 、、 ちなみに 勝海舟が咸臨丸でサンフランシスコに渡ったのは1860年とのこと。。 以前に書いたことのある 新島襄(>>)がアメリカ船に密航してボストンへ着いたのが、、 なんと! 今調べたら ルイーザが欧州に旅立った同じ1865年の7月。 ルイーザはボストンから、、 そして新島襄はボストンへ、、 奇遇ですね。。
ルイーザの日記は まだ買ったばかりでところどころ開いては拾い読みしているだけなのですが、、 一番興味があるのは、 ルイーザがヨーロッパで出会った ポーランドの若き紳士、 そののち 『若草物語』でジョーの永遠の友として描かれるローリーのモデルとなったらしい男性との出会い。。
彼の名は ラディスラス・ヴィシニェフスキというのだそうです。 「とても明るくて愛想のいい青年」(1865年11月の日記より) だそうで、、 翌5月にはパリで再会して二週間を観光やホテルでの団らんで共に過ごしている、、 ルイーザにとっては本当に楽しかったらしい、 そしてほのかなロマンスもあったらしいパリでの滞在。。
ラディスラス、、 どんな人だったんだろう。。 昨日から少し検索してみたのだけど、 詳しいことは何もわからない。 ルイーザとは その滞在で行動を共にしただけで、 その後は手紙のやりとりとか、 再会とか、、 何も無かったのかしら… ラディスラスはその後、 どんな人生を送ったのかしら… ポーランドへ帰ったのかな… そんなことを考えるときりがない、、(笑) ルイーザの日記は、 晩年に自分で処分したり、 一部を切り取ったりして残っていない部分も多いようで、、
ルイーザが生きた時代のボストンには、 ソローやエマスンや、 アメリカの文化、文学の歴史のなかでは著名な人物が多くいて、 だからかなり詳しい資料も残っているほうだけれども、 そういう有名人ではない人との出会い、、 ラディスラス・ヴィシニェフスキがどんな人だったのか、とか、、 前にも書いた新島襄がボストンに滞在していた時期に ルイーザはどうしていたのかとか、、
またゆっくり ルイーザの日記を少しずつ読みながら、 いろいろ知りたい事、 考えたい事、 これからの楽しみです。。
***
1863年4月の日記より
南北戦争がはじまると、 ルイーザは従軍看護婦に志願して、 その体験が『病院のスケッチ』として出版されたことは 以前に書きました(>>)
ルイーザの日記にも、 看護する奮闘ぶりが記されていました(↑)
月曜日の朝、、 傷病兵たちの病室をかけまわって 換気のために窓を開けていく、、 ルイーザの姿が目に浮かぶようです。 その部分を読みながら、 今 このコロナ禍の世界に もしルイーザが生きていたら、、 やっぱり 窓を開けて換気をして回ったり、 マスクを配って歩いたり、、 同じように病人を守ろうとしたり、 家族を守ろうとして、 奮闘していたのだろうな、と想像してしまいました。 そして、 感染者が出てしまったお家があれば、、 バスケットにいっぱいの食べ物や贈り物やつめて玄関先に届けたり、、 きっと そんな風にしているのだろうな、、などと……
そんな想像をしていたら、 8月が終わる今、、 まだまだ終息の気配は見えなくて、 半病人の私のステイホームはこの先も続いていくけれど、、 気持ちは前を見て、 毎日を、 たいせつな家族とともに、、
なんだか頑張っていける気がしました。
***
今日の朝刊に、、 与謝野晶子がスペイン風邪流行のときに書いた評論のことが載っていましたね。。 感染防止の為に政府に物申す文章。。 子どもがたくさんいた晶子もまた、 奮闘していたのでしょう。。
その記事を見て、 ルイーザと晶子の肖像が どことなく似ている気がしました。 意志の強そうな口元のあたりが…。
ルイーザと 晶子に 元気をもらって、、
今週も、 そして9月も、 頑張って生きましょう
およそ百年前のパリに漫遊していた若いアメリカ人女性のことから ふと思い出して、、 『若草物語』の作者 ルイザ・メイ・オルコットもパリやロンドンや、 欧州を一年くらい周遊していたこと、、 前回読書のパリが1929年だとしたら、 ルイザが行ったパリはそれよりさらに50年前、、 今から150年も前の19世紀半ばのこと。。 日本で言うなら幕末(!)
