私にとって初めてのエリザベス・ボウエン作品です。 『パリの家』 1935年の作品。
前回の イアン・マキューアンの『贖罪』に大感動し、 その作中でマキューアンさんがとても興味深い形でエリザベス・ボウエンに言及していたものですから、 これは読まなくては!と思ったわけです。
『贖罪』でイアン・マキューアンは1930年代の英国を舞台に、 その時代の文学作品に則って恋愛物語を書きましたが、 ならば 当時のまさに同時代の作家が書いた恋愛小説は? と興味が湧きました。
エリザベス・ボウエンの翻訳書は近年 晶文社や国書刊行会から出ているのですが、 とても難解な文章を書く作家だとか、 翻訳で読んでも難しいとか目にしていたのでなかなか手を出せず、、 どの作品にしようかいろいろ迷って、 1977年のこの本を選びました。
『パリの家』 エリザベス・ボウエン著 阿部知二・ 阿部良雄 (翻訳) 集英社文庫 1977年
結論から言えば とても楽しめましたし、 エリザベス・ボウエン好きになりました。 でも、 イアン・マキューアンの『贖罪』を読んだからこそ楽しめたに違いありません。 裏を返せば 『贖罪』の特に第一部の少女の想像や妄想の文章が面白く読めれば、 この『パリの家』もきっと面白いと感じられるのでは と思います。
『パリの家』と『贖罪』は構成も似ていて、 第一部が少女の視点で描かれ、 第二部は『パリの家』のほうは10年前の恋人たちの物語になり、 第三部でふたたび現在の少女の視点に戻ります。
英国の11歳の少女、 彼女は母を喪い、 祖母のいる南仏へ知人の女性に伴われて鉄道の旅に出ます。 パリからは別の女性が同伴して旅を続けるため、 少女は夜までパリに留まる事になり、 祖母の旧知の婦人の家で半日あまりを過ごすのです。 その家にはもうひとり、 9歳の男の子が来ていて、 彼もまたこの家で初めて会う母を待っているところなのでした。 少年はこの日 自分を産んだ母に初めて会うというのです。
母を喪った少女と、 両親を知らない少年との出会い。。 見知らぬひとの家で過ごす見知らぬ土地パリでの仮初の一日。。 多感な少女の緊張や好奇心や、 大人への容赦ない観察眼、 初めて出会った少年との子供ならではの率直かつ冷淡なやりとり。。
少女の身の上や、 生母に初めて会うという少年の背景がよくわからないこと、、 そしてこのパリの家の女主人とその娘がどのような人物なのかもわからず、 少女の視点で物語が進んでいくあたりはミステリー小説のような謎めいた雰囲気もあります。
そして第二部は、、 (ネタばれかもしれませんけれど、 でもこれは明かしても良いのではないかしら…)
、、 9歳の少年の、、 まだ見ぬ《母》の物語になります。 10年前にさかのぼって、 何があったのかの物語。
***
第一部の少女の観察眼で描かれた物語も緻密でしたが、、 第二部の女性の心理描写には エリザベス・ボウエンという作家の知性を強く感じました。
女性の意識の変化を丁寧にえがいていくのですが、 感情のうつりかわりを 独白のように次から次へとつれづれに書いていくというより、 その女性が行動すること、 目にするもの、 その意味や理由や目的をきわめて自己分析的に解明していくという感じ。。 文章全体がなんだか数学の長い長い証明問題を読み解いていくような感じなのです。 とても分析的で論理的、 哲学的とも言えるでしょうか。。 エリザベス・ボウエンという方はすごく頭脳明晰なひとだったのではないかしら、、 と思いました。
だから 文章が難解といえば難解なんだけれども、 はっとするほど的を得ていると感じることもできて、、
来年からの五月は違ったものになるだろうという期待のせいで、今年の五月は彼女にとって、雲の前の一本の木のように、なにかしらもろいと感じられた、というか、それは今からもう過去に属していた。(p200)
自分自身であることの重みが、 時刻(とき)を打つ時計さながら彼女の上にのしかかってきた。・・・(略)・・・まだ「前」であるあいだは、「後」というものはなんの力ももたないが、後になってしまえば、「後」は王権であり力であり栄光である。 いま自分は何をしているのだろう? とあなたは自問したりはしない。 あなたは知っているからだ。 だが、自分は何をしたのだろう? という自問に対する答えを、あなたはけっして知ることがないだろう。 (p250)
