星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

fantasy は、phantasy…:堀辰雄『羽ばたき』

2017-11-18 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
昨日は、、 人に逢いに出掛けました… 大好きな「人」に、、

、、 帰り道はそろそろ夕暮れ。。 街路樹や植え込みがもう、 イルミネーションで飾られているのでした。 こんなふうに…



(歩きながらのピンボケ…)

 ***

tweet のほうに少し書きましたが、 

堀辰雄の初期ファンタジー傑作集 『羽ばたき』(長山靖生編、彩流社 2017年2月)という短編集を読んでいます、、(というか読み終えました)

前回、 椿實全作品を読んでいた時にも書きましたが、 前田愛先生の 『都市空間のなかの文学』(筑摩書房 1982年)という本に、 昭和初期の浅草「カジノ・フォーリー」を舞台にした小説 川端康成『浅草紅団』や、堀辰雄の幻想的な短編「水族館」などのことが書かれていて、、
『風立ちぬ』の堀辰雄が、 浅草の踊り子に夢中になる学生や、 男装の麗人かどうかわからない妖しい男(?)の話を書いているのも意外な気もしましたし、、 前からこの堀辰雄のファンタジー短篇集 の事が気になっていたので、 椿實の後にぜひ読もうと。。




新しい本なので、 内容には余り触れないでおきましょう。。
(以下、「水族館」や個々の作品を示すものではありません)

、、 この短編、 あるいは掌編とも言えるような小さな物語を読みながら、、「ファンタジー」という言葉に、 人はどんなものを求めているのだろう… とふと考えたりしていました。 ファンタジー短篇集という言葉、、 そしてこの装画。 可愛らしくもあり、 優しい童話のようでもあり、、 美しい表紙なのですけど…

この表紙画、、 堀辰雄のこの本の中身をうまく表現しているように思います。 少年期から大人への階段をのぼっていく、、 瑞々しい知覚、 甘やかな思慕、 かと思えばひややかな想像、、 静かで美しい彩りでありながらどこかシュールでもある、、 
見ると…  その足元には…

、、 よく知られているように 堀辰雄は肋膜炎や肺結核で長い療養生活を強いられました。 そうした自身の事ばかりでなく、 関東大震災で母を亡くしたりもしていたのですね。。 そして、昭和二年 帝国大学在学中に師と仰いでいた芥川龍之介の自死。 そのような時期に生み出された「ファンタジー」の文学、、


英語の fantasy は、 「phantasy」が古い語だそうです。 ギリシャ語源の 「幻・像・見えるもの image」という意味がもともとにあって、 phantom 、 phantasm は、 「幻、幻影、幽霊」ですね、

実在(という言葉も何をもって実際に在るというかむずかしいですが…)しないものを、 感じること、 見ること、 想うこと、、 目の前の世界がプリズム越しの世界に変わる、、 そういう「phantasy」
、、では なぜそれを「見る」「想う」かというと… 自分の前の「現実」がそれを必要としているから、、 想わずにはいられないから、、 光が屈曲せずにはいられないから、、 また、 翳の中に襲われるように あちらから勝手にやってくるから、、

だから、 その世界はほんとうは 「在る」のです。 貴方はいるのだし、、 花は匂っているのだし、、 声はとどいているし、、 像は姿を変えた、、 のです。。 

子供らが眠る前にお話をきいて、 おやすみなさい… 楽しい夢の世界へ、、という夢への通い路としての物語ではないのですね、、 白日夢のように、 或は狂気のように、、 現実と並んでともに歩いているもの、、

そういう 「phantasy」について、、 読みながら考えさせられていました。


編者の長山靖生さんの解説がとても詳しく、 創作当時の堀辰雄の背景、 時代や取り巻く人々… 作品を味わった後も、 関心の枝葉を大きく伸ばして下さるような解説でした。
『菜穂子』などの長編作品や、 師芥川にも繋がる軽井沢文学圏の人々… もう昔読んだきりだから、 あらためて辿り直してみたい気持ちになっています。




 ***

以前に書いた R・L・スティーヴンスンの幻想的な物語 『幻の人 "Will O' the Mill"(水車小屋のウィル)』(>>)も、  前回書いた 『椿實全作品』も、 そして 今回の 堀辰雄の短編の中にも、、 「香り」が見せる 「phantasy」の物語がいくつか不思議と連鎖しました。 (椿實は、 最初 生物学を志そうと考えてもいたそうで植物の記述の繊細さ、秀逸さには驚きます、、)


香りと記憶…  香りは 記憶である…
、、またいつか それについても書いてみたいと思いますが、、


雪の匂い…


針葉樹の森の中の 雪の匂い、、、 そろそろ そんな匂いも懐かしく思い出される季節になってきました。。 


では またね… 風邪ひきませんように





ケルティック能 『鷹姫』@Bunkamuraオーチャードホール

2017-02-17 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)



昨夜は、 能『鷹姫』とケルティックコーラスを融合させた舞台、 ケルティック能『鷹姫』を観て来ました。
 
ウィリアム・バトラー・イェイツ作の戯曲『鷹の井戸』 At The Hawk's Well をもとにした能『鷹姫』は、2005年に一度、草月ホールで観たことがあります。(そのときの日記はこちら>>

今回は、ケルティックコーラスグループ、アヌーナとの共演ということで、 どんなふうになるのか、 オーチャードホールの広い空間でどう見えるのだろう、どう聴こえるのだろう・・・ と全く予想がつかないまま楽しみに出掛けました。

詳細はオフィシャルサイトにたくさん説明が載っていますので見てください、、私の拙い説明じゃ伝わらない・・・(美しい写真も載っています)
http://www.plankton.co.jp/takahime/

日本的な能の謡の響きに、 妖精の森で聴こえるような(ロード・オブ・ザ・リングのエルフの森で響いているような) 男性と女性の多層的で神秘的な、 まるで天から何層にも何層にも重なって降ってくるような、 そんな歌声が重なり合って、、 ほんとうに異空間に誘われるような感覚でした。 笛と鼓の響きもすばらしくて、 ときに鎮まり、、 ときに魔を孕んで、、

凄かった・・・ としか、 なんとも言葉が見つかりません。

鷹姫の舞いもそれは美しくて、、 私は能舞台をこの「鷹姫」でしか観たことがないので 着物が普通どうなっているのかよく知らないのですが、、 鷹姫の着物の袖が肘から前後でふたつに分かれていて、、(オフィシャルサイトの写真でもそうですね)、、 それで肘から先の部分をぐるん!と翻す・・・ 右へ、 左へ、 ぐるん!と、、 それが本当に「鷹」なのです。。 扇を持てば、 その襞が翼の先になり、、

泉の水を その翼ですくいあげて鷹姫が飲み干す、、 鷹姫は この森を守護し、 この泉を支配する精霊。 伝説の勇者クーフリンでさえ その水を飲むことはゆるされない。。

 ***

舞台空間は、能の基本的な「本舞台」と左右の「橋掛り」があって、その舞台の大きさは本来の能舞台そのままだそうです。
その後方には、 草月流による枯木のオブジェが3点配置されていて、 また左右の「橋掛り」の手前にも、一対の枯木のオブジェが、、。 その形は「篝」のようにも見えましたが、 銀色に闇に浮かびあがっていました。

その木のオブジェが配された、「本舞台」の後方と左右の空間にコーラス隊があらわれて美しい声を響かせるのですが、、 それはきっと 森の精霊たちの声、、。

2005年に観た『鷹姫』では、 泉とそれを取り囲む岩(に扮した地謡)によって、 森の中にぽっかりと空いた泉という異空間に意識が集中していたように思いますが、、 今回はその周りや背後に精霊たちの響きあう「声」があることによって、 「自然界」そのものがあることをより強く感じることになったと思います。

だから最後、、 水を求め続けた者は「岩」に捕らえられ、 魂は幽鬼となって永遠にさまよいつづけることになるのだけれど、、 森・空・大地、、 それらは何ひとつ変わることなくそこに在り続けるのだと、、 そんな気がしました。

舞台が暗転して、 夜が明けてくるように、、 左からひとすじの光が差し、、 夢幻の時間から醒めたように舞台がまた明るくなって、、、

アンコールで ケルティックコーラスにアレンジされた「さくらさくら」を歌ってくださったのですが、、 歌声だけで、枯木の森をみごとに桜の空間に変えて下さいました。 それだけでもじゅうぶんなほどだったのですが、 そのあと「もののけ姫」のテーマ曲を歌ってくださって、、 なんだかわからないけれど、、 (私はどちらかというとジブリ作品が特に好きなほうではないけれど…) 涙がいっぱいいっぱい溢れてきました。 、、きっと、 日本古来の自然観と、 ケルトの人々の自然を敬い畏れ愛おしむ精神と、 なにも隔てるものがない一体感に嬉しさでいっぱいになったのだと思います。