そんな時代に 独身女性が一人で(たった独りで、ではなくて 確か裕福な家庭の子女の付き添いとして一緒に行くことになったのでしたね) 、、ヨーロッパ各地を一年ものあいだ見て歩くことができたなんて、、 日本ではまだ考えられない時代だわ… と思って
そうしたら 以前、 図書館で借りたことのある ルイーザ・メイ・オールコットの日記をもう一度読んでみたくてたまらなくなって、、 図書館本ではなかなか読み切れないから 手元に置く為に取り寄せてしまいました。
『ルイーザ・メイ・オールコットの日記 ―もうひとつの若草物語―』 宮木陽子・訳 西村書店 2008年
(右は 『若草物語』 掛川恭子・訳 学習研究社 1974年)
ルイーザがヨーロッパに旅立ったのは 1865年(日本では慶応元年、 新選組が結成された年、だとな) 、、 ちなみに 勝海舟が咸臨丸でサンフランシスコに渡ったのは1860年とのこと。。 以前に書いたことのある 新島襄(>>)がアメリカ船に密航してボストンへ着いたのが、、 なんと! 今調べたら ルイーザが欧州に旅立った同じ1865年の7月。 ルイーザはボストンから、、 そして新島襄はボストンへ、、 奇遇ですね。。
ルイーザの日記は まだ買ったばかりでところどころ開いては拾い読みしているだけなのですが、、 一番興味があるのは、 ルイーザがヨーロッパで出会った ポーランドの若き紳士、 そののち 『若草物語』でジョーの永遠の友として描かれるローリーのモデルとなったらしい男性との出会い。。
彼の名は ラディスラス・ヴィシニェフスキというのだそうです。 「とても明るくて愛想のいい青年」(1865年11月の日記より) だそうで、、 翌5月にはパリで再会して二週間を観光やホテルでの団らんで共に過ごしている、、 ルイーザにとっては本当に楽しかったらしい、 そしてほのかなロマンスもあったらしいパリでの滞在。。
ラディスラス、、 どんな人だったんだろう。。 昨日から少し検索してみたのだけど、 詳しいことは何もわからない。 ルイーザとは その滞在で行動を共にしただけで、 その後は手紙のやりとりとか、 再会とか、、 何も無かったのかしら… ラディスラスはその後、 どんな人生を送ったのかしら… ポーランドへ帰ったのかな… そんなことを考えるときりがない、、(笑) ルイーザの日記は、 晩年に自分で処分したり、 一部を切り取ったりして残っていない部分も多いようで、、
ルイーザが生きた時代のボストンには、 ソローやエマスンや、 アメリカの文化、文学の歴史のなかでは著名な人物が多くいて、 だからかなり詳しい資料も残っているほうだけれども、 そういう有名人ではない人との出会い、、 ラディスラス・ヴィシニェフスキがどんな人だったのか、とか、、 前にも書いた新島襄がボストンに滞在していた時期に ルイーザはどうしていたのかとか、、
またゆっくり ルイーザの日記を少しずつ読みながら、 いろいろ知りたい事、 考えたい事、 これからの楽しみです。。
***
1863年4月の日記より
南北戦争がはじまると、 ルイーザは従軍看護婦に志願して、 その体験が『病院のスケッチ』として出版されたことは 以前に書きました(>>)
ルイーザの日記にも、 看護する奮闘ぶりが記されていました(↑)
月曜日の朝、、 傷病兵たちの病室をかけまわって 換気のために窓を開けていく、、 ルイーザの姿が目に浮かぶようです。 その部分を読みながら、 今 このコロナ禍の世界に もしルイーザが生きていたら、、 やっぱり 窓を開けて換気をして回ったり、 マスクを配って歩いたり、、 同じように病人を守ろうとしたり、 家族を守ろうとして、 奮闘していたのだろうな、と想像してしまいました。 そして、 感染者が出てしまったお家があれば、、 バスケットにいっぱいの食べ物や贈り物やつめて玄関先に届けたり、、 きっと そんな風にしているのだろうな、、などと……
そんな想像をしていたら、 8月が終わる今、、 まだまだ終息の気配は見えなくて、 半病人の私のステイホームはこの先も続いていくけれど、、 気持ちは前を見て、 毎日を、 たいせつな家族とともに、、
なんだか頑張っていける気がしました。
***
今日の朝刊に、、 与謝野晶子がスペイン風邪流行のときに書いた評論のことが載っていましたね。。 感染防止の為に政府に物申す文章。。 子どもがたくさんいた晶子もまた、 奮闘していたのでしょう。。
その記事を見て、 ルイーザと晶子の肖像が どことなく似ている気がしました。 意志の強そうな口元のあたりが…。
ルイーザと 晶子に 元気をもらって、、
今週も、 そして9月も、 頑張って生きましょう