分りにくい文章だけれども、 《愛》に向かっていく女性の想いとして読んでみると、 この証明問題のような文章も真理をついたものと思えるのです。
女性の内部意識の描写はこのように分析的、論理的な印象ですが、 ドラマもちゃんと用意されており、 登場人物の舞台も、 ドーヴァー海峡をはさんだ英国とフランスの海岸の街や、 アイルランドも登場し、 風景描写も鮮やかで、 そのためにさほど難解さやきゅうくつな感じはせず、 愛に揺れ動く女性のドラマを楽しむことができました。
***
そうして 第二部の《愛》の物語を読んだ後で 第三部でふたたび《パリの家》へ舞台が戻って、 そこで仮の時間というか、 少女も少年も、 大人の事情でこの家へやられ、 《待つ》時間を強いられているという物語に戻ってくると、 子どもらしい残酷さや辛辣な観察眼をもつこの二人の子供たちが、 なんとも切なくか弱く愛おしいものに思われ、、
こうした物語構成をつくりあげたエリザベス・ボウエンは なるほど見事だな、、と納得するのでした。。
すごく面白く、 小説の醍醐味を感じられる作品でした。
***
来年からの五月は違ったものになるだろうという期待のせいで、今年の五月は彼女にとって、 ・・・それは今からもう過去に属していた。
これは コロナの時間を生きている今の私の想いでもあります。。 正直、、 過去に属する時間を生きているのは本意ではない。。 けれど、、 この不本意な時間を すでに過去のものと思うことで 先を見据える気持ちを持とうとしているのです。。
そういう《待機》の時間のなかでこそ エリザベス・ボウエンさんのような緻密な作品とじっくり向き合う事が出来たのかも… よい時間でした。
明日から ゴールデンウイークですね。
愉しい日々を…
前回の イアン・マキューアンの『贖罪』に大感動し、 その作中でマキューアンさんがとても興味深い形でエリザベス・ボウエンに言及していたものですから、 これは読まなくては!と思ったわけです。
『贖罪』でイアン・マキューアンは1930年代の英国を舞台に、 その時代の文学作品に則って恋愛物語を書きましたが、 ならば 当時のまさに同時代の作家が書いた恋愛小説は? と興味が湧きました。
エリザベス・ボウエンの翻訳書は近年 晶文社や国書刊行会から出ているのですが、 とても難解な文章を書く作家だとか、 翻訳で読んでも難しいとか目にしていたのでなかなか手を出せず、、 どの作品にしようかいろいろ迷って、 1977年のこの本を選びました。
『パリの家』 エリザベス・ボウエン著 阿部知二・ 阿部良雄 (翻訳) 集英社文庫 1977年
結論から言えば とても楽しめましたし、 エリザベス・ボウエン好きになりました。 でも、 イアン・マキューアンの『贖罪』を読んだからこそ楽しめたに違いありません。 裏を返せば 『贖罪』の特に第一部の少女の想像や妄想の文章が面白く読めれば、 この『パリの家』もきっと面白いと感じられるのでは と思います。
『パリの家』と『贖罪』は構成も似ていて、 第一部が少女の視点で描かれ、 第二部は『パリの家』のほうは10年前の恋人たちの物語になり、 第三部でふたたび現在の少女の視点に戻ります。
英国の11歳の少女、 彼女は母を喪い、 祖母のいる南仏へ知人の女性に伴われて鉄道の旅に出ます。 パリからは別の女性が同伴して旅を続けるため、 少女は夜までパリに留まる事になり、 祖母の旧知の婦人の家で半日あまりを過ごすのです。 その家にはもうひとり、 9歳の男の子が来ていて、 彼もまたこの家で初めて会う母を待っているところなのでした。 少年はこの日 自分を産んだ母に初めて会うというのです。
母を喪った少女と、 両親を知らない少年との出会い。。 見知らぬひとの家で過ごす見知らぬ土地パリでの仮初の一日。。 多感な少女の緊張や好奇心や、 大人への容赦ない観察眼、 初めて出会った少年との子供ならではの率直かつ冷淡なやりとり。。