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ツイート
のほうにも載せた、 イェイツの原作「At The Hawk's Well」が読めるサイトを (エドマンド・デュラック Edmund Dulac によるイラストもぜひご覧を)
https://archive.org/details/fourplaysfordanc00yet

1916年の初演の鷹姫は 伊藤道郎という男性が演じられたのだそうです。こちらに写真が
http://numerocinqmagazine.com/

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2005年に観たときの「謡」のコピーが見つかったので、 それをあらためて読んでいます。 昨日見たときも、 舞台脇に日本語と英語のスクリプトが映し出されていましたが、、 その中で気になった(単に個人的に印象に残ったという意味です)ことがあって、、

それは、、「curse」という英語、、。 謡でも 「呪ひ」…とうたわれていましたが、、 現代人にとって、 (ホラー映画の影響があり過ぎるせいか) curse = 呪い という言葉はとても強烈に感じられますよね、、。 鷹姫は「呪い」をかけたわけですが、、 今わたしたちが想像する「呪い」とは違うんではないかと、、

確かに、 イェイツの原文でも 「curse」という語を使っています。。 その意味・・・

・・・それはまた、、 近いうちに、 漱石のカテゴリーで考えられたら、、と思っています。


、、、 暖かい嵐の 一日でした。

、、 妖精の輪に さらわれぬよう・・・ よい休日を。

『ジェニーの肖像』 翻訳のはなし

2016-12-22 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
何かに誘われるように自分にプレゼントしてしまった レコードプレイヤーのおかげで、 しばし夢中に遊んでしまいました・・・ そろそろ本筋へ戻さないと、 年越してしまいます・・・

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15日に書きました、 『ジェニーの肖像』について・・・

翻訳のことを ちょっとだけ書いておきましょう。

以下は、『ジェニーの肖像』の冒頭の部分、、 まずは ロバート・ネイサンの原文から


There is such a thing as hunger for more than food and that was the hunger I fed on. I was poor; my work unknown...(略)

When I talk about trouble, I am not talking about cold and hunger. There is another kind of suffering for the artist which is worse than anything a winter, or poverty, can do; it is more like a winter of the mind, in which the life of his genius, the living sap of his work, seems frozen and motionless, caught ― perhaps forever ― in a season of death; and who knows if spring will ever come again to set it free?


、、 何度か読んでみましたが、 ひとつひとつの単語はそんなに難しくはないのに、 日本語にしようとすると なんだかすごく難しそう、、 勿論 わたしの英語レベルが中高生レベルなせいもありますが…

 ***

次は、 創元推理文庫 大友香奈子 訳 から、、


 食べ物にたいするよりもっとひどい飢えというのがあるもので、その飢えを糧にしてぼくは生きていた。ぼくは貧しく、ぼくの作品は全く知られていなかった。・・・(略)

 悩みについて語るとき、ぼくは寒さや空腹のことを言っているのではない。芸術家にとってはまたべつの苦しみがあり、冬や貧乏がもたらすものより始末が悪いのである。それは心の冬とでもいうべきもので、そのなかでは芸術家の才能の源や、作品のはつらつとした生命力などは凍りついて動かなくなり―-もしかすると永久に――-死の季節に捉えられてしまったのだろうかと思えてくる。いつかまた春が来て、自由になれるかどうかなんて、だれにもわからない。

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次は、 ハヤカワ文庫 井上一夫 訳から、、


 飢えのようなものだが、食物に対する飢えよりももっと激しいものがある。 わたしが悩んでいたのはそういう飢えだった。もちろん、わたしは貧しかったし、わたしの絵は知られていなかった・・・(略)

 わたしが悩んでいたのは、寒さや空腹ではない。芸術にたずさわるものにとっては、もっと違った種類の苦しみがあるのだ。冬だとか、貧乏などによる苦痛よりももっとひどい苦しみである。それは心のなかの冬とでもいうようなもので、そこでは才能の生命や制作の生気が凍えついてしまうらしい。この死の季節に永久にとらえられてしまったようで、解き放してくれる春が来るとはだれが知ろう。

 ***

次は、 偕成社文庫  山室静 訳から、、


 飢えというものには、ものを食べないための飢えよりもひどいのがある。そして、それがわたしにとりついていた飢えであった。わたしは貧しく、わたしの仕事は、世間からみとめられなかった・・・(略)

 わたしが苦しんでいるというときには、寒さや飢えのことをいっているのではない。芸術家にとっては、冬や貧乏があたえるものよりもちがった種類の、もっとたちのわるい悩みがある。それはむしろ心の冬に似ている。そういうときには、芸術家の才能のいのちが、芸術家の作品の生命の汁液が、こおりついてはたらかなくなり、死の季節にとらえられているかのように思われるのだ――-おそらくは永遠に。しかも、春がまたいつかやってきて、その氷をとかしてくれるかどうかは、だれにもわからないことなのだ。

 ***

最後の 山室さん訳の偕成社文庫は 青少年向けの文庫なので、 解説にも書かれていますが、 「少年少女諸君にも、多少読みよい文体にあらためて」… と、文体が変更されているようです。 もともとの、 第二次大戦直後に出版されたときの最初の訳も 読んでみたい気がしますが・・・

、、 それはともかく、、

もともとの ネイサンの文体をどう捉えたら良いでしょう。。 山室さんも書かれていたことですが、 私も なんだか 「散文詩」的な印象を受けました。 「詩」のようだと、、

、、 おそらく この「文体」も含めて、 読む人は この青年画家がどんな人となりで、 どんなことに心を痛める人物なのか、、 そして 彼が 「心の冬」と呼んで苦しんでいるものが 一体どのようなこと、、 どんな芸術のあり方を彼は求めているのか、、 そんな点までも読者は感じ取ることになるんじゃないかしら? と思います。

、、翻訳って ほんとうに難しい。。 論文とか、 トリセツのような、 「正確さ」だけが重要なのではないもの。。。 とりわけ、 この本のように ファンタジックな、 現実を超えたところに真実を求めるような、、 そして 情景のそこかしこに「詩情」が込められている文学には・・・。


ともかく、、

『ジェニーの肖像』・・・ 青年画家の 凍てついていた芸術の心を溶かしてくれる少女の物語。 、、いつまでも 胸に残るお話、、

、、(あくまで私的な好みでなら、、) また読み返すとしたら、 やっぱり 山室訳かなぁ、、。 日本にムーミンを紹介してくださった山室さんの、 この作品を愛する「心」がみえる訳文だと思うから。。

 
・・・あ、、そうだ
ナット・キング・コールの歌う 「ジェニーの肖像」という歌があります。 映画で使われたのかな?

Nat King Cole - Portrait of Jennie (Capitol Records 1948)

、、わぁ、、 このジェニーは…  大人過ぎません?(笑)



ジェニーの肖像 / ロバート・ネイサン著

2016-12-15 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
先日書きました ポール・ギャリコの『スノー・グース』(>>)、、

孤独な青年画家ラヤダーと少女との心の交流の物語を読みながら、、 二十数年前に読んだべつの本のことを思い出していました。。 やはり、 貧しい画家の青年の前にあらわれた不思議な少女の物語、、 『ジェニーの肖像』。

、、ギャリコの『スノー・グース』のときに、、 結局、読み終えて・・・好きになれなかった、、と書いたけれど、、 それは 物語のラヤダーや少女が好きになれなかったのではなくて、 ギャリコの創作の意図を 私なりに感じ取ってしまった結果、 好きになれなかったのでした。。

、、それは、 物語の最終的な持っていきどころが、 障害を持ったラヤダーにとっての「アイデンティティ」の問題になっているように私には思えて、、 でも、物語の中で呼吸している人物ラヤダーのものというよりも、 結局、 作者ギャリコが求める = よしとする「価値」の追求だったのだと、、 そう感じられた部分が、納得できなかったんです。。

、、で、、 画家と少女、という設定だけの共通項で、、 だけどもう読んだ記憶も遠くなっていた『ジェニーの肖像』、、 どんなだったかしら・・・ と読み返したくなって、、

 ***



二十数年前に読んだのは、 一番上の 偕成社文庫、 山室静 訳 でした。 
、、2005年に 新訳で 創元推理文庫からも出ているのを知り、 今回は そちらも読みました。 (大友香奈子 訳) 、、 この創元推理文庫の中には、 もう一作品 『それゆえに愛は戻る』も収録されてて、 そちらも読みたかったんです。

、、 で、、 山室訳と、 あまりにも印象が違ったので、、 いったいどうしてだろう・・・と思って、 さらに 過去に出ていた ハヤカワ文庫の 井上一夫 訳、 のまで取り寄せてしまった、、と。。。

、、でも、 それぞれの訳についての話は、、 今しばらく横において置いて・・・

 ***

12月9日は 百年目の漱石忌でしたね。

、、 (墓の傍で) 「百年待っていて下さい」・・・ 「また逢いにきますから」
・・・と言う 黒い瞳の女性を、 漱石は『夢十夜』で書きましたね、、。

、、同じように、 『永日小品』の中の 「心」という作品の中でも漱石は、、

 「たった一つ自分のために作り上げられた顔」をした、、 「百年の昔からここに立って、 眼も鼻も口もひとしく自分を待っていた顔である。 百年の後まで自分を従えてどこまでも行く顔である。 黙って物を云う顔である」

、、 そんな女性を描いていますね。。

どうしても、 そのことを想い出してしまったのです、、『ジェニーの肖像』を読み返しながら、、。

 「あなたが来てほしがってるんじゃないかって思ったの、イーベン」(第6章 大友訳)

、、 そんなふうに 画家の青年の部屋にあらわれ、、 そして 

 「できるだけ早く戻ってくるわ・・・」 「待っててね」(第9章) 、、と 告げて また時の狭間に消えてしまう、、少女。。


、、漱石がもし 『ジェニーの肖像』を読んだら、、 或いは(1948年の映画にもなっていますね) 映画をもし漱石も見たら、、 などと考えてしまいます。。 だって両作家とも、 作品に込めた思いは同じ、なのですもの。。。

漱石ばかりではありませんね、、 エドガー・アラン・ポーの詩でうたわれる女性や、、 今年の夏に読んだ、 ヨハン・テオリンのミステリー  『冬の灯台が語るとき』(>>)も、、 主題としては 最愛の人との時空を超えた魂の交流、、 というものがあったと感じています。

 ***

『ジェニーの肖像』・・・ 考えてみれば、 画家イーベンは、 ある日 ふいに少女と出会うのですが、、(言い換えれば 少女はふいにイーベンの前へ姿を現すのですが)、、 何故イーベンなのか、 という説明はどこにも無いんですよね。。。 イーベンは特別な男の人でもなんでもない、、 (特別な才能を秘めた駆け出しの画家なのかもしれないけれど) まだ全然絵も売れず、 家賃も払えない貧乏な画家、、  都会にはそんな男性は・・・ 山ほどいるはず、、 

何故 イーベンのもとへ・・・?

、、 漱石だって同じことです。 何の根拠も無いけれども 「たった一つ自分のため」だけに 現れてくれる女性・・・ 

 「あなたが来てほしがってるんじゃないかって思ったの」・・・  そんな文章を 臆面もなく書いてしまう男の人って・・・すごい、、(笑) 、、男の人ばかりじゃないのかしら・・・ でも 今まで読んだのは全部、男の人が書いたもの、よね? 

、、決して茶化しているのではないです・・・

創元推理文庫版の解説(恩田陸による)の中でも、 その点には触れられています、、 「愛するものを失うこと」 「予め喪われていること」、、の意味、、

画家イーベンの前に少女があらわれてくれるのも、 夢十夜の墓の前で百年待つ男の前に 白百合が咲いてくれるのも、、 まさに 「こんな夢をみた」、、という 「夢」の物語であり、 想像とも 理想とも 憧れとも、 幻ともつかない・・・ そんな儚いものがたり。。

だけど・・

・・・だから、、 ゆえに、、

、、ひとが 物語を永遠に求める意味も、、 そこにあるのではないかしら、、と・・・

 ***

先にあげた『冬の灯台が語るとき』の中で、、 クリスマスの本来の意味のこと、 書きました。 贈り物を介した〈今ここにいない人〉との魂の交流、、のこと。 
、、 夜中にトナカイの橇に乗ってやって来るサンタさんの為に、 窓をほんの少し開けて クッキーと紅茶を添えておく、、 という習慣が西洋にはあるようですが

それは もともとは、 子供たちにプレゼントを届けてくれるサンタさんではなくて、 もしかしたら天上の馬車が連れてくる〈誰か〉の魂のこと、、だったのかもしれないな と想います、、、 そのようにして物語がつむがれて 受け継がれて、 サンタさんがうまれて、、

、、だから、 今年は そんな本来の想いも込めて、、 クリスマスを迎えようと。。 星々になった魂を想って・・・


、、翻訳の話は、、 また今度ね。



物語は終わらない。。 『灯台守の話』 

2013-05-10 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
先ごろ、 火星への片道切符、というニュースが話題になりましたね。 すでに何万人もの応募があるんだそう、、 そんな夢物語みたいなとか、 ほとんど自殺行為のようなとか、、 「あり得ない」イメージで言われてますが

スコットやアムンゼンが南極点に行ったのが 1912年のこと、 

「スコット大佐が南極をめざしたのは、もう他に探検する場所が残っていなかったからだと、本の序文には書いてあった。・・(略)・・ 一九六九年に人類が月に行くなんて、誰も想像すらしなかった時代だ」

、、と先日読んだ本に書いてあって、 なるほどと思いました。 南極探検から57年後には人は月の上を歩いてちゃんと帰ってきました。 想像もできないことが50年くらいで可能になるなら、 いずれ火星に移住するのだってあり得ないことじゃないのかもしれません。。。

 ***

先に引用した本は、 『灯台守の話』(ジャネット・ウィンターソン著/岸本佐知子訳 白水社)


でも、 南極や月探検の話ではありません。 スコットランドの北の涯ての海辺に 母と住む少女の話。 

「二人の家は崖っぷちに斜めに突き刺さるようにして建っているため、母娘はつねに命綱でしっかり体を結び合っている」(あとがきより)

、、というちょっと「あり得ない」ような家が 物語の始まり。 、、しかしある日、 母を失い孤児になってしまった少女(と犬)は、 養い手を探す張り紙を町に貼り出され、 応募してきた灯台守の老人と灯台で暮らすことになる。

母娘の住んでいた家も、 娘の行き先を「張り紙」で募るのも、 いろいろと「あり得ない」不思議さで、 これは何か寓話的なファンタジーかしらと思って読んでいると、、、

少女が暮らすことになる灯台は、1828年に建てられたもので、 設計者はロバート・スティーヴンソン、 『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』を書いたRLスティーヴンソンの祖父、、 という記述が出てきて、 おとぎ話が一気に現実の歴史と咬み合って、 突然あのスティーヴンソンの痩せた肖像とか、19世紀のスコットランドの辺境の船宿とか、 現実感が急に増して (本当にあったお話なの?) と考えてしまう。

灯台で暮らすことになった少女は、 灯台守の老人からたくさんの物語を聞きながら育っていく。 100年以上にわたる物語。 

 ***

しかしやがて、、 時代の流れとともに 灯台を去らなければならなくなった少女。 ひとりで生きていかなければならなくなった少女。

そこから先の彼女=シルバーが、 (唐突な喩えだけど…)なんだか私には 映画『ドラゴン・タトゥーの女』のリスベットみたいに思えて、、。 ああいう事件と関わるとかではなくて、 彼女の孤独とか、 人とのかかわり方とか、 求めているものとか、、 そのぎこちなさ、 せつなさ。

そう思いながら全部を読み終えて、 「あとがき」で作者ジャネット・ウィンターソンの背景を読んだら やはり、、という思いでした。 孤独で、 困難な子供時代を送らなければならなかったこと。 

そういう自らが背負った過去の重さを 「物語る」くだりは、 正直であり、 切実であり、 とても心に迫るものがある一方で、 「物語る」ことで自分を支え、自分が自分であり続けるために「物語」を書いている限りは、 その自分を重ねた部分だけがやっぱりそこだけ浮いたみたいになってしまう。 すごく力のある物語だけど、 そこだけ物語の向こうに作者の姿が透けてしまう。 難しいな、、と思いました。  

 ***

でも、 すごくいい表現にはっとさせられるところが一杯でした。 まるで箴言集のような。。

いちばん好きなのは・・・

「お話して、 ピュー。

 どんな話だね?
 ハッピー・エンドの話がいいな。
 そんなものは、 この世のどこにもありはせん。
 ハッピー・エンドが?
 おしまい(エンド)がさ。」

灯台守ピューの語る物語をちゃんと味わうには、 R・L・スティーヴンソンの作品(ジキル・・・)はちょっと読んでおいたほうがいいかも。。 お話の中で、 スティーヴンソンがこの灯台を訪れたことになっているんだけど、、 本当なのかな? たくさん旅はした人のようだけど、 この最果ての地まで行ったのかな…
 
スティーヴンソン、、 また読んでみよう。

R・L・スティーヴンソンに関する過去ログ>> さらに>>

 ***

ところで、、 この物語のモデルになった灯台が、 スコットランドに本当にあるのですって。。。 ケープ・ラスをgoogleマップで探す、、、
うわぁ ほんとうにスコットランドの一番北の果てだ。。。 まわりには都市や鉄道も見当たらない、、

どんな極寒の地かと思ったけれど、 こんなに美しい場所でした。 もちろんこれは夏の間、、ね。
http://www.capewrath.org.uk/index.htm

↑このサイトに載っているカフェ、、 すご~く行ってみたい!!

ジュール・シュペルヴィエルの小説 3 『日曜日の青年』

2013-02-08 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
『日曜日の青年』思潮社 1980年 嶋岡晨訳
1952年 68歳のとき刊行。

正確には この作品は3部から成っていて、 最初 『日曜日の青年』が発表され、 のちに『後日の青年』と、 『最後の変身』が書かれて 1955年に長編小説として刊行された。 そのとき71歳。

晩年の作品だけれども、 主人公は18歳の青年で今回は生粋のフランス人。 文学をやりはじめたばかりの主人公フィリップ・シャルル・アベステーグは、 南米からパリに来て住んでいる既婚女性オブリガチオンにスペイン語を習っている。 そして彼女に恋をしている。 その恋心の遍歴の物語。

ストーリーを語ってしまうのは この作品にはよくないと思うのでごく簡単に言うと、、 ある時オブリガチオンを怒らせてしまい 「出てってちょうだい」と彼女に言われる。 部屋を追いだされたアベステーグは、、「この部屋を去りたくない」という願いと、 「姿をあらわすまいと気をつかい」、、 その葛藤によって 「一匹の蠅」に変身してしまう。

「蠅」となり、 つぎには「猫」になり、、 あげくは、、 「オブリガチオン=彼女自身」になってしまう話が 『日曜日の青年』

『後日の青年』では、 小人の医学博士に変身、、

『最後の変身』では、、 とうとうアペステーグ=青年自身として彼女の愛を掴むが・・・ 「最後の変身」が・・・

 ***

恋する青年版のグレゴール・ザムザ? さまざまに姿を変える「吾輩は猫」? (漱石だって「猫」を描写したかったんではなく漱石自身が「猫」だったんだし、、)

「解説」で訳者は、 シュペルヴィエルの「身体」という詩を引用して、 「日曜日の青年のテーマの一つは、あきらかに、右の詩がかたる、肉体という精神の器、あるいは住居と、そこによんどころなくおさまっている精神との、相克にある」 と書いている。

でも、 私が思い出したのは 「心臓」という詩。 この詩は「ピラールに」と「妻」になる女性に捧げられている恋の詩。 はじまりは・・・


僕が家主のこの心臓 / 彼は僕の名さえ知らない / 彼は僕について何も知らない / 僕の未開な部分以外。

、、とはじまる。 、、この詩の第二連↓


女人の美しい顔よ / 空間に囲まれた物体よ / あなたにどうして / お出来になったか / 悠々と歩いて / この僕にも入り得ない / そして一日は一日と聾(つんぼ)になり / 頑(かたくな)になって行く / この僕の心臓の島へ / お入りになることが。 / 自分の家に入るように / 平気でそこへ入ることが / 時刻に応じ、場合に応じ / 手を延ばし / 書物を把ったり、窓を閉めたり / どうしてお出来になるか。 …略…(堀口大學訳)


「恋」におちた青年の胸の動悸を、 あたかも心臓の中に想いの女性が住まって 好きにふるまっているかのように感じる、、 その感じがよく表れています。 シュペルヴィエルは「心臓」が悪かったそうです。 不整脈に悩まされていて、、 普段は自分(=精神としての自分、 或いは心臓以外の思うがまま動かせる手足のような身体機関としての自分) の意図と関係なく変調してしまう心臓をもどかしく感じていたのでしょう。 自分ですらどうにもできない「心臓」なのに、、 恋の相手の女性は やすやすと僕の「心臓」に入り込んであやつってしまう!・・・とね。

だから 第三連でこう叫んでいます。 (↓注:彼とは心臓のこと)


彼の生命(いのち)の周囲を / 僕がとり巻いているのだと!


こうした 精神と器との「分離」、「乖離」をつねに感じていたことが シュペルヴィエルの生涯にわたる基盤になっていたんでしょうね。。 精神、、というか 言いかえれば「魂」、、。

「魂」と「器」と言いかえれば、、 その魂のありどころ=すなわち「故国=南米」と、 現時点での器=異邦人として住んでいる「パリ」や、 魂を運ぶ「船」や「海」、、 そういう関係がみえてきます。

 ***

シュペルヴィエルは今回の 『日曜日の青年』のように、 魂と肉体の「乖離」も描いた代わりに、 肉体と分離した「魂」の「自由」も たくさん書いていますね。。 「沖の小娘(海の上の少女)」とか。

、、でも おもしろいと思ったのは、 この作品の第三部 『最後の変身』の中に書かれたつぎのような文、、


現実界は、空想界に必要な緩和剤だ。 内部宇宙は、そのままにしておくと、ほとんどつねに、固定観念による不条理な単純化をまねく。…


「逆」じゃないんですよね、、 「空想」が緩和剤、、ではなくて。 、、だから 解説者はシュペルヴィエルについて、 シュールレアリスムとは距離をおいていたといい、

「現実に対してたえず攻撃的であり破壊的であり、意識下の世界に偏執するダリやブルトン系列に、『日曜日の青年』の作者をくわえ得ない」 と書いている。


シュペルヴィエルの詩の変遷もいっしょにたどっていったら もっといろいろと解る気もするけれど、、 とりあえずここまで。 
、、評価された時期はずれるものの 作品を書いていた時期はボルヘスとも重なっているのね。。 シュペルヴィエルとボルヘス、、 つながりはあったのかしら・・・?


ジュール・シュペルヴィエルに関する過去ログ>>

ジュール・シュペルヴィエルの小説 2 『ひとさらい』

2013-02-07 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
『ひとさらい』大和書房 1979年 澁澤龍彦訳 (薔薇十字社刊 1970年もあり)
1926年 42歳のとき刊行。

タイトルのとおり、 子供をさらってくる男の話。 、、でも 悪質な目的で、というより、 不幸な境遇にある子供を自分の家に住まわせ、 何不自由なく暮らせるようにするのが目的。

この男=ビガ大佐の背景はあまり詳しく書かれないのだけれど、 南米の出身で政治的に失脚して国を離れ、 今はパリに住んでいる。 夫妻には子供が無く、 それも子供をさらう理由のひとつではあるけれども、、 かと言って 恵まれない子を助けたいという慈善の意思だけでもないようだ。。

「子供たちを盗んだのは、わたしの中のアメリカ人だ」、、という言葉が終わりのほうで出てくる、、 ここでの「アメリカ」とは「南米」ということ。 この作品でも 「南米的」な何かが主人公を突き動かしているのがわかる。。 家長的なもの、、 大家族のあるじになるという憧れ? それによって失脚した「大佐」という自分が補完されるということ?

読みはいろいろとできるだろうけれど、 澁澤さんがこの作品に惹かれたのはそんなところではないだろう。 <あとがき>で書いているのは、、「さらわれてくる子供がたくさん出てくるけれども、それらの子供を描き出す作者の筆がじつに卓抜で、やさしくて、また時にユーモラスでさえあるのは、詩人シュペルヴィエルが同時に散文作家としても、したたかな一面を持っている証拠のように私には思われる」、、 という「描写」の妙につきるのではないかな。。

澁澤さんが 「好ましい」と書いている最初の、 アントワアヌという子供がさらわれる場面でも、 連れ去られるアントワアヌは 自分の状況にとまどい不安になりながらも、 不思議な「夢見ごこち」にとらわれているように書かれている。 自分がこれからどうなってしまうのか、、 怖いというよりも、 どこかうっとりとした、、、

 ***

思わぬいきさつで、 大佐は少女をひきとることになるのだけれど、、

ここから大佐が、、変わってしまう。。 少女に恋してしまう。。。 立派な淑女に育て上げるつもりの家長でありながら、、、

「ナオミ」を見つめる谷崎潤一郎の眼、、というよりも、 この作品の大佐と少女はまさに「バルテュス」の絵! ずっとバルテュスの絵が頭から離れませんでした。 澁澤さんの翻訳だから尚更、、なのかな?

大佐の部屋のドアが開いているのを承知で、 そこから見えるソファで「狸寝入り」をする少女、、 などまさにバルテュス、、でしょう?

、、でも 松岡正剛さんによると、、 そのようにバルテュスに「病んだ精神身体」を見るのはまちがい、、だそうなのですが、、 (千夜千冊『バルテュス』>>

 ***

バルテュスはさておき、、 養父という自分と 恋する男という自分のあいだでうろたえる大佐の姿も、、 やはり「南米的」なものと、 「パリ」的なものとのせめぎ合いとしてとらえることも出来そうです。 、、なぜなら、 最終的に大佐はほんものの「家長」となるべく 船に子供たちをのせて大西洋を故国へ帰ろうとするからです。

ですが・・・

、、澁澤さんは シュペルヴィエルを「ずいぶん意地わるなひとだと思う」と書いていますが、 そうやって苛まれうろたえる大佐を シュペルヴィエルが「意地わる」な眼で描いたと同じく、 澁澤さんも翻訳しながら「意地わるく」楽しんでいたに違いないと思えるし、 (みんな意地わるなんだから、、)と思いつつ 私も楽しんで読むのでした。

、、さらわれてきた子供のひとり、、 悪ガキのジョゼフもなかなか魅力的で、、 この作品はバルテュスの挿絵はムリとしても、 澁澤さん訳で、 誰かの挿絵で、 そういう美しい本になったら素敵だと思います。

金子國義さん…  ちょっと刺激的すぎ?


ジュール・シュペルヴィエルの小説 1 『火山を運ぶ男』

2013-02-06 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)


シュペルヴィエルの中~長編小説を3作まとめて読みました。 うまく書けそうもないけど少し感想書いておこうと思う。

前に読んだ短編…『海に住む少女』の繊細さ、はかなさ、 『ノアの方舟』のそこはかとないユーモアと慈愛、、 それらのイメージとはかなり違う。 もっと荒唐無稽で、 シュール、、 滑稽、 意地悪? あるいは 哲学的・・・

ロートレアモンのところでも書いたけれど(>>)、 南米の大草原や大農場のもとで育ったラテン気質と、 フランスと南米をなんども船で行き来していた「移動」や「変転」のイメージが どの作品にも強く出ていて、、 たしかに『海に住む少女』などの短編でも さまざまな「変身」は書かれていたけれど、 短編作品のファンタジックな、 天使のはからいのような「変身」とはちがって、 長編作品の中の「変身」は もっと実存主義的な意味合いがある感じ。。

『日曜日の青年』の解説のところに 「ラテン系のホフマン」とあったけれど、、 「ラテン系のボリス・ヴィアン」、、 みたいな感じもした。 

 ***

『火山を運ぶ男』(妖精文庫〈24〉) 月刊ペン社 1980年 嶋岡晨訳
1923年 39歳のとき刊行。 原題は(パンパ=大草原 の男、という意味)

<訳者あとがき より>
南米の大草原(パンパ)をわがものとしている五十男、大地主(エスタンシエロ)のグアミナルは、人生への倦怠をまぎらわせるため、人工的に火山を構築するが、新聞でたたかれる。生まれた国への愛想づかし、グアミナルは、火山を解体し、パリに運ぶことを思いつく。


どうして「火山」なんだろう、、 「火山」ってなんだろう。。。

確かにフランスに火山無いからね、、 「山」すらほとんど無いからね、、。 フランスはどこを見てもミレーの絵画みたいにずっと平坦で 彼方に高い山が見えるでもなく茫洋としているんだって 仏文の先生が言ってたっけ。。 

だからきっと「火山」なんだろうな。。 南米的な何か。 南米的父性とか、 男性性とか 野生とか、、 ラテン的熱情みたいなもの。。

、、だけど 海を渡ってパリにやってきたものの、、 なんだか「火山」の出番がないぞ、、(笑)

、、しまいに 「爆発」してしまうのは主人公グアミナルのほうだったりして。。。 なんだか ヴィアンの『北京の秋』にでてくる マンジュマンシュ先生を思い出した・・・


好きな部分は、、 大西洋を航海中 人魚(セイレン)が捕らえられて、 船長とグアミナルと人魚の3人で酒をのむところ。 人魚は船にへばりついて、 髪から薬液を発して船を麻痺させて沈めるんだって、、 すてき(笑)

この人魚は「825号」って名前なんだけど、、 シュペルヴィエルの短編に「人魚八二五」という作品があるらしい。 翻訳は… されてないのかも(検索しても出てこないから)。。。 こういう風に、 小説の中のモチーフが別の短編とか、 詩になっていたり(逆かも、、 詩→小説?) そういうのも面白い。

 ***

もうひとつ、、 トリヴィア的な覚え書きとして、、

『シュペルヴィエル抄』(小沢書店)の年譜によると、 シュペルヴィエルは第一次大戦中の1914年、 軍の情報部で 郵便物の検閲をしていたところ、 「ここに接吻します」とだけ書かれた不審な空白のある手紙から 「あぶりだし」メッセージを発見し、 それがかの有名なマタ・ハリの逮捕につながったそう。。 すごい話ですね、これ。

で、、 たぶんその体験を使った部分が 『火山を運ぶ男』にも出てくる。。 電燈に透かすと文字が読める手紙、、 それによって女と出会うことが出来る。 

 ***

ストーリーとして面白いとか読み応えがあるとか そういう観点よりも、 パリの中の南米男という「相容れなさ」「ぎこちなさ」、、 異邦人として外界を見つめるその違和感の描写力は さすが詩人だわ。 

外界との相克によって 自己はますます肥大していく、、 「私」とは何? 何者? そのテーマは 『日曜日の青年』にも共通していくのですね、、、 そちらの作品についてはまた。


『ひとさらい』大和書房 1979年 澁澤龍彦訳 (薔薇十字社刊 1970年もあり)
1926年 42歳のとき刊行。


『日曜日の青年』思潮社 1980年 嶋岡晨訳
1952年 68歳のとき刊行。


ジュール・シュペルヴィエルに関する過去ログ>>


音楽をひびかせるもの… :『地主の家の物語』セルマ・ラーゲルレーヴ

2013-01-17 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
先日の日曜日の新聞に、、 ピアニストの舘野泉さんの「思い出す本」として、 ノルウェーの作家シランパアの『若く逝きしもの』という本が紹介されていました。



シランパア、という名が初めてだったので興味深く読んで、 それから図書館のデータ検索をしてみたところ、、 なんと都内全域で2冊くらいしかないのでした。 もちろん絶版、 古書店の検索データにも無かったかな。。 

ちなみに、 「シランパア」 「シランペー」 「シランペエ」と本によって表記もいくつかあるのがわかりました。 検索する時はいろいろ当たってみると見つかるかもしれません。

、、 舘野さんの文章の中でもうひとり取り上げられていたのが スウェーデンの作家 ラーゲルレフでした。 (こちらも「ラーゲルレーヴ」 「ラゲルレフ」 「ラーゲルレーフ」といろいろあります) 

ラーゲルレーフでは20年ほど前に 『幻の馬車』(石丸静雄訳・角川文庫)を読んでいて、、 「幻の馬車」とは 人が亡くなる瞬間にその魂を迎えに来る「冥府からの馬車」のことで、 この作品では 若い女性救世軍兵士と、 堕落した肺病みの男とが、 生命の最期のときに 「幻の馬車」の馭者を通じて互いの魂を交流させるという物語でした。 幻想的でありながら、 テーマはとてもリアルな 人間としての「善きこと」「善きもの」というテーマだったと思います。

とても印象に残る作品だったので、 ひさしぶりにラーゲルレーヴの他作品を読んでみようかと、、

 ***

わりと新しく出版されたものがあったので 『ダーラナの地主館奇談』(日本図書刊行会 2001年)を読むことにしました。



「精神錯乱を来した青年」と「少女のひたむきな愛」(Amazon.co.jp>>)、、 という紹介文にも興味をひかれたんだと思います。

ダーラナの地主の息子で ヴァイオリンを奏でることが大好きな青年は、 大学での学業の妨げになるからとヴァイオリンを取り上げられてしまいます。 そんな時、 盲目のヴァイオリン弾きと大道芸人の一行に出会います。 その時が少女との最初の出会い。

そののち、、 ある出来事がきっかけで青年は正気を失ってしまいます。 憐れな身なりの行商人となって 村の子ども達にからかわれながら家々をまわって雑貨を売り歩く日々。 一方、少女も大道芸人のもとを離れ、 牧師の養女となって暮らしていました。

こうして、、 お互いにかつて会った「大学生と少女」とは気づかずに、 ふたたびめぐり会います。


おとぎ話のような雰囲気もあり、 「眠り姫」や「王子と乞食」や「美女と野獣」のようなモチーフがいろいろ感じられるお話。 青年の心を元どおりにするために、 ヴァイオリンがやはり出てくるのですが、、 いいなぁ、、と思ったのは、 青年がヴァイオリンの「声」を聴くところ。

正気を失っていても、 青年はヴァイオリンの「声」を感じることは出来て、 ヴァイオリンが何かの「気配」を感じて いつものように鳴らなかったりする。 あるいは、 少女が青年の心を癒そうとするときも音楽が役目をするのだけれど、 それだけでは本当の治癒には至らない。。 音楽がそこに「ある」というだけではダメなんだね。。 

 ***

少女が、 青年に「弾いてくださいな」と頼む曲が、、 ウェーバー作曲の「魔弾の射手のワルツ」、、と書いてあったので、 聴いてみたくなって調べてみました。

『魔弾の射手』(Wiki>>

↑このオペラの中で奏でられるワルツ曲なのだそうです。。 それを探しているうちに、 このラーゲルレーヴの物語が、 バレエ作品として演じられているのが見つかりました。 スウェーデンの王立バレエ団によるものみたいです。 初めに流れるのが その「ワルツ」なのかな?

[Arthaus 101384] SANDSTROM: The Tale Of A Manor

正気を失った行商人の青年と、 もともとの青年の姿と、、 ダブルキャストで演じているようですね。。 スウェーデンといえば、 皆さんエルフのように長身の方が多いですが、 このバレエを見ても 脚長い~。 つま先立ちで踊ると身体の三分の二が脚のよう。。。(笑)

私も小説を読んでいる間、、 この作品は無声映画か パントマイム劇のような感じで劇化したらきっと良いだろうなぁ、、と思っていました。 青年役は、、 栗原類くんが良いとおもいます、、(唐突にすみません)。 心を病んだ青年は、 つねに周りに怯えていて 犬や猫にまでおずおずとおじぎをしていたりするのですが、 ずっと類くんのイメージが頭に浮かんでました、、

、、以前見たこんなイメージで、、↓ 

栗原類くんがダークキャラクターに扮した時の… (numero.jp/numeroeditorブログ>>

 (といっても私、TV見ないので彼が言葉をしゃべっているところ、まだ一度しか見たことないんですけど…)

 ***

話をもどしましょう。。 ちょっと苦言ですが、、 上記の『ダーラナの~』なんですが、、 もうすこし翻訳文がなんとかならないか、、という感じで。。 訳文を箇条書きに連ねたらこんな感じかと、、 ストーリーは確かにつかめるのですが、、

なので、 佐々木基一さん訳のもの
(『地主の家の物語』角川文庫1952年)か、 
古くは生田春月訳 (『新潮社 世界文学全集〈第27巻〉北欧三人集』1928年)をさがして読んでみるつもりです。


夏休みの読書 『エドガー・ソーテル物語』

2012-08-17 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
『エドガー・ソーテル物語』(デイヴィッド・ロブレスキー著/金原瑞人訳 NHK出版・2011年)



長い長い物語です。 写真で分厚さがちょっと伝わるといいんだけど… 
上下巻でなく こんなぶ厚い物語を読んだのは、 小3の時の 完訳の『宝島』以来ではないだろか、、 子供心にこんな厚い本が読めるわけない、、と思ったものです。。 まるで辞典。

『宝島』を想い出したのは 本の厚さばかりじゃなくて、 内容も 少年が長い夏休みに読むのにちょうどいいと感じたりしたからかもしれない。

例えば、、 田舎に伯父さんとか、 お祖父さんとか親戚があって、 農家とか酪農とかやっていて、 そこに1,2週間遊びに行く、、 親と一緒じゃなくて一人で。 おじさんたちは仕事があるから たまにそれを手伝ったり眺めたり、、 でも 放っておかれる時間もあって、、 ひとりで農機具小屋を探検してみたり、、 近くの森や川まで行ってみたり。。。 今どき、 どれだけの子供がそんな経験ができるかわからないけれど、、 そんな時間の中でたった1冊だけ持っていくのに最高の本、、 と思いました。 13,4歳以上なら読めるかな、、

↑の 田舎の体験は、 まさに私自身の子供時代の思い出なのだけど、、 この本を読みながら、 ずっとそんな田舎の光とか 風とか 動物の匂いとか 未知の土地の広大さとか、、 いろんなことを想い出しました。 ひと夏で ひまわりみたいにぐんと成長してしまうんだけど、、 でも、 知らない世界を知ることは、 悲しみや 不条理を知ることでもある。。

 ***

本の扉に 紹介文が載っているのですが(Amazonなどにも同じ文が載っていますが)、、 むしろあれは読まない方がいいような気がします。 前もってわかってるのは最小限の方がいいと思うな。

米ウィスコンシン州の農場で ソーテル犬と呼ばれる大型犬(どちらかと言うと大型だと思う)を代々育てている家の物語で、 その家の夫婦の子としてエドガーが生まれる。 でもエドガーは生まれつき声を発することが出来ない。 耳は聴こえるけれど、、

そのエドガーの成長と 犬たちとの日々、、 そしてこの家をめぐる大人たちとの物語、、

物語の展開として、、 とある有名な古典作品が下敷きになっていて、、 途中でそのことに気づいてしまうと 悲しいかなストーリー展開がなんとなくわかってしまう。。 (…てことは 結末もこうなっていくのかも…)と想像してしまい、、 その古典作品なんか知らなかったら良かったのに、、と思いました。 そこは残念だったけど、、

でも、、 とにかく犬たちの描写力は素晴らしいです。 犬の不思議な動きとか、 人間に対する反応とか、 触れた時の体温とかまで、 じかに触っているみたい。 それがとってもわくわくもするし、、 ある時はもういたたまれなくなるし。。

ところどころ犬の視点で書かれる章もあって、、 犬が状況を感じ取り、 のみ込もうとしているときの、 混乱したり 何かを悟ったりするそういう気持ちが痛いほど伝わってくる。 犬とちょっとでも触れあった人ならわかるでしょうけれど、 犬たちはほんと一生懸命なのですよね、、 うまく理解できてなくてもとにかく必死で何かをしようとする。。

それに比べて、、 人間というもののわからなさ。 
少年エドガーが成長していく過程で、 両親に守られて何も不安なく暮らせていた幼年時代から、 外の世界や他人と向き合わなければならない時がやってくる。 普通なら、 長い子供時代を経て、 大学とか行って外の世界へ一歩踏み出し、 そうやって世界をだんだん学んでいくものだけれど、 そうではない場合もある。 突然として大人の世界と向き合わなくてはならなくなる子供もいる。  

 ***

とっても長い物語で、 このソーテル家の歴史や、 犬たちのこともすご~く詳しく書いてあるのだけれど、 人事のなりゆきに関してはちゃんと説明してくれない部分が多く、 関わってくる人についても いったいどんな人なんだろうとか、 どこで何やってきた人なんだろうとか、、 あの後あの人はどうなったんだろうとか、、 ミステリアスな部分が多いのも面白いです。

物語の後半は、 さながらサスペンスの味わいもあるし。

内容は全く違うけれども、 大自然と関係していく少年(青年)の成長物語という面では、 映画化もされた ジョン・クラカワーの『荒野へ』とも 少~しつながる部分もあるように思います。 どうやら ハリウッドの映画化の話もあるそうで、、 なるほどそうでしょう。 でもね、 あの犬の言葉で描かれているくだりは ぜひとも文章で味わって欲しいです。 たまらない気持ちになります。 翻訳も見事だと思います。

途中で別れた犬たちや、、 ラストでの犬たちのことが、、 いつまでも いつまでも 心に残る物語です。 

   

妖精本

2010-08-12 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
このところ、 またふつふつと本を読みたい熱が高まっていて、、 ずっとおざなりの本の話もたまには書いていこうか、、と。 、、と言うものの、 ちゃんと読書記とか書こうとすると結構時間がかかるので 写真でごまかしてしまおう。。。



私は妖精さんの姿は 見たことはありません。。 けど、、 街を歩いていて 自分にまとわりつくようについてくる揚羽蝶や、 足元でからからと渦を巻く枯葉の輪舞を見た時などには、 妖精さんに出会ったと思う事にしています。 あと、、 家の中で パキーン!と物音が鳴ったり、 光が走ったり、、ね、、 ポルターガイスト現象て言うんでしたっけ? 、、 他にいわゆる「虫の知らせ」、、というような事には何度も遭遇してるし。。。

なんて書くと、 なんだかオカルティックな人間のように思われるかもしれないですけれど、 偶然なら偶然でよし、、 日本的に言えばご先祖さまの霊の仕業でもよし、、 ケルト風に言えば妖精さんの手伝いでもよし、、 不可思議な体験は不可思議のままに。。。

それに、 妖精さんの登場する物語があることだけで世界が豊かになりますもの。 、、
一番最初に出会った妖精の種族は、 たぶんムーミントロールですけど、 誰もムーミンが妖精だなんて考えてなかったですよね、、 それから やっぱり「指輪物語」。 私は、 翅の生えたシェイクスピア風のフェアリーよりも、 森を音も無く駆け回る長身のエルフに惹かれますが、、(レゴラスのような)エルフの概念って、 トールキンが完成させたもので、 ケルトの伝承や、北欧神話などの中には あのような人間の美しい部分だけを凝縮したような「エルフ」って、 じつはあんまりいないんだと知った時にはちょっと しゅん、、でした。
 

イギリスの妖精―フォークロアと文学/キャサリン・ブリッグズ著 石井美樹子・山内玲子訳 筑摩書房

妖精 Who’s Who/キャサリン・ブリッグズ著 井村君江訳 ちくま文庫

ケルトの薄明/ウィリアム・バトラー イエイツ著 井村君江訳 ちくま文庫

ケルト幻想物語/ウィリアム・バトラー イエイツ編 井村君江訳 ちくま文庫

隊を組んで歩く妖精達―其他/ウィリアム・バトラー イエイツ編 山宮允訳 岩波文庫

少しだけ読むなら、 いろんな妖精の種類を絵つきで解説した『妖精 Who’s Who』と、 イエイツ先生が詩的な言葉でケルトの不思議な伝承や妖精たちへの想いをつづった『ケルトの薄明』がおすすめ。

 ***

文学とは、 象徴と出来事という道具を用いて、 そのときの情緒を表現することではないだろうか。 この荒廃した現世と同様に、 天国や地獄、 煉獄や妖精の国を表現するために必要とするのは、 情緒ではないだろうか。 いや、 あえて天国や地獄、 煉獄や妖精の国を一緒に混ぜてしまおうとしたり、 怪物の頭を人間の体につけようとしたり、 人間の霊魂を岩の中心部に入れようとする人がいなければ、 表現が見出せないのも情緒なのではないだろうか。 話の語り部よ、 心が望む餌食はなんであれ捕らえて、 恐れずに続けていって欲しい。 すべてのものは存在するのだし、 すべてのものは真実なのだ、 この地上はわれわれの足の下の小な塵に過ぎないのだ。
         (『ケルトの薄明』1話の語り手 より)

 ***

イエイツ先生の言葉のとおりだと思います。 、、だから、 鬼太郎の妖怪たちも可愛いし、 エイリアンだって、 ドラゴンだって、、 ゾンビだって(笑)、、 好きです。

、、この秋は 『指輪物語』10巻、、 もう一度読もうと思います。 、、あぁ、、エルフになりたい。。。 ならずとも、、 エルフに 逢いたい。。


オシァン―ケルト民族の古歌/ 中村徳三郎訳 岩波文庫
、、 一緒に写ってしまった『オシアン』は妖精物語ではありませぬ。 ケルト伝承(アイルランド&スコットランド )のバラッド。 フィン王一族(その子オシアン王子)の戦いの叙事詩、、ですね。 、、これ、 古本で買ったきり未読。 また読んだら書きましょう。


ら、、ラグナの年を 超えてしまった。。。

2010-05-27 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
昨日の余韻で、、
 
ファイナルファンタジーが懐かしくなって、、 きょうはyoutubeで見てしまいました。。。 10年ぶりのあのムービー。 ゲームを50時間くらいやって ようやく見れる あのラストのムービー。。。(動画で見れるなんて 贅沢な時代です) 、、なつかしい、、、 スコールが、、 リノアが、、、 そしてラグナ!

http://www.youtube.com/watch?v=OGzRjCRcL7Y

当時は、 FFVIIIの8等身キャラや、 余りSF的でない学園物という設定やラブストーリーに、 否定的な意見が結構あって、 たぶんVIIの方が人気があって、 だから昨日の作品が (あれは続編の映像作品だったのね)、、作られたりしたんだろうけど、 私はFF8大好きでした。 もう、、、 泣いた 泣いた、 ムービー見ながら 号泣しましたとも。。。 

http://www.youtube.com/watch?v=eoLndC2pkSA&NR=1

↑ゲーム本編よりも さらに感動したのが、 ラストのエンディングロールと一緒に流れる ビデオ映像。 卒業パーティーのシーンですね。 あの子たちの生き生きした表情や動きに、 これを作る為に (こんな本編じゃないシーンに)、、 どれほどのエネルギーと時間をスタッフが費やしたか、、。 後ろにちっちゃく映る 制服の子たちさえも愛しい。。。 ときどきピンボケになるビデオ画像も、、 じつはCG制作の 時間や経費や技術や、 その他もろもろの事情で あの演出にせざるを得なかったとか、、 でも どうしてもあれを見せたかったのだとか、、 何かで読んだ気がする。。 涙、 涙、、、 いまでも見て涙でちゃう。 CG技術の先駆者たちの偉業でしたね。

、、、私、、 メインキャラクターたちよりも、 ラグナが一番好きでした。 ラグナのストーリーをもう一度 本か何かでちゃんと知りたいくらい。。 でも、、、 FFのウィキを見てたら(>>)、、 いつの間にか、 ラグナの年齢を超してしまっていた~~~~~(汗)。。 ラストのムービーで、 ラグナの髪に白いものが混じっているのを しみじみ見ていたのに、、、

もう ラグナも、、 おじぃちゃんになっているかもしれないね。。。  

 ***

ところで、、、

FF8と、 ほんのちょっとばかり世界観が似ている (当時の私の愛読書でもあった)、、 レイモンド・E・フィーストさんのリフトウォーサーガシリーズ。。 『魔術師の帝国』ほか 10数冊にわたるファンタジー、、、 ずっと絶版でしたが、 新装丁で再販されていますね! 

レイモンド・E・フィーストの作品>> Amazon.co.jp

私は 米国でずっと続いている リフトウォー以降の物語や、 外伝の方が読みたくて、、 翻訳をずっと待ってはいるんだけど、、、 どうも見込みは薄いなぁ。。。 自分で洋書で読め、、って事ですよね。。。 1冊だけは洋書で持っているんだけど、、、

あ、、これでした、、 Krondor: The Betrayal: Riftwar Saga Bk. 1

、、 もう何年も経っているから、、 先に本編をまた読み返さないと、、、(だからいつも挫折する。。) ジミーちゃんは覚えてるけど、、 ロックリアってどんな人でしたっけ。。。 ダークエルフの世界も 半分忘れちゃったし。。。 

でも、 ファンタジーの世界は永遠ですよね。  ファンタジーは 自分の内部で 現実になる。。。 もうひとつの異世界に たいせつな友人たちが生きているような そんな気持ちになれます。



ちょっとシンクロニシティ : 翼のある子供たち

2010-05-18 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
先週読んでいた本の話。。。

図書館で、、 その日は べつに本を探していたわけではなかったんだけど、 棚を見ていたら、 『翼のある子供たち』 というタイトルと、(原題は When the Wind Blows)、  この表紙の写真が美しかったので 借りてみた、、 この本。 (ジェイムズ・パタースン著 ランダムハウス講談社文庫 2005年)

タイトルの通り、、

背中に翼をもつ美しい子供が出てくるお話です。 そんな特別な子供をめぐって、、 追うもの、 追われるもの、 助けるもの、、 そういう人たちが絡み合うお話なのですが、、、

 ***

ここからは ストーリーとは関係なく。。。 

おとなの女性も登場するのですが、、、 その場面、、 女性が、 聴いていたシェリル・クロウの歌を止めるところから始まります。 、、先週ちょうど シェリルとドイルがTV出演したこと書いたりしていたでしょう?(こちら>>) 、、、まぁ、、偶然!

というわけで、 ブルージーンズが似合って、 自然が好きなその女性は、 シェリル・クロウさんのイメージに決定! (作者も当然そういう意図で書いているんだと思います)

そして、、 シェリルとかかわることになるFBI捜査官が、、、これが、、  身長が6フィート2インチで、 砂色のブロンドで、 笑顔はトム・クルーズみたいで(ってどんな?)、、 歌もプロ並みに上手くて、、 あとなんだっけ、、 料理も上手で、、 L.L.Bean のカタログに出てくるような、、、って、  そんなFBI捜査官が何処におるっっっ! (ヒュー・ジャックマンじゃあるまいし、、笑)

、、と 突っ込みたくなりましたが、、 私的には ヒュー・ジャックマンさんはちょっと濃すぎるので、、 シェリルと一緒にネットで見ていた キース・アーバンさんに決定! (砂色のブロンド、、というのがポイント。 L.L.Beanも似合いそうだし)

シェリル・クロウも キース・アーバンも 誰?? 、、という方のために、、 二人が一緒に歌っている映像を。 (帽子のキッド・ロックさんもいらっしゃいますが、、)
http://www.youtube.com/watch?v=aoikD9L5YJo

 ***

と、 本とはこれっぽっちも関係無い事でスミマセン。 、、けど、、 これ↑くらい 美しい女の人と男の人が あれやこれやに関わっていくのを想像しながら読めるし、、 場面展開もまさにハリウッドアクション映画みたいに、 2,3ページごとに変化していくので、 たいへん面白く読めました、 あっという間に。

、、けれども、、

背中に翼をもつ美しい子供 という存在に、 どうしても ファンタジックな、 超現実的な、、 もっと言えば 天使と結びつくような聖なる存在を どうしても感じてしまうと、、 このお話の成り行きは、 なんだか物足りない、、、 というか、 別物だったのでした。 それに、、 When the Wind Blows、、 風が吹くとき、、、 何かが、、、 起きたのだろうか、、、。

でも、 いかにもハリウッド映画になりそうなお話、、 映画化が決定しているようです。(imdb>>

映画をもし、 見たいな、、と思われる方は、 本は読まない方がいいと思います(話が判り切っちゃうもの)、、 でも希望は、、 本の結末とは全然ちがう (できればもっと壮大な) 展開に映画はなっていたらいいな、、と 思います。

、、 そうそう、、 始祖鳥は実際は飛べなかった、、んですってね(毎日jp>>) 、、この研究結果は、 この物語にもわりと関係ありそうかも。 

それはまぼろしじゃない、、、 それとも、、?

2009-04-02 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
ポール・オースターの2002年作品『幻影の書 The Book of Illusions』が翻訳されて、昨秋10月に出版された。 昨年は多忙をきわめたのが少し祟ったのか、 秋以降その疲れですっかり文学からは遠ざかってしまっていた。 本を読んでいなかったわけではないけど、 この書も、出版を知らずに、今年になって書評を読んでやっと知ったというわけ。

ポール・オースターだから、、 言うわけではないけれど、 この人の本は、あるべき時に必ずやってくる、私に。。 必要な時に、 あるべきかたちで。。

オースターについては、ずっと前に書きました(2003.5月>>) それから、 HPの方でも、いくつかのオースター作品について載せました。一時期、夢中で読んだから。。(>>) あの頃から、9・11以降にオースターが書いた作品を読みたい、とずっと思っていましたが、 この『幻影の書』は2002年だから、その1作目なのか、 或いはすでに書かれつつあった作品なのかはわからないけれど、、 

ストーリー云々についてはここでは書きません。 自分の思いだけを。。なぜ、「あるべき時に」「あるべきかたちで」、、と私が思っているのか。 

、、人は、 なぜこんなにも、「偶然」と「必然」の境で揺れ動くのか。 偶然を、運命に、 必然を、 奇跡に、 変えてしまう人間の「想い」、、、 そしてそのことを妄信だと疑うもうひとりの自分との葛藤。 いくら答えを見つけようとしても、 どこにも答えは見つからないし、 答えがあるとしたら、それは自分の中にしか求められない。 だから尚、苦しい、 狂おしい。

これらは、ずっとオースター作品の中に流れていたものだと思うし、でも、オースターこそは、「偶然」が人を導く力を信じていた作家だと思うし、 時にロマンティック過ぎる程の「奇跡」さえ作品に書いてきた人だと思う。 、、、だけど、、『幻影の書』では、 やはり変化があるように思う。 そこでは、その「現実」の中では、、 失われたものは、決して元には戻らないから。。。 伝わらなかった言葉、伝わらなかった映像、、 それらがひとたびこの世界から失われた時には、 それらは、初めから(そして永遠に)存在しなかったと同様なのである。。  、、のか?、、

男が愛の言葉を告げる。 思いつく限りの、、愛の言葉を。 眼を閉じて聞いていた女性は言います。
(以下、ほんの少し、引用します。 ごめんなさい)

   ・・・いま目を開けたら、あなたはそこにいないかもしれないって思う。
  なるほど、わかるよ、と私は言った。でもその反面、目を開けなかったら
  僕がいるかいないかもわからないだろう?

女性は思ったのです。 もしかしたら、自分は、自分が言ってほしいと思う言葉を自分で聞いているだけなのかもしれない、、と。 Illusions 、、、。 だから、目を開けて確かめる、、 確かめたい、、。

、、、

ここに書いたことがこの書を説明してるなんて全く、これっぽっちも無いほど、ストーリーは重層的だし、登場人物も時代も複雑です。 でも、追い続けているのは、発せられた言葉、 そして発せられなかった言葉。

いろんな場面で涙しました。 上のシーンもそのひとつ。

あと、、、 私がものすごく悲しかった場面が、ひとつあります。 もしかしたらこれが9・11前と、後で大きく変わってしまったオースターの気持ちなのかしら、、と思ってしまうような。。。 どこにもそれを裏付ける事なんて書かれていませんけど。 、、それは、かつて「ルル・オン・ザ・ブリッジ」でも登場した、「青い石のかけら」、、、 そう、 このブログのタイトルとも大きな関係のある、ひとかけら。。。 それに似たものが、一瞬、今度の作品にも出てくるのだけれど、、 その扱いが、、。。 、、ちょっと悲しくて泣いてしまいました、、 もしオースターさんがここにいらしたら、 「あんまりだわ、、」と、べそかいてしまいそう。。。 でも、これは私の勝手な思い。 作品の中での意味がなんなのか、あるのか、ないのか、、 ほんの一瞬のものですから。 本当に私のただの呟き。

まぼろしは、、 見えた者には、幻ではない、、、?
、、、だけど、、 所詮、 まぼろしは、、 ただの 影、、?
 
 ***

『最後の物たちの国で』を、 もう一度読んでみようと思います。 それから、、 2002年以降で、まだ訳されていないオースター作品が5作品もあるなんて、、、 それも、せつない。。 原書で、、 読めないよ。。。 またべそかきそうだ。。。

counting the stars...

2007-08-01 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
8月になりました。

りんどうの青は、8月の夕闇色と、

旧盆をむかえる灯籠の走馬灯と、

ちろちろ燃える線香花火を 想い出させるから

ちょっとせつなくなる。

でも、 8月を象徴する好きな花だということはかわらない。

 ***

いま、読んでいる本。





デイヴィッド・アーモンド著、 金原 瑞人訳 『星を数えて』

このアーモンドさんの本は、前にも 『火を喰う者たち』や、『肩胛骨は翼のなごり』
について書きました(>>)。 
どれも、ヤングアダルト向け、というジャンルになっているけれど、、 なんとなく
青春まっただなかの人でなくても、ふと昔を振り返り、いまはいない誰かを思い出すことの多くなった
そんな世代の人にも、きっと心に触れる本ではないかと思う。

『星を数えて』、、は、
Amazonの説明文を読んでいただければ、わかるとおりの、19の物語。
、、アーモンドさんのこれまで読んだ本にも共通して感じていた、
とても強い喪失の記憶と、
でも、その喪失の記憶こそが自分を生かしてくれているような、救済のちから、、
その原点にあったものが、 この『星を数えて』に書かれていることだったんだな、
と気づかされる内容になっていると思います。

なんだかね、自分もそれと同じものを持っている気がするから、この本はあんまりスイスイ読めなくて、、
でも、、
8月だし、 私にとっても亡き人を想う月だし、
いい時に出会った本かもしれないな、と思うのです。。 

 ***

なんて、 追憶にしずんでいるわけではないのですよ。 今日は暑くなりそうですね!
これから用事を済ませがてら、
いつもの街をちょっとぶらぶらして来ようっと。

昨日とどいた、超ウレシイCD&DVDのお話は、またします~♪

8月って、なんだか短い気がしない、、?
夏を満喫されますように!