少女の身の上や、 生母に初めて会うという少年の背景がよくわからないこと、、 そしてこのパリの家の女主人とその娘がどのような人物なのかもわからず、 少女の視点で物語が進んでいくあたりはミステリー小説のような謎めいた雰囲気もあります。
そして第二部は、、 (ネタばれかもしれませんけれど、 でもこれは明かしても良いのではないかしら…)
、、 9歳の少年の、、 まだ見ぬ《母》の物語になります。 10年前にさかのぼって、 何があったのかの物語。
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第一部の少女の観察眼で描かれた物語も緻密でしたが、、 第二部の女性の心理描写には エリザベス・ボウエンという作家の知性を強く感じました。
女性の意識の変化を丁寧にえがいていくのですが、 感情のうつりかわりを 独白のように次から次へとつれづれに書いていくというより、 その女性が行動すること、 目にするもの、 その意味や理由や目的をきわめて自己分析的に解明していくという感じ。。 文章全体がなんだか数学の長い長い証明問題を読み解いていくような感じなのです。 とても分析的で論理的、 哲学的とも言えるでしょうか。。 エリザベス・ボウエンという方はすごく頭脳明晰なひとだったのではないかしら、、 と思いました。
だから 文章が難解といえば難解なんだけれども、 はっとするほど的を得ていると感じることもできて、、
来年からの五月は違ったものになるだろうという期待のせいで、今年の五月は彼女にとって、雲の前の一本の木のように、なにかしらもろいと感じられた、というか、それは今からもう過去に属していた。(p200)
自分自身であることの重みが、 時刻(とき)を打つ時計さながら彼女の上にのしかかってきた。・・・(略)・・・まだ「前」であるあいだは、「後」というものはなんの力ももたないが、後になってしまえば、「後」は王権であり力であり栄光である。 いま自分は何をしているのだろう? とあなたは自問したりはしない。 あなたは知っているからだ。 だが、自分は何をしたのだろう? という自問に対する答えを、あなたはけっして知ることがないだろう。 (p250)
分りにくい文章だけれども、 《愛》に向かっていく女性の想いとして読んでみると、 この証明問題のような文章も真理をついたものと思えるのです。
女性の内部意識の描写はこのように分析的、論理的な印象ですが、 ドラマもちゃんと用意されており、 登場人物の舞台も、 ドーヴァー海峡をはさんだ英国とフランスの海岸の街や、 アイルランドも登場し、 風景描写も鮮やかで、 そのためにさほど難解さやきゅうくつな感じはせず、 愛に揺れ動く女性のドラマを楽しむことができました。
***
そうして 第二部の《愛》の物語を読んだ後で 第三部でふたたび《パリの家》へ舞台が戻って、 そこで仮の時間というか、 少女も少年も、 大人の事情でこの家へやられ、 《待つ》時間を強いられているという物語に戻ってくると、 子どもらしい残酷さや辛辣な観察眼をもつこの二人の子供たちが、 なんとも切なくか弱く愛おしいものに思われ、、
こうした物語構成をつくりあげたエリザベス・ボウエンは なるほど見事だな、、と納得するのでした。。
すごく面白く、 小説の醍醐味を感じられる作品でした。
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来年からの五月は違ったものになるだろうという期待のせいで、今年の五月は彼女にとって、 ・・・それは今からもう過去に属していた。
これは コロナの時間を生きている今の私の想いでもあります。。 正直、、 過去に属する時間を生きているのは本意ではない。。 けれど、、 この不本意な時間を すでに過去のものと思うことで 先を見据える気持ちを持とうとしているのです。。
そういう《待機》の時間のなかでこそ エリザベス・ボウエンさんのような緻密な作品とじっくり向き合う事が出来たのかも… よい時間でした。
明日から ゴールデンウイークですね。
愉しい日々